千葉市若葉区桜木町に国内最大級の貝塚の国指定史跡・加曽利貝塚があります。
ここに復元された竪穴式住居が展示されています。
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このように竪穴式住居は70cm~80cm円形に掘って、掘ったところに円形になるように柱を6本立て中にかまども作ります。別に縦型の洞穴に住むわけではないです。
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竪穴式住居は縄文時代や弥生時代の住居形態と思われている方が大部分だと思います。自分もそうでした。
千葉市中央区南生実町にある埋蔵物文化財センター内に竪穴式住居が展示されてますが、センターの人の説明で展示されている竪穴式住居は平安時代のものと聞き驚きました。
実は竪穴式住居は縄文時代から鎌倉時代、地域によっては室町時代までの長い年月、日本人の庶民の一般住居だったんです。
せっかくなので、加曽利貝塚の史跡の一部。
北貝塚貝層断面観覧施設と貝層断面。
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南貝塚貝層断面観覧施設と貝層断面。
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いたるところにある貝殻。
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
今、加曽利貝塚が問題になっているのが、このいたるところにある貝殻なんです。
千葉市は文化庁の国指定史跡になる前に加曽利貝塚博物館を作りましたが、国指定史跡に認定され文化庁は史跡内に博物館やそれに従属する駐車場があるのは好ましくないとして移転を通告していましたが、千葉市は通告を無視、さらに市民にも知らせていなかったのです。(南北2つの貝層断面観覧施設とは別に博物館があります。)
いたるところに貝殻があるせいで地面には貝殻があるのが普通になっています。
いたるところにある貝殻も国指定史跡という感覚がないのです。つまりは千葉市は史跡を破壊し続けているということです。
また、展示されている竪穴式住居にしても、住居跡は環状になっていて中央には貝殻はないと説明があり、実際の竪穴式住居の穴の跡は入り口が中央に向いているのですが展示されているすべての竪穴式住居は入り口が外に向いているのです。中央部分の特異性を考えたときなぜ入り口が中央に向いているのか外向きではだめなのかは、生活環境やその宗教に重要な手がかりになるような気がします。
さらに、大須賀代官旧宅を史跡内に移転させた意味がよく分かりません。博物館は貝塚の歴史や埋蔵物の展示などそれなりに意味はありますが、旧宅は貝塚にはまったく関係ないので動物公園に移転してもいいのではないのでしょうか。
博物館にしても埋蔵物文化財センターと統合するか千葉市郷土博物館に移転してもなんら問題はないと思われます。
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興味ある方は、コメントまたはメールをどうぞお願いします。
ここに復元された竪穴式住居が展示されています。
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このように竪穴式住居は70cm~80cm円形に掘って、掘ったところに円形になるように柱を6本立て中にかまども作ります。別に縦型の洞穴に住むわけではないです。
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竪穴式住居は縄文時代や弥生時代の住居形態と思われている方が大部分だと思います。自分もそうでした。
千葉市中央区南生実町にある埋蔵物文化財センター内に竪穴式住居が展示されてますが、センターの人の説明で展示されている竪穴式住居は平安時代のものと聞き驚きました。
実は竪穴式住居は縄文時代から鎌倉時代、地域によっては室町時代までの長い年月、日本人の庶民の一般住居だったんです。
せっかくなので、加曽利貝塚の史跡の一部。
北貝塚貝層断面観覧施設と貝層断面。
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南貝塚貝層断面観覧施設と貝層断面。
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いたるところにある貝殻。
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
今、加曽利貝塚が問題になっているのが、このいたるところにある貝殻なんです。
千葉市は文化庁の国指定史跡になる前に加曽利貝塚博物館を作りましたが、国指定史跡に認定され文化庁は史跡内に博物館やそれに従属する駐車場があるのは好ましくないとして移転を通告していましたが、千葉市は通告を無視、さらに市民にも知らせていなかったのです。(南北2つの貝層断面観覧施設とは別に博物館があります。)
いたるところに貝殻があるせいで地面には貝殻があるのが普通になっています。
いたるところにある貝殻も国指定史跡という感覚がないのです。つまりは千葉市は史跡を破壊し続けているということです。
また、展示されている竪穴式住居にしても、住居跡は環状になっていて中央には貝殻はないと説明があり、実際の竪穴式住居の穴の跡は入り口が中央に向いているのですが展示されているすべての竪穴式住居は入り口が外に向いているのです。中央部分の特異性を考えたときなぜ入り口が中央に向いているのか外向きではだめなのかは、生活環境やその宗教に重要な手がかりになるような気がします。
さらに、大須賀代官旧宅を史跡内に移転させた意味がよく分かりません。博物館は貝塚の歴史や埋蔵物の展示などそれなりに意味はありますが、旧宅は貝塚にはまったく関係ないので動物公園に移転してもいいのではないのでしょうか。
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旅程を考えていてひとつ疑問が出てきました。
9月4日に和田義盛を上総広常のもとに遣いを出して戻ってきたのが9月6日なんです。
往復で3日、片道1日半。
広常は御宿から一ノ宮のどこかにいたとしても、州崎から御宿まで約70km、一ノ宮まで約90kmあります。1日の行程を30kmとすると片道だけで2日から3日かかることになります。1日半では40km前後しか進むことが出来ないので広常の館にはたどり着けないのです。
版図拡大で上総国全土を勢力範囲にした広常が隣国の安房国にアンテナを張っていないと言うことはありえないと思うのです。それも頼朝が上陸したのは安房と上総の国境の勝山付近なので、広常は頼朝上陸の翌々日の9月2日には知っていたのではないでしょうか。
9月3日に発ち9月5日に安房鴨川あたりで和田義盛に合ったのではないでしょうか。
和田義盛は安房に所領がある三浦氏の支族でかなり勝気ある武将。広常もまさか義盛が使者としてくるとは思わなかったと思います。「千葉常胤は頼朝についているから南から北から滅ぼしてやる」、くらい言ったかも知れません。
9月7日に館に戻り、上総国各地から兵を集めます。2万の軍勢と言われていますが、これが2千でも人集めに各地に行く往復の時間は短くなるわけではなく同じです。往復で6日から8日かかったでしょう。
9月15日に館を出発。一ノ宮なら国府の市川まで63km、御宿なら85km。大軍の行軍は1日20km(豊臣秀吉の中国大返しが2万の軍勢で1日20km)なので3日から4日かかるので9月18日か19日に市川に着くことになります。
広常は頼朝に非難される謂れはまったくないでしょう。
広常も義盛も北条氏に滅ぼされてしまったのでここらの経緯はまったくの想像でしかありえません。
広常の屋敷が在ったとされる長生郡一宮町の玉前神社(たまさきじんじゃ)。
撮影は2008年5月6日。
玉前神社は上総国一ノ宮で式内社です。
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境内には国歌にある『さざれ石』があります。
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(Canon IXY 70)
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9月4日に和田義盛を上総広常のもとに遣いを出して戻ってきたのが9月6日なんです。
往復で3日、片道1日半。
広常は御宿から一ノ宮のどこかにいたとしても、州崎から御宿まで約70km、一ノ宮まで約90kmあります。1日の行程を30kmとすると片道だけで2日から3日かかることになります。1日半では40km前後しか進むことが出来ないので広常の館にはたどり着けないのです。
版図拡大で上総国全土を勢力範囲にした広常が隣国の安房国にアンテナを張っていないと言うことはありえないと思うのです。それも頼朝が上陸したのは安房と上総の国境の勝山付近なので、広常は頼朝上陸の翌々日の9月2日には知っていたのではないでしょうか。
9月3日に発ち9月5日に安房鴨川あたりで和田義盛に合ったのではないでしょうか。
和田義盛は安房に所領がある三浦氏の支族でかなり勝気ある武将。広常もまさか義盛が使者としてくるとは思わなかったと思います。「千葉常胤は頼朝についているから南から北から滅ぼしてやる」、くらい言ったかも知れません。
9月7日に館に戻り、上総国各地から兵を集めます。2万の軍勢と言われていますが、これが2千でも人集めに各地に行く往復の時間は短くなるわけではなく同じです。往復で6日から8日かかったでしょう。
9月15日に館を出発。一ノ宮なら国府の市川まで63km、御宿なら85km。大軍の行軍は1日20km(豊臣秀吉の中国大返しが2万の軍勢で1日20km)なので3日から4日かかるので9月18日か19日に市川に着くことになります。
広常は頼朝に非難される謂れはまったくないでしょう。
広常も義盛も北条氏に滅ぼされてしまったのでここらの経緯はまったくの想像でしかありえません。
広常の屋敷が在ったとされる長生郡一宮町の玉前神社(たまさきじんじゃ)。
撮影は2008年5月6日。
玉前神社は上総国一ノ宮で式内社です。
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境内には国歌にある『さざれ石』があります。
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(Canon IXY 70)
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治承4年(西暦1180年)
8月23日、石橋山の戦いに敗れる。
8月28日、安房国へ脱出。
8月29日、安房国平北郡猟島(現在の勝山あたり)へ上陸。
9月4日、上総広常、千葉常胤に遣いを送る。洲崎明神で戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進。
9月6日、広常より帰参。
9月8日、北条時政、甲斐源氏を味方につけるべく甲斐へ。
9月9日、千葉より帰参。
9月13日、安房国を出る。千葉氏下総国府に襲撃し下総国目代を討つ。
9月14日、千葉氏結城浜に下総守判官代藤原親政を生け捕る。
9月15日、北条時政、甲斐に到着。
9月17日、下総国府で千葉一族と合流。藤原親政が引き出される。
9月19日、上総広常隅田川辺りで合流。
10月2日、武蔵国へ入る。
10月6日、鎌倉入り。
10月7日、鶴岡八幡宮を遠くから拝む。
10月20日、富士川の戦い。
ここでの検証は治承4年9月13日から9月17日の間を考えてみます。
4泊5日の旅程です。
それでは1日にどれくらい進むことが出来たのでしょう。
9月4日に安達盛長を千葉常胤に遣いを送って、9月9日に帰ってきています。使いが出来る範囲で急いで(途中寄り道しない)往復したとすると、片道3日。州崎と千葉の距離は約90kmなので1日30kmと考えられます。
歩兵を率いた軍の最速は、建武2年(西暦1335年)12月末から翌年にかけて関東から京へ上った北畠顕家の600kmを半月の1日平均約40km。豊臣秀吉の中国大返しは200kmを10日で1日平均20kmです。
当時の更級日記によると出発は日の出とともに夕方2時か3時には夕食の支度をし始めています。日の出は5時40分ころなので3時までとして8時間、時速4kmで30kmちょっと進めるので徒歩を基準に考えた方がいいでしょう。
1日の旅程は30km前後として考えます。
東京湾沿いと外房の2つのコースがありますが、距離は外房一ノ宮経由のコースは最短150kmで一ノ宮から茂原へ出て、現在の茂原街道で房総半島を横断するコースで茂原を通り越し大網から西進や成東から西進は日進量で不可能です。
しかし、上総広常の居住地とされている御宿や大原や一ノ宮を通ったのなら頼朝は広常と行動したのではないでしょうか。大軍を率いて威勢を示した方が関東の豪族により早い時期から味方になったと思います。
内房コースは120kmです。
どちらのコースを通っても八幡宿、菊間、草刈あたりで村田川を渡り下総国へ入ったと考えます。
頼朝と広常が行動を共にするのが9月19日なのでここでは内房コースをとります。
9月13日 州崎~勝山 25km
9月14日 勝山~佐貫 22km
9月15日 佐貫~飯富神社 24km
9月16日 飯富神社~千葉 27km
9月17日 千葉~市川 25km
おしゃれな駅舎のJR内房線・館山駅。
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鹿野山・マザー牧場から見た上総・安房の国境。
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(Canon IXY 70)
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8月23日、石橋山の戦いに敗れる。
8月28日、安房国へ脱出。
8月29日、安房国平北郡猟島(現在の勝山あたり)へ上陸。
9月4日、上総広常、千葉常胤に遣いを送る。洲崎明神で戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進。
9月6日、広常より帰参。
9月8日、北条時政、甲斐源氏を味方につけるべく甲斐へ。
9月9日、千葉より帰参。
9月13日、安房国を出る。千葉氏下総国府に襲撃し下総国目代を討つ。
9月14日、千葉氏結城浜に下総守判官代藤原親政を生け捕る。
9月15日、北条時政、甲斐に到着。
9月17日、下総国府で千葉一族と合流。藤原親政が引き出される。
9月19日、上総広常隅田川辺りで合流。
10月2日、武蔵国へ入る。
10月6日、鎌倉入り。
10月7日、鶴岡八幡宮を遠くから拝む。
10月20日、富士川の戦い。
ここでの検証は治承4年9月13日から9月17日の間を考えてみます。
4泊5日の旅程です。
それでは1日にどれくらい進むことが出来たのでしょう。
9月4日に安達盛長を千葉常胤に遣いを送って、9月9日に帰ってきています。使いが出来る範囲で急いで(途中寄り道しない)往復したとすると、片道3日。州崎と千葉の距離は約90kmなので1日30kmと考えられます。
歩兵を率いた軍の最速は、建武2年(西暦1335年)12月末から翌年にかけて関東から京へ上った北畠顕家の600kmを半月の1日平均約40km。豊臣秀吉の中国大返しは200kmを10日で1日平均20kmです。
当時の更級日記によると出発は日の出とともに夕方2時か3時には夕食の支度をし始めています。日の出は5時40分ころなので3時までとして8時間、時速4kmで30kmちょっと進めるので徒歩を基準に考えた方がいいでしょう。
1日の旅程は30km前後として考えます。
東京湾沿いと外房の2つのコースがありますが、距離は外房一ノ宮経由のコースは最短150kmで一ノ宮から茂原へ出て、現在の茂原街道で房総半島を横断するコースで茂原を通り越し大網から西進や成東から西進は日進量で不可能です。
しかし、上総広常の居住地とされている御宿や大原や一ノ宮を通ったのなら頼朝は広常と行動したのではないでしょうか。大軍を率いて威勢を示した方が関東の豪族により早い時期から味方になったと思います。
内房コースは120kmです。
どちらのコースを通っても八幡宿、菊間、草刈あたりで村田川を渡り下総国へ入ったと考えます。
頼朝と広常が行動を共にするのが9月19日なのでここでは内房コースをとります。
9月13日 州崎~勝山 25km
9月14日 勝山~佐貫 22km
9月15日 佐貫~飯富神社 24km
9月16日 飯富神社~千葉 27km
9月17日 千葉~市川 25km
おしゃれな駅舎のJR内房線・館山駅。
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鹿野山・マザー牧場から見た上総・安房の国境。
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(Canon IXY 70)
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寒川神社は千葉市中央区にあります。
JR本千葉駅を県道に出て、西(左)に進み2つ目の港町の信号を南(左)に500mほど行ったところにあります。この通りが房総往還(バス通り)です。
房総往還(バス通り)に面して鳥居があるので分かり易いです。
寒川神社は延喜式神名帳に記載されていますが、論社(特定されていない神社)として船橋市三山にある下総国二宮の二宮神社と千葉市中央区の寒川神社があります。
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
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蘇我比咩(ひめ)神社は千葉市中央区にあります。
JR蘇我駅西口から国道方向に歩いて二つ目の通りが房総往還(バス通り)で、房総往還(バス通り)を南へ900mほど行ったところの左側にありますが、鳥居は房総往還(バス通り)に面していないので少し分かり辛いかもしれません。
延喜式神名帳(延喜5年、西暦927年)に記載されている古い神社です。
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
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延喜式神名帳(延喜5年、西暦927年)に記載されている古い神社です。
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
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飯香岡八幡宮は千葉市ではないですが市原市、千葉市の市境の神社で重要な位置と地位のある神社です。
JR内房線八幡宿駅西口(海側)からすぐの江戸時代の船橋から館山に至る房総往還(バス通り)沿いにあります。JRから西に向かって房総往還(バス通り)、新道、国道と南北に道路があり飯香岡八幡宮は房総往還(バス通り)と新道にはさまれた場所にあります。鳥居は房総往還(バス通り)と新道側の両方にありますが、新道側の海側に向いている方が昔からの鳥居のようです。
白鳳4年(西暦664年)に一国惣社八幡太神宮として創建されました。
仲秋の名月の日に秋季大祭があり昔は大祭の日に御神輿が出ていたように記憶するのですが、2014年は9月14日の日曜日です。
9時30分頃宮出し、13時頃町内渡し、全5社の御神輿が拝殿前に揃います。17時10分頃から境内にて神輿納めになります。
新道から見た飯香岡八幡宮境内。
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新道側から参道を行くと鳥居があります。
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拝殿。拝殿に向かって左側が源頼朝の逆さ銀杏、右側が夫婦銀杏。
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境内にある放生池。
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
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白鳳4年(西暦664年)に一国惣社八幡太神宮として創建されました。
仲秋の名月の日に秋季大祭があり昔は大祭の日に御神輿が出ていたように記憶するのですが、2014年は9月14日の日曜日です。
9時30分頃宮出し、13時頃町内渡し、全5社の御神輿が拝殿前に揃います。17時10分頃から境内にて神輿納めになります。
新道から見た飯香岡八幡宮境内。
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新道側から参道を行くと鳥居があります。
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拝殿。拝殿に向かって左側が源頼朝の逆さ銀杏、右側が夫婦銀杏。
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境内にある放生池。
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(Canon IXY DIGITAL 510IS)
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治承4年、西暦1180年。
9月17日、源頼朝、安房から上総を経て下総の国府に行き千葉常胤と落ち合う。
9月19日、源頼朝、隅田川辺りで上総広常が合流。
今から834年前に源頼朝一行300騎は、千葉市のどこかを通ったはずである。
通ったはずと言うのも鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」に書かれていないためである。
「吾妻鏡」は北条家が書いたもので、この一行の中に北条家が居なかったためと一行に従っていた三浦氏は北条家に滅ぼされているため、「吾妻鏡」に詳細が抜け落ちたと思われる。わずかな手がかりは北条家が千葉氏に聞き及んだ記録しかない。
ここでは、千葉市南部。上総国と下総国の境の村田川から千葉市中央部に流れている都川までのわずか8kmを考えてみたい。
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今から834年前に源頼朝一行300騎は、千葉市のどこかを通ったはずである。
通ったはずと言うのも鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」に書かれていないためである。
「吾妻鏡」は北条家が書いたもので、この一行の中に北条家が居なかったためと一行に従っていた三浦氏は北条家に滅ぼされているため、「吾妻鏡」に詳細が抜け落ちたと思われる。わずかな手がかりは北条家が千葉氏に聞き及んだ記録しかない。
ここでは、千葉市南部。上総国と下総国の境の村田川から千葉市中央部に流れている都川までのわずか8kmを考えてみたい。
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