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世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

グローバル化の足跡, 1860/咸臨丸出航->1890/エルトゥールル号海難

2018-11-06 20:24:14 | 連絡
2018/8/1,勝海舟は1860年(万永元年)には蒸気軍艦咸臨丸で艦長として日(14代徳川家茂1858->1866)米(15代米国大統領ジェームズ・ブキャナン・ジュニア1857->1861)修好通商条約の批准のため米国に出航した。同船には木村 芥舟司令官の従者福沢諭吉や通訳官・船長・航海士ジョン万次郎らも搭乗。勝海舟は、帰国後神戸に海軍の学校設立に尽力。近代国家へ向けた国内の礎作りや海軍の発展などに貢献。その後、戊辰(ぼしん)戦争が始まり、勝海舟は敵方の西郷隆盛と交渉。1868年、明治元年戦わずに江戸城開城に成功し江戸の町を戦火から守った。この交渉は薩摩藩邸で行われました。その後、官軍が本陣を置いた池上本門寺で海舟と官軍代表との最後の談判が行わた。1899年、明治32年、脳出血で77歳没、http://www.city.ota.tokyo.jp/kuho/kuho_web/20180801/tokusyu.html
2018/10/10,「ガーデンレストラン 人形町今半 池上本門寺店」。勝海舟と西郷隆盛の無血開場会見が行われたといわれる松濤園を眺めながら味わえます。「古民家カフェ 蓮月」。大田垣蓮月という幕末の尼僧が西郷隆盛に「あだ味方 勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の 人と思へば」(敵味方に分かれて戦い、勝ち負けを争うのも哀れではないか 同じ日本に生まれた人同士だというのに)という歌を送りました。この蓮月の思想が自他平等。それを洒落て「自他平丼」。http://www.city.ota.tokyo.jp/kuho/kuho_plus/kuho_plus20181001.html
2017/09/19,勝海舟 感動人生, https://www.youtube.com/watch?v=1y-neTon92A
Y/M/D,隆盛は、1877年(明治10年)の西南戦争で、自らが創った明治新政府(太政大臣三条実美1871->1884)によって滅ぼされた。「西郷隆盛の留魂祠」の横には、勝海舟夫妻の墓が建てられている。http://www8.plala.or.jp/bosatsu/ikegami/senzoku-saigo.htm
(-)2016/10/4,靖国神社に祀られるのは「国のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた当時の「国=明治政府」に刃向かった幕府軍・会津軍や、西南戦争で敗れた西郷隆盛らは「賊軍」となるため、祀られる“資格”がない。https://www.news-postseven.com/archives/20161004_453226.html
2018/5/5、幕末(14代徳川家茂1858->1866)の1863年に英国(37代英国ヘンリー・ジョン・テンプル首相1859->1865、英国女王ビクトリア1837->1901)留学を始めた「長州ファイブ」の中のひとりが、鉄道庁長官を務め「鉄道の父」と呼ばれる井上勝(1843~1910年、67歳没)だ。75年には客車用などの材料となる「木細工」の英国輸入から国産への切り替え、列車増発による乗客データの収集なども開始した。明治26年(1893)の退官(50歳)に当たり、井上は部下からの贈り物への返礼として、ロンドン留学中に鉱山で撮影した工夫姿の写真を配り、併せて感謝を込めた手紙を送ったといわれる。1910年に日(明治43年、第二次桂太郎内閣1908->1911)英(52代首相ハーバート・ヘンリー・アスキス1908->1915、国王エドワード7世1901-1910)博覧会の参加とヨーロッパの鉄道視察を目的のために渡欧し、かつて留学していたロンドンで、持病の腎臓病が悪化し、客死。「老齢になってもまだ鉄道の知識をふやそうとしていたことに驚かされる」(柏原氏)https://style.nikkei.com/article/DGXMZO30048990R00C18A5000000?channel=DF180320167086&style=1&n_cid=NMAIL007&page=2
Y/M/D,江戸時代(14代徳川家茂1858->1866)の1863年に5人の長州藩士が海軍技術を学ぶため英国(37代英国ヘンリー・ジョン・テンプル首相、英国女王ビクトリア)に向けて密出国した。このうちの一人の山尾庸三(1837->1917, 脳溢血、80歳没)は1866年にグラスゴー市(38代英国ジョン・ラッセル首相1865->1866、英国女王ビクトリア1837->1901)にあるネピア造船所で機械職工となって造船技術を学び,1868年(明治元年)11月に帰国(輔相三条実美、岩倉具美1868->1869)する。山尾は工部卿(太政大臣三条実美1871->1884)となって1873年(明治6年)に工業技術教育のための工部学校を設立する。工部学校は電信学と物理学を教える物理学教授としてスコットランド(英国41代首相ウィリアム・ユワート・グラッドストン1868->1874)のグラスゴー大学からエアトンを招聘する。http://home.e01.itscom.net/ikasas/radar/jprdf01.htm
2015/9/16,親善航海のため日本(第一次山縣有朋内閣1889->1891)に寄港したトルコ(オスマン帝国第34代皇帝アブデュルハミト2世1842->1918)の軍艦エルトゥールル号(排水量2,344トン、全長 約76m)は1890年(明治23年)9月16日夜半、帰航の途中、和歌山県串本町の紀伊大島沖で、猛烈な台風のために岩礁に激突、蒸気機関が爆発し二つに割れ沈没した。この海難事故で、艦長以下587人が殉職。紀伊大島の島民たちの必死の救助で助かったのは、わずかに69人に過ぎなかった。しかし、この献身的な救助活動は、トルコ国民に直ちに伝えられ、今でも時代を超えて語り継がれている。https://www.nippon.com/ja/genre/politics/l00127/