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弧状列島,品証,栃木の両毛新聞が休刊創刊74年、コロナで広告収入減 電子媒体連携で再生可能か

2020-05-13 20:41:37 | 連絡
<CM売り上げ対投資額比拡大インターネット1対マルチ事業連携補完紙媒体同報配信事業の第二創業投資の展望は期待できるか>
<第二創業設備投資支援は、GDP10%コロナ復興財源=コロナ国債発行。引き受けは日本政府中央銀行・・・> 
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栃木県足利市の日刊紙「両毛新聞」(注1)が9日付の新聞発行を最後に休刊した。1946年に創刊以来、通算1万9520号、74年の歴史に区切りをつけた。地域で愛された夕刊紙の最終号には「本紙74年の歴史に幕 ご愛読ありがとうございました」と見出しが立った。
 同紙は岡部功・現社長(88)の父の故・新二郎さんが33年に創刊した「足利日報」が前身。2ページの紙面には足利市内の話題や行政ニュース、告知記事などが掲載されていた。1部60円、月決め1500円。
 配達スタッフの確保に苦労し、デジタル化の進む中で部数減が進み、後継者難などの課題も積もっていた。最終的な休刊の決断の決め手になったのは新型コロナウイルスの感染拡大だった。イベントの中止や店舗の営業自粛が相次ぎ、3月以降は広告収入が大きく減少した。
 功さんの娘は「新型コロナに決断を後押しされた感じです。両毛新聞の題字で、いつかデジタルで再出発ができれば……」と話していた。

(注1)正直に言うと、僕は両毛新聞の存在を知りませんでした。
 「両毛」とは何かと思われる方もいるかも知れませんが、
 古墳時代、今の群馬県と栃木県の大分部を毛野と呼んでいました。
 それが、「上毛野(かみつけの)」や「下毛野(しもつけの)」に分かれ、
 律令制施行後は、上毛野は上野国(こうずけのくに)に、
 下毛野は那須(栃木県北部)を加えて
 下野国(しもつけのくに)と定められました。
 この過程で「毛」の表記は省略されましたが、
 「け」の読みは残されています。
 現在でも、栃木県の小山市と群馬県の高崎市を結ぶ鉄道を
 両毛線と呼ぶように、両毛は使われています。
1939年848紙を数えた日刊紙は1942年には
 わずか54紙に減少したとの事です。
 しかしこの新聞統合は、一方では地方紙が1県1紙になったことで、
 地方紙間の過当競争をなくし、
 また1936年政府の援助を受けた強力な国家統一通信社である同盟通信社の誕生で、
 国内外のニュースを豊富に受信できるようになったこととも相まって、
 地方紙の基盤を確立し、
 今日のブロック紙、県紙の基礎をつくることにもなりました。
 1945年、占領軍総司令部は戦争中のあらゆる新聞統制法規を撤廃しています。
両毛新聞は、こうした歴史的な経過を踏まえて続けられて来たのでしょう。
 休刊は、新聞が置かれている現在の情勢を反映したものだと思います。
 紙媒体から電子媒体に移行が進み、若者の活字離れも進むでしょうから、
 これから益々新聞は厳しくなるような気がしますが、

 新聞が好きな僕としては、全国の地方紙に頑張って欲しいと思います。
 両毛新聞の休刊で、日本の新聞について、勉強してしまいました。
https://blog.goo.ne.jp/tennenkozi/e/e6a7d11fcdba659a4adeb87143fdccd4