雷門の前の通りで。 人力車には「時代屋」と書いてあります。
お墓参りの後に、道すがらにあるドトールに入って、娘の代わりに
カフェラテを頼み喫煙席に座りました。
ヘビースモーカーだった私は2年前にタバコを止めましたが
この日は喫煙席を選びました。
店を出て清洲通りと浅草通りの近くで、雷門までの
道を聞き、歩き出しました。
合羽橋商店街、昨年は彼女と冷やかして歩いたところ
今日は通り過ぎよう。
雷門が見えて来ました。
ここにはたくさんの思い出がある。
下町っ子だった母は浅草が好きで、小さい時から
ここに連れられて来たこと。
私の子2人を預けたときにも、母はここに来て
花やしきで遊ばせていたこと。
そして母が82~3歳の時、父の墓参りに行った帰り
三井ビルの階段の所で足を踏み滑らして大腿骨骨折で入院!
「気がついたら身体が動かず、仰向けに倒れたまま空をみていた。
雨が顔に降って来るのをみていたよ。」
周囲の誰もが(医者も)骨折が直ってもそのまま呆けて
しまうと、覚悟しました。
2ヶ月くらい入院したのでしょうか。
足を繋ぐ為の金属を入れたままでしたが退院が決まりました。
でも、到底一人じゃ暮らして行けない。
退院は決まったものの、動ける状態ではないのです。
父が亡くなってから、新宿の家で母は一人暮らし。
さて、姉弟の誰が母と暮らすのか・・・
みんな困ってしまいました。
それぞれ事情が有り、誰も一緒に暮らせない。
みんなが「うちは無理だ」とだけ言って黙り込んでいたら、娘が
「私がお祖母ちゃんと一緒に暮らすよ。」
意外な申し出に私はビックリし、弟2人も驚きました。
その頃、娘は品川に本社のある商事会社に正社員として
勤めておりました。
「新宿は会社に行く途中だからね。」
もちろん母と暮らせない姉弟はお願いするしかありませんでした。
条件があって、全自動洗濯機なこと(母は2層式)、駐車場を借りること、
その他、会社勤務しながらの同居なので、もっともなことばかりでした。
ボーイフレンドで、結婚も決まっていたSと一緒に入ることも。
同居してからは、娘も母も苦労したようでした。
まず、食べ物が違う。テレビの好みも違う。
世代が2つも違う。
母は自由にならない身体に苛立ち、好みの違う食事に苛立ち
若者の気が付かなさに苛立ち・・・
いじけて厭味ばかり言うようになり
娘はどんなに尽くしても、厭味しか返ってこない
祖母をだんだん嫌うようになり
「お祖母ちゃんはK子だったらね、K子だったらね。とママの事ばっかり言うんだから」と嘆き続け・・・
それでも毎日の生活は続き・・・
掃除、洗濯、食事の用意。
大学生だった婚約者のSは料理も好きだし、かいがいしい所もあって
母が朝起きてポータブルトイレを済ませたら、あっという間に
きれいに流し、洗って脱臭剤を入れてもどし。
社会人やっている娘より長い時間母と付き合い、そのくせ母から認められず、
母は私には彼のことを冷たく「あの子」と言い続け・・・
それでも
最初はベッドで寝たきり状態の母だったのに、這って歩けるようになり
伝い歩きも出来るようになり、何とか10ヶ月近くで自活に近い生活が
出来るようになりました。
その後忘れていたけれど、老人病院に入院した母を、娘とSと私の3人で見舞った時、
Sが母をベッドから起こして車椅子に乗せるのを見てハッとしました。
わが家族の誰よりも手馴れて上手なのに気が付きました。
彼は10ヶ月間、そうやって私の母の面倒を見てきたのだって・・・
後から聞いたのですが楽しみの少ない祖母の為に、休みの日には彼の運転する車で
浅草に何度も連れて来たそうです。
「Sちゃんがいつも車椅子を押していたよ。」と娘が言っておりました。
娘が私より浅草に詳しいのは、家に居ては苛立つ祖母の為に、そうやって努力してくれていたんだと・・・
ここ梅園にも3人で必ず入ってお汁粉食べていたんだね。
長く付き合ったのに、結婚して1年で離婚しても・・・
鬱になる原因を作ったのは彼だと恨んでも・・・
なお憎みきれずに、心の中では息子のように思う気持ちが残っています。
だから、彼に感謝の気持ちを伝えたい。
「僕の責任です」と言ってくれた彼。
恨んでだけでは公平じゃない。感謝もしています。
あの時は母と娘を支えてくれてありがとう!
この「母と娘とSと浅草」は娘の前夫に捧げます。
お墓参りの後に、道すがらにあるドトールに入って、娘の代わりに
カフェラテを頼み喫煙席に座りました。
ヘビースモーカーだった私は2年前にタバコを止めましたが
この日は喫煙席を選びました。
店を出て清洲通りと浅草通りの近くで、雷門までの
道を聞き、歩き出しました。
合羽橋商店街、昨年は彼女と冷やかして歩いたところ
今日は通り過ぎよう。
雷門が見えて来ました。
ここにはたくさんの思い出がある。
下町っ子だった母は浅草が好きで、小さい時から
ここに連れられて来たこと。
私の子2人を預けたときにも、母はここに来て
花やしきで遊ばせていたこと。
そして母が82~3歳の時、父の墓参りに行った帰り
三井ビルの階段の所で足を踏み滑らして大腿骨骨折で入院!
「気がついたら身体が動かず、仰向けに倒れたまま空をみていた。
雨が顔に降って来るのをみていたよ。」
周囲の誰もが(医者も)骨折が直ってもそのまま呆けて
しまうと、覚悟しました。
2ヶ月くらい入院したのでしょうか。
足を繋ぐ為の金属を入れたままでしたが退院が決まりました。
でも、到底一人じゃ暮らして行けない。
退院は決まったものの、動ける状態ではないのです。
父が亡くなってから、新宿の家で母は一人暮らし。
さて、姉弟の誰が母と暮らすのか・・・
みんな困ってしまいました。
それぞれ事情が有り、誰も一緒に暮らせない。
みんなが「うちは無理だ」とだけ言って黙り込んでいたら、娘が
「私がお祖母ちゃんと一緒に暮らすよ。」
意外な申し出に私はビックリし、弟2人も驚きました。
その頃、娘は品川に本社のある商事会社に正社員として
勤めておりました。
「新宿は会社に行く途中だからね。」
もちろん母と暮らせない姉弟はお願いするしかありませんでした。
条件があって、全自動洗濯機なこと(母は2層式)、駐車場を借りること、
その他、会社勤務しながらの同居なので、もっともなことばかりでした。
ボーイフレンドで、結婚も決まっていたSと一緒に入ることも。
同居してからは、娘も母も苦労したようでした。
まず、食べ物が違う。テレビの好みも違う。
世代が2つも違う。
母は自由にならない身体に苛立ち、好みの違う食事に苛立ち
若者の気が付かなさに苛立ち・・・
いじけて厭味ばかり言うようになり
娘はどんなに尽くしても、厭味しか返ってこない
祖母をだんだん嫌うようになり
「お祖母ちゃんはK子だったらね、K子だったらね。とママの事ばっかり言うんだから」と嘆き続け・・・
それでも毎日の生活は続き・・・
掃除、洗濯、食事の用意。
大学生だった婚約者のSは料理も好きだし、かいがいしい所もあって
母が朝起きてポータブルトイレを済ませたら、あっという間に
きれいに流し、洗って脱臭剤を入れてもどし。
社会人やっている娘より長い時間母と付き合い、そのくせ母から認められず、
母は私には彼のことを冷たく「あの子」と言い続け・・・
それでも
最初はベッドで寝たきり状態の母だったのに、這って歩けるようになり
伝い歩きも出来るようになり、何とか10ヶ月近くで自活に近い生活が
出来るようになりました。
その後忘れていたけれど、老人病院に入院した母を、娘とSと私の3人で見舞った時、
Sが母をベッドから起こして車椅子に乗せるのを見てハッとしました。
わが家族の誰よりも手馴れて上手なのに気が付きました。
彼は10ヶ月間、そうやって私の母の面倒を見てきたのだって・・・
後から聞いたのですが楽しみの少ない祖母の為に、休みの日には彼の運転する車で
浅草に何度も連れて来たそうです。
「Sちゃんがいつも車椅子を押していたよ。」と娘が言っておりました。
娘が私より浅草に詳しいのは、家に居ては苛立つ祖母の為に、そうやって努力してくれていたんだと・・・
ここ梅園にも3人で必ず入ってお汁粉食べていたんだね。
長く付き合ったのに、結婚して1年で離婚しても・・・
鬱になる原因を作ったのは彼だと恨んでも・・・
なお憎みきれずに、心の中では息子のように思う気持ちが残っています。
だから、彼に感謝の気持ちを伝えたい。
「僕の責任です」と言ってくれた彼。
恨んでだけでは公平じゃない。感謝もしています。
あの時は母と娘を支えてくれてありがとう!
この「母と娘とSと浅草」は娘の前夫に捧げます。
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