「ディープ・ブルー」以来、久し振りに映画「男たちの大和」、観て来ました。
切ない映画でしたよ。
「軍艦大和」に配属された15歳の少年兵達の顔が、孫の顔と重なるほど若く
初々しいのに衝撃を受けました。
演じる若者達の顔が素朴で真っ直ぐで、まさにあの時代を生きた者の顔をしているのも驚きでした。
レイテ沖海戦で、必死に機銃掃射する若い兵達の姿、空を埋めて襲い来る敵機。
迎え撃つ側も、襲う敵機に乗り組んでいる兵達も、みんなみんな愛しくて滂沱の涙を流しました。
すると、あの一節を唐突に思い出したのです。
君死にたもうことなかれ
親は刃をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
君死にたもうことなかれ
人を殺せとおしえしや
君死にたもうことなかれ
君死にたもうことなかれ
与謝野晶子の有名な詩の一節です。
以前は何をセンチなこと言ってるのか、と思ったことも有りました。
66歳の今は、強がりも建前も無くなって素直に反応するのです。
その部分だけ、切れ切れに頭の中に繰り返し繰り返しこだまして、
涙で霞んで画面が見えなくなりました。
(馬から落ちて落馬して顔を真っ赤に赤面し、状態の物言いになりましたが許して下さいね)
それは、妻や母、そしてすべての女の願いなのです。
その後に続く場面で、周りの人が泣かないときも私一人涙を流し、周囲が泣くときも
一緒に泣き続けたような按配で、ネジが1本抜けてしまったかと自分に恐怖しました。
役者もすべて適役で、見事でした。
森脇役の反町隆史も、内田役の中村獅童も、神尾の松山ケンイチ、第二艦隊司令長官の
渡哲也も迫真の演技で感動しました。
「男たちの大和」は、その題名通り、一人一人のドラマが集まって壮大なドラマになっていました。
画面が一転して・・・
昭和20年3月10日の東京大空襲について、短くナレーションがありました。
下町の墨東地区が爆撃されて一夜で一般市民10万人が焼け死んだ空襲です。
◇ 私の戦争の記憶
突然フラッシュバックして遠い過去に、「男たちの大和」と同じ時代の東京に、
心が飛んでいました。
その頃、弟と私と母はどんな伝手が有ったのか鬼怒川に疎開していました。
そこに以前住んでいた本所地区が空襲で大被害にあったという知らせが届き、
母に連れられて親しい人の見舞いに行ったことを思い出しました。
◇ 本所にて
記憶違いもあるかも知れませんが、空には薄日が射していたような気がします。
街はペシャンコで透き透きになっていて空が沢山見えました。
珍しくもんぺ姿になった母に手を引かれて(滅多にもんぺなど穿かないでいつもは
綺麗な着物姿でした。非国民と謗られた事もあったでしょうに)、恐々と曳船川の
畔を歩いていました。
川の中に、未だ引き上げられていない死体があちらこちらに何体も浮いていました。
「女はうつ伏せに、男は上を向いて死んでいるんだ。」
「火に追われて次から次へと川に飛び込んで、人に押されて溺れて死んでいったんだよ。」
「みんな焼き殺されて、誰が誰やら判らず、トラックが何台も来て荷台に山積みになって運ばれて行った。」
「あそこの○○さんは(誰?)さんだけが残って他の家族はみんな死んだんだって。」
と大人達のひそひそ声で話す言葉もそら恐ろしく、いつもは途方もなく落ち着きの
無い子だった私が、重苦しい胸を抱えてシンとしていたのを思い出します。
被災に遭っていない私達は肩身が狭く、何がなし密かな敵意が放射されている
ような気がして項垂れていました。
私、満5歳の早春です。これは涙が一滴も出ないほどの残酷な事実です。
戦争に勝ちさえすれば、何をしても誰からも非難されないのでしょうか。
◇ 鬼怒川の家
それから、1ヶ月後。鬼怒川の家に二人の訪問者がありました。
玄関に顔の真っ黒な汚い人が入って来て
「奥さーん!工場が全焼しました。」と泣き声で叫んだそうです。
東京の家のお手伝いさん(その頃は女中さんといった)でした。
戦災に遭った家の者は、切符を買わずに電車や汽車に乗れたのですが、
比較的汚れの少ない彼女達は駅員に中々信じて貰えず、苦労したということでした。
「あの時はビックリしたよ。又下町が空襲に遭ったと聞いたから心配したけど
何にも連絡が無いので、無事だったかと安心した矢先のことだったからね。」
と母が述懐していました。
今ネットで調べてみると4月13日の空襲だったのではないかと思います。
◇ 荒川の工場
私達の家は、本所からもっと敷地の広い荒川に移転していました。
父は薬品工場を営んでいて、当時家は工場と棟続きだったのです。夜になって空襲がありました。
「焼夷弾がボンボン落ちて来たので屋根に上ってみたら、工場が真っ赤に
燃え上がっていて凄い眺めだった。
100発くらい喰らって全焼したよ。」これは父の言葉です。
「飛行機が低空飛行で追いかけて来たから荒川べりを必死で逃げたら笑って撃って来やがった。」
これは工場で働いていた人の話です。
笑って人を撃つ話はその後何度か他でも聞いたり文章で目にしたりしました。
引き攣った顔が笑った顔に見えることもあるかと思いますが・・・
はて?どちらだったのか。幸いにも皆逃げて、人の被害は無かったようです。
本所の曳船川は、江戸時代から用水路として使われていた川なので、川幅が狭く
逃げ場所が無かったのでしょう。
荒川は広々とした川幅(当時)と川岸を持ち、周りも家が混み合っていなかったので、
10日の空襲より被害は少なくて済んだのではないかと思います。
荒川の畔に建っていた工場は広くて真新しくて、大好きでした。
手回しの、荒縄でクルクル巻き取る白木の、囲いの無いエレベーターがあって、
江川さんというおじさんがよく私を乗せて、縄を上げたり下げたりして遊んでくれました。
幼い私は、「も一回、も一回。」とねだり困らせていました。
朝早く(?)行くと、川岸の穴の中から蟹がぞろぞろ出て来て、
「こいこいと片手で手招きする」と母が言っていました。
私は蟹が出て来ないかと、せっせと指を蟹穴に突っ込んでほじくっていたそうです。
◇ 空襲警報
荒川の家の茶の間が見えます。ガラス窓の内側には黒い灯りを透さないカーテンが
ぐるりと架かっています。
にしょくの電球が点いています。
空襲警報のサイレンがもう一つ近くでポーッと鳴りました。
最初は遠くの方でサイレンがポーッとなり、だんだん近づいて大きく鳴り出すのです。
隙間をめくって外を眺めても(当然父に怒鳴られた)、街は無人のように真っ暗に
静まり返り、灯りひとつ漏れて来ませんでした。
最初のうちはポーッの意味が解らなくて泣かなかったけど、すぐ学習して激しく
泣くようになったそうです。
「だから遠くでポーッと鳴ったら、直ぐに頭から布団を何枚も掛けて、
近くになってから防空壕に入れたんだよ。
お前は火がついたように激しく泣くし、弟の方はケラケラ笑い出すし困ったよ。」
◇ 敵機襲来!と近くの陸軍
江川のおじさんが
「昨日は嬉しかったね~。屋根に上って見てたんだけど、昼間に空中戦をやってたんだ。
(両手を使って飛行機が交互に飛ぶ様を現わしながら)それが珍しく日本が
アメリカの飛行機をやっつけたんだよ。」
(なんだ。それは珍しいことなのか。)と気落ちしました。
日本がいつも勝てば良いのに。
工場で働く人たちが時々噂話しているのを耳を立てて聞いていました。
「珍しく陸軍の高射砲が当たってね。アメリカの兵隊が落下傘で降りてきたんだ。
子供みたいな顔してたな。」
高射砲が全く当たらないのは5歳の私でさえ知る常識になりました。
敵の飛行機が何機か編隊を組んで、真昼間から堂々と飛んでいました。
高射砲で打ち落とさないのかと、僅かな期待を持っていましたが、
「今週はまだ弾薬の配給がないのだろう。」が江川のおじさんの感想でした。
思えば未だあの時は、緊迫感の中にものどかさが有りました。
「××の家に爆弾が落ちてね。みな亡くなってしまったよ。ま~、酷いもんだったよ。」
工場の人に爆弾が落ちた現場に連れて行って貰いました。
5~7m掘れていて周囲何メートルかが、丸い更地のようにポッカリ空いていました。
爆弾が直接落ちたら、いくら防空壕に入っていても何の役に立たないのを知り呆然としました。
工場のコンクリートで固めてある場所に幾つか銃弾がめり込んでいました。
「これが高射砲の玉だよ。」と掘り出して見せられましたが、自分の頭の上に落ちて来たら、とぞっとしました。
工場の対岸には、陸軍の高射砲の陣地が有りました。
「いっつも此処が狙われると思ったら陸軍が有るからだ。」と皆で嘆いていました。
国民は金属で出来た家庭の品物を日用品以外あらいざらい、武器弾薬を造るために
供出させられていました。
もちろん我が家も例外ではありませんでした。
何百の敵機が侵入して来ても、迎え撃つのは当らない陸軍の高射砲だけで、
その弾薬も切らし気味。本土を守る戦闘能力をまったく失っていたというのが、
その頃の日本の実情でした。
荒川の工場が全焼したけど、みんな無事だったし、直接見ていないので好きだった
工場が無くなった寂しさ以上の特別な感情は湧きませんでした。
◇ 終戦後
父が中野の沼袋に工場を持ったのは、やや暫く経ってからでした。
今考えると空襲による全焼の、経済的打撃は大きかったのでしょう。
終戦から2ヶ月待って、鬼怒川から中野に入りました。
荒川の工場に比べて半分位の大きさしかなく、物足りなさを感じました。
昭和の苦しい時代を懸命に生きた人達も、大半はあの世に旅立ち、幼児だった
私達も高齢者と呼ばれる年齢になりました。
昨日、戦争中には知りえなかった個々のドラマの一端を知りました。
「大和」が壮絶な戦死を遂げるとき、いいえ、巨大な鯨が成すすべも無く
のた打ち回って死ぬる様に似ていて・・・
ただただ、悲しさだけがありました。
軍人と市民の違いはあっても東京大空襲の虐殺のようでもあって・・・
言葉をなくしていました。
「男たちの大和」、を観たお陰で心の扉が久し振りに開き、忘れていた昔を思い出
しました。
ありがとう。
切ない映画でしたよ。
「軍艦大和」に配属された15歳の少年兵達の顔が、孫の顔と重なるほど若く
初々しいのに衝撃を受けました。
演じる若者達の顔が素朴で真っ直ぐで、まさにあの時代を生きた者の顔をしているのも驚きでした。
レイテ沖海戦で、必死に機銃掃射する若い兵達の姿、空を埋めて襲い来る敵機。
迎え撃つ側も、襲う敵機に乗り組んでいる兵達も、みんなみんな愛しくて滂沱の涙を流しました。
すると、あの一節を唐突に思い出したのです。
君死にたもうことなかれ
親は刃をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
君死にたもうことなかれ
人を殺せとおしえしや
君死にたもうことなかれ
君死にたもうことなかれ
与謝野晶子の有名な詩の一節です。
以前は何をセンチなこと言ってるのか、と思ったことも有りました。
66歳の今は、強がりも建前も無くなって素直に反応するのです。
その部分だけ、切れ切れに頭の中に繰り返し繰り返しこだまして、
涙で霞んで画面が見えなくなりました。
(馬から落ちて落馬して顔を真っ赤に赤面し、状態の物言いになりましたが許して下さいね)
それは、妻や母、そしてすべての女の願いなのです。
その後に続く場面で、周りの人が泣かないときも私一人涙を流し、周囲が泣くときも
一緒に泣き続けたような按配で、ネジが1本抜けてしまったかと自分に恐怖しました。
役者もすべて適役で、見事でした。
森脇役の反町隆史も、内田役の中村獅童も、神尾の松山ケンイチ、第二艦隊司令長官の
渡哲也も迫真の演技で感動しました。
「男たちの大和」は、その題名通り、一人一人のドラマが集まって壮大なドラマになっていました。
画面が一転して・・・
昭和20年3月10日の東京大空襲について、短くナレーションがありました。
下町の墨東地区が爆撃されて一夜で一般市民10万人が焼け死んだ空襲です。
◇ 私の戦争の記憶
突然フラッシュバックして遠い過去に、「男たちの大和」と同じ時代の東京に、
心が飛んでいました。
その頃、弟と私と母はどんな伝手が有ったのか鬼怒川に疎開していました。
そこに以前住んでいた本所地区が空襲で大被害にあったという知らせが届き、
母に連れられて親しい人の見舞いに行ったことを思い出しました。
◇ 本所にて
記憶違いもあるかも知れませんが、空には薄日が射していたような気がします。
街はペシャンコで透き透きになっていて空が沢山見えました。
珍しくもんぺ姿になった母に手を引かれて(滅多にもんぺなど穿かないでいつもは
綺麗な着物姿でした。非国民と謗られた事もあったでしょうに)、恐々と曳船川の
畔を歩いていました。
川の中に、未だ引き上げられていない死体があちらこちらに何体も浮いていました。
「女はうつ伏せに、男は上を向いて死んでいるんだ。」
「火に追われて次から次へと川に飛び込んで、人に押されて溺れて死んでいったんだよ。」
「みんな焼き殺されて、誰が誰やら判らず、トラックが何台も来て荷台に山積みになって運ばれて行った。」
「あそこの○○さんは(誰?)さんだけが残って他の家族はみんな死んだんだって。」
と大人達のひそひそ声で話す言葉もそら恐ろしく、いつもは途方もなく落ち着きの
無い子だった私が、重苦しい胸を抱えてシンとしていたのを思い出します。
被災に遭っていない私達は肩身が狭く、何がなし密かな敵意が放射されている
ような気がして項垂れていました。
私、満5歳の早春です。これは涙が一滴も出ないほどの残酷な事実です。
戦争に勝ちさえすれば、何をしても誰からも非難されないのでしょうか。
◇ 鬼怒川の家
それから、1ヶ月後。鬼怒川の家に二人の訪問者がありました。
玄関に顔の真っ黒な汚い人が入って来て
「奥さーん!工場が全焼しました。」と泣き声で叫んだそうです。
東京の家のお手伝いさん(その頃は女中さんといった)でした。
戦災に遭った家の者は、切符を買わずに電車や汽車に乗れたのですが、
比較的汚れの少ない彼女達は駅員に中々信じて貰えず、苦労したということでした。
「あの時はビックリしたよ。又下町が空襲に遭ったと聞いたから心配したけど
何にも連絡が無いので、無事だったかと安心した矢先のことだったからね。」
と母が述懐していました。
今ネットで調べてみると4月13日の空襲だったのではないかと思います。
◇ 荒川の工場
私達の家は、本所からもっと敷地の広い荒川に移転していました。
父は薬品工場を営んでいて、当時家は工場と棟続きだったのです。夜になって空襲がありました。
「焼夷弾がボンボン落ちて来たので屋根に上ってみたら、工場が真っ赤に
燃え上がっていて凄い眺めだった。
100発くらい喰らって全焼したよ。」これは父の言葉です。
「飛行機が低空飛行で追いかけて来たから荒川べりを必死で逃げたら笑って撃って来やがった。」
これは工場で働いていた人の話です。
笑って人を撃つ話はその後何度か他でも聞いたり文章で目にしたりしました。
引き攣った顔が笑った顔に見えることもあるかと思いますが・・・
はて?どちらだったのか。幸いにも皆逃げて、人の被害は無かったようです。
本所の曳船川は、江戸時代から用水路として使われていた川なので、川幅が狭く
逃げ場所が無かったのでしょう。
荒川は広々とした川幅(当時)と川岸を持ち、周りも家が混み合っていなかったので、
10日の空襲より被害は少なくて済んだのではないかと思います。
荒川の畔に建っていた工場は広くて真新しくて、大好きでした。
手回しの、荒縄でクルクル巻き取る白木の、囲いの無いエレベーターがあって、
江川さんというおじさんがよく私を乗せて、縄を上げたり下げたりして遊んでくれました。
幼い私は、「も一回、も一回。」とねだり困らせていました。
朝早く(?)行くと、川岸の穴の中から蟹がぞろぞろ出て来て、
「こいこいと片手で手招きする」と母が言っていました。
私は蟹が出て来ないかと、せっせと指を蟹穴に突っ込んでほじくっていたそうです。
◇ 空襲警報
荒川の家の茶の間が見えます。ガラス窓の内側には黒い灯りを透さないカーテンが
ぐるりと架かっています。
にしょくの電球が点いています。
空襲警報のサイレンがもう一つ近くでポーッと鳴りました。
最初は遠くの方でサイレンがポーッとなり、だんだん近づいて大きく鳴り出すのです。
隙間をめくって外を眺めても(当然父に怒鳴られた)、街は無人のように真っ暗に
静まり返り、灯りひとつ漏れて来ませんでした。
最初のうちはポーッの意味が解らなくて泣かなかったけど、すぐ学習して激しく
泣くようになったそうです。
「だから遠くでポーッと鳴ったら、直ぐに頭から布団を何枚も掛けて、
近くになってから防空壕に入れたんだよ。
お前は火がついたように激しく泣くし、弟の方はケラケラ笑い出すし困ったよ。」
◇ 敵機襲来!と近くの陸軍
江川のおじさんが
「昨日は嬉しかったね~。屋根に上って見てたんだけど、昼間に空中戦をやってたんだ。
(両手を使って飛行機が交互に飛ぶ様を現わしながら)それが珍しく日本が
アメリカの飛行機をやっつけたんだよ。」
(なんだ。それは珍しいことなのか。)と気落ちしました。
日本がいつも勝てば良いのに。
工場で働く人たちが時々噂話しているのを耳を立てて聞いていました。
「珍しく陸軍の高射砲が当たってね。アメリカの兵隊が落下傘で降りてきたんだ。
子供みたいな顔してたな。」
高射砲が全く当たらないのは5歳の私でさえ知る常識になりました。
敵の飛行機が何機か編隊を組んで、真昼間から堂々と飛んでいました。
高射砲で打ち落とさないのかと、僅かな期待を持っていましたが、
「今週はまだ弾薬の配給がないのだろう。」が江川のおじさんの感想でした。
思えば未だあの時は、緊迫感の中にものどかさが有りました。
「××の家に爆弾が落ちてね。みな亡くなってしまったよ。ま~、酷いもんだったよ。」
工場の人に爆弾が落ちた現場に連れて行って貰いました。
5~7m掘れていて周囲何メートルかが、丸い更地のようにポッカリ空いていました。
爆弾が直接落ちたら、いくら防空壕に入っていても何の役に立たないのを知り呆然としました。
工場のコンクリートで固めてある場所に幾つか銃弾がめり込んでいました。
「これが高射砲の玉だよ。」と掘り出して見せられましたが、自分の頭の上に落ちて来たら、とぞっとしました。
工場の対岸には、陸軍の高射砲の陣地が有りました。
「いっつも此処が狙われると思ったら陸軍が有るからだ。」と皆で嘆いていました。
国民は金属で出来た家庭の品物を日用品以外あらいざらい、武器弾薬を造るために
供出させられていました。
もちろん我が家も例外ではありませんでした。
何百の敵機が侵入して来ても、迎え撃つのは当らない陸軍の高射砲だけで、
その弾薬も切らし気味。本土を守る戦闘能力をまったく失っていたというのが、
その頃の日本の実情でした。
荒川の工場が全焼したけど、みんな無事だったし、直接見ていないので好きだった
工場が無くなった寂しさ以上の特別な感情は湧きませんでした。
◇ 終戦後
父が中野の沼袋に工場を持ったのは、やや暫く経ってからでした。
今考えると空襲による全焼の、経済的打撃は大きかったのでしょう。
終戦から2ヶ月待って、鬼怒川から中野に入りました。
荒川の工場に比べて半分位の大きさしかなく、物足りなさを感じました。
昭和の苦しい時代を懸命に生きた人達も、大半はあの世に旅立ち、幼児だった
私達も高齢者と呼ばれる年齢になりました。
昨日、戦争中には知りえなかった個々のドラマの一端を知りました。
「大和」が壮絶な戦死を遂げるとき、いいえ、巨大な鯨が成すすべも無く
のた打ち回って死ぬる様に似ていて・・・
ただただ、悲しさだけがありました。
軍人と市民の違いはあっても東京大空襲の虐殺のようでもあって・・・
言葉をなくしていました。
「男たちの大和」、を観たお陰で心の扉が久し振りに開き、忘れていた昔を思い出
しました。
ありがとう。
孫やその年齢の若者たちなど、戦争の仕方など知りません。
どんなに無残で冷酷なものか
知ってほしいと思います。
どのように拡大していったのか。
別の道は無かったのか。
如何したら避けられただろうか。
あるいは避けられなかったのだろうか。
政府、陸軍、海軍、上官、兵士、マスコミ、一般市民
あらゆる角度からの検証が欲しいです。
一般のものはたくさん有るようですが、肝心の部分からの検証が足りないような気がして。
日本だけが反省しても仕方ないけど。
歴史は勝者の歴史だから。
日本は特に外交ベタのようで残念です。
私もその時代を生きた方たちの体験をもっと知りたいと思います。それが何かの役に立てれば・・・
確かに戦争には、勝者はいないですね。
イラクを見ていると胸が痛みます。
「勝てば官軍」のように単純なものでもなく、戦争には勝者はいないのですし、戦時下では尊い人命が簡単におろそかにされやすくなるからです。
今回の映画は極力客観的な視点でアプローチしようと徹したらしいですが、実際はもっと凄惨で酷い状況だった~と戦争体験者の手記にありました。
こちらの記事にありますように、目の前で体験された事実を伺いますと、本当に心から胸が痛み切なくなります。 このような正確な歴史の事実を後世に伝え、二度と過ちが起きないように発信続けることが大切だと思いました。 (TBさせて頂きました~)
味をしめた私は今日一人で又映画を観て来ました。
もう一度、「男たちの大和」を観たいとも思いましたが、もう一つの魅力的な映画「3丁目の夕日」を観ることにしました。これは種類の違った涙ですが大いにです。こちらは幸せな涙というのでしょう。この冬は観たい映画のオンパレードです
一緒に行った人がいなかったので、貴女とお話出来て
良かったです。ありがとう!