関東暮らし

関西人から見た関東暮らしの出来事を記す

蓬莱峡 歯がポロリ 臼茶

2014年12月19日 | 日記

《写真↑蓬莱峡》

11月20日(木)は岡山へ出張、その後西宮へ帰宅
11月22日(土)宝塚医療生協の良元診療所《写真↓》へ。


《写真↓宝塚の街かど・小林》


「インフルエンザワクチン」の接種がてら、
久しぶりに家族と買い物へ出かけ、
ネックウォーマーなるものを買ってもらった。
その道すがら旧有馬街道を抜け、途中で蓬莱峡の紅葉を鑑賞。

11月24日(月)勤労感謝の日は事務所の当直であった
11月27日(木)朝、歯磨きをしていたら
残り少ない我が歯がポロリと抜け落ちた…トホホだ。
28日に歯医者で応急処置完了。
眼医者での検査も無事終了、異常なし。

この間、アパートに帰ると、
まずは臼茶を飲むことで精神集中を図っている(写真↓)。


11月30日(日)終日、常任理事会
 目前の総選挙への対応とともに、
 その後の情勢も読み取りながら、
 来春の活動の在り方を議論

増税は『延期』でなくキッパリ中止を!&「倉敷民商事件」について

2014年12月06日 | 日記
11月12日からの一週間あまりはおとなしくしていた
11月19日(水)は、朝から国会。
解散の予定日であったが安倍氏の腹積もりで21日解散となっており、
まだ国会には議員がいた。
「消費税増税の『延期』ではなく、きっぱり中止」を求める議員要請行動。
昼には4月からの8%への増税で苦しむ中小業者の実態告発記者会見(NHKやTBSなど7社取材)。
その後国会内で180人の集会が行われた。


11月15日付の「救援新聞」(日本国民救援会機関紙)に記事が出たので、
以下に収録(一部加筆)

岡山・倉敷民商弾圧事件 権力の狙い②

徴税権力の横暴と闘う組織
国民主権を掲げ63年

倉敷民商弾圧事件の真相と権力の狙いを解き明かすシリーズ企画。第1回(11月5日号)は、いま裁判で何が問われているのか、事件の概要と不当性を明らかにしました。第2回は、なぜ権力が民主商工会(民商)を弾圧の対象にするのか、そもそも民商運動とは何かについて全国商工団体連合会(全商連)に伺いました。(聞き手・編集部)

納税者の権利守る民商運動とは

民商運動の話をするにあたって、まず戦前の日本の税制度を振り返ります。戦前は、国が課税の中身を決めて上から押しつける賦(ふ)課(か)課税制度で、自分の税額を決定する権利は納税者にはありませんでした。そういう税制のもとで、日本の中小業者はしいたげられてきました。

押付けられた重税に抵抗し

 戦後、税制が根本的に変わるなかで、中小業者に対してほとんど調査もせず、無差別な割当課税をしかけてきました。これまで納税対象にならなかった小規模な業者に対しても割り当てられました。戦後の経済が立ち行かないなかで、国家とアメリカ占領軍の費用を賄うために、大衆的な課税を押し付けることで乗り越えようという権力側の事情から、「あなたは税金をこれだけ納めろ」という上から押しつける戦前と同じやり方がすすめられました。こうしたやり方に反対し、各地で税闘争が勃発しました。そのなかで納税民主化同盟、民主商工会という組織が全国に自発的に立ち上がりました。このようなたたかいの中で、1948年、日本の税制の骨格として、自分で自分の税額を計算して申告することによって税額が確定する申告納税制度が確立しました。
 民商は、払えない税金をお上が一方的におっかぶせてきて、生活必需品はおろか仏壇まで差し押さえてしまう、こういう徴税の嵐に対する抵抗という形で発足しました。国の税制が固まってくる中で、税制と税務行政を全国的にあらためさせる運動のために、1951年、全国商工団体連合会(全商連)が発足しました。個々バラバラの中小業者が自分たちの要求で団結し、自主的な全国組織を誕生させたことは、世界にも例がないことでした。
 日本国憲法は国民主権の立場に立っていますから、国民が主権者の自覚を持ち、定められた法に基づいて自らが納税するということは、主権者の義務でもあり権利です。これを完成させるのが、民商運動の大きな目的の一つです。

運動の推進は事務局員が要

 民商の会員さんには、いろいろな業種の方がいらっしゃいます。会員が解決したい問題を聞かせてもらい、互いに助け合ったりアドバイスしたり学習しながら、それぞれが助けあう活動が民商の日常活動の考え方です。
 事務局員は会員同士の助けあいや学習を会員に行き渡らせ、団体の活動が活発になるよう役員をサポートし、一緒に運動を推進するのが任務です。その一環として、日常的には多くのところで事務局員が活動の中で得た知識や能力を発揮して、会員の相談に直接乗ったり手助けをしていることはあります。倉敷民商の場合も、事務局員は会員に対してきわめて親切に活動していました。
 民商の事務局員の活動は多岐にわたります。会員が作った書類の点検をしたり、税務署の税務調査に立ち会うこともあります。会員が銀行に融資を申し込むとき、銀行側に事業計画、返済計画を説明するのが苦手な方の相談に乗ったり、元請け業者から代金が払われない時の交渉の援助をしたりもします。

互いに助け合うそれが民商運動

 バブル経済が崩壊した90年代は、多重債務に苦しむ中小業者からの相談が続きました。自殺まで考えていた方から、「相談して視野が広がった」、「解決の道ができた」といったお礼の言葉をいただくこともあります。
 商売人は孤独です。借金が重なって商売が回らなくなっているような情報を自分から発信することはありません。商売人にとって信用をなくすことは命を取られることです。だから弱みを見せずに自分で抱え込んでしまうのです。商売人というのはそういう気質なんです。信用を大事にするから、行き詰まってしまうと、生命保険で解決しようと考えたりしがちなのです。そういう人たちが民商に来て腹を割って、困ったことを仲間と話し合い、問題解決の道を探る、それが民商の姿です。
 民商は人の世話をして報酬を得る組織ではありません。世話になったから会費を払うというものでもなく、お互いが助け合う民商という運動体を維持・発展させるために、会費を出し合って支えているのです。

権力と向き合う民商運動の意義

 税金の問題で権力と向き合ってきたのが民商です。国民主権を軸に、「自主記帳・自主計算・自主申告」を運動の柱にすえ、各地の民商で税金の学習会をすすめてきました。実際の税務の現場では、法律に書いていないことまで強権発動で制裁を加える事例があります。申告する前に税務署が強制的な調査に入ったり、断りもなく当事者や家族の銀行口座の預金を調べるなど、主権者という立場を尊重しないやり方をしてきます。そうした不当行為を明らかにして告発してきました。
 権力としては、民商が大きくなったり、人数が増え、国民の中に広がることは都合が悪いのでしょう。民商が税金逃れのために社会的な不正義をしているように描き出したいのです。そのために、いろんな理由を付けて弾圧をしてきました。1963年には、国税庁の長官が「民商は3年以内につぶす」と宣言して、税務当局が刑事事件をでっちあげたりもしました。権力に対抗する運動を萎縮させるのが弾圧の根本の狙いです。
 税制が消費税体制になり、利益に対する課税ではなく、売り上げに対する課税となりました。国は、事業が赤字でも税金を徴収できるしくみを国の税制の根幹にすえようとしています。倉敷民商弾圧事件も、これに反対する民商を叩くことで、徴税権力に対する抵抗を萎縮させるのが狙いだと見ています。

「倉敷民商事件」については、以下を参照
http://blog.goo.ne.jp/kuraminsuport/m/201404


国会経由、沖縄知事選の渦中へ

2014年12月06日 | 日記
11月5日(水)は国会へ行って政党幹部の控室へ
消費税の増税を中止するための法案を
共同で提出するよう要請した。
民主党幹事長の枝野代議士の部屋にも行った。
すでに、みんな、維新、生活の3党が「延期」法案を提出していたが、
それは「国会議員定数の削減」「公務員給与の削減」という
誰もが一致できない無理な条件を付けたものであり、
実効性がない「アリバイ的」な代物だ。
私たちは「条件を付けず、来年10月実施を中止する」の一点で共同するよう求めた。

翌日(6日)から知事選挙支援で沖縄へ移動。
飛行機は途中でかなり揺れたが、
先行する飛行機の軌跡に発生した乱気流にぶつかったと説明があった。
初めての体験である。

沖縄では、宣伝カーに乗っての街宣(写真↓)


事務所訪問、会議や小さな集会への参加、会員訪問など 忙しく4日間を過ごした。
レンタカーを安く借りれたので移動は便利(3日間で325km)、
若干の方向感覚もつかめた。

①米軍嘉手納基地(写真↓)のすぐ近くの読谷村で行われた小集会に参加。


6人ほどだったが、基地を身近に暮らしている住民の実情や悩み、
そして基地反対運動を続けている誇りのようなものを感じることができた

②那覇の牧志市場の中を、地元の役員さんに案内してもらい40軒ほど訪問。
どこでもすぐ選挙の話題になり、近くの人も寄ってきて話しに花が咲く、
楽しい行動だった。
この市場、何軒あるかわからないが沖縄の台所という雰囲気がいっぱいだった。
都市部ではほぼなくなった庶民の消費生活を豊かにする対面・対話の買い物空間だ

③沖縄市コザ十字路で行われた翁長候補の街頭演説(写真↓)を聞くことができた。


誰でもが納得できる政策と立場を示すことのできる凄い候補者だった。
それも沖縄のたたかいの歴史がつくり出したのだろう。
沖縄の心がひとつになれば、辺野古新基地建設は必ず中止になるし、
普天間基地は撤去されるという確信を強くした

④その後、1970年のコザ事件の目撃者から当時の様子を聞くこともできた。
事件の中心地点であった「胡屋十字路」周辺も何回か通過し、
嘉手納基地ゲート前から連なる横文字看板の店を見ながら、
ベトナム戦争当時の米兵の狼藉にたいする県民の怒りを想像した

⑤那覇の県庁前での宣伝(写真↓)。


全商連の鎌田副会長(83歳)の火の出るような演説だった。
自らの満蒙開拓団と引揚げの悲劇を重ねながら
沖縄の地上戦の悲劇、広島・長崎、全国の空襲の悲劇を語り、平和を訴えた。

11月9日(日)夜に羽田へ帰ってきた

なんと上賀茂神社で結婚式に出席

2014年12月06日 | 日記
11月1日(土)朝から岡山へ直行。午後からの会議のあと、
京都へ取って返し、その晩は御所の西にある「ともゆき荘」に宿泊。
明日はいよいよ我が次女の結婚式である。
《写真↓ ともゆき荘》


11月2日(日)早朝から紋付袴に着替え、上賀茂神社へ向かった。
こんな日が来るとは、あまり深く考えずに当日を迎えてしまったが、
娘の花嫁姿を目の当たりにし、
たくさんの人が祝福してくれている場面に
親として立ち会えることを素直に幸せに感じることができた。
《写真↓ 花嫁》


K樹さん、よろしくお願いします。
上賀茂神社の神事は、流れるような式次第に、
ある種の洗練さを感じ、興味深いものであった。
事前注意、お祓い、ノリト、三々九度、記念写真などなど。
そして
「来年も再来年も、この良き日に当社へお参りに来て下さい」
「記念に家の中に具える小さな神棚と御札を授ける」という、
神のご加護が新家庭に自然に入り込む様を見た。
これも文化なのであろう。
いずれにせよ、めでたい時を共に過ごすことができた。
午後は、東山にある料亭で披露宴
《写真↓紋付すがた》


遠い上州からも大勢が来てくれた。我が兄弟も久しぶりに全員がそろった。


翌日は、高崎からの皆さんと共に東福寺(写真↓)


そして泉涌寺の雲龍院へ
(写真↓ 雲龍院の庭)


紅葉には少し早かったが、
雲龍院の悟りの間にある「悟りの窓」と「迷いの窓」を
みんなで見ながら抹茶をいただいた。
〈写真↓ 悟りの間に飾られていた香炉〉


〈写真↓ 悟りの間の欄間かざり:鳳凰〉


その日のうちに上京


秋の夜長の深刻な相談電話…10月30日は甲府へ

2014年12月01日 | 日記
10月20日(月)池袋駅前の本屋で注文していた書籍引き取り
10月24日(金)各界連宣伝
〈写真↓ 10月24日の夕日〉




10月28日(火)は終日会議のあと、夜の当直となったが、
給与を差し押さえられたという深刻な相談の電話が入って、
しばし応対した。
全商連のホームページを見ての相談が増えている。
税金滞納で有無を言わさぬ差押が各地で頻発。
差し押さえられた側は、その日から生活費ゼロになってしまい。
どこにも相談に行けず悲嘆にくれている。

10月30日(木)は、救援新聞社の取材を受けた。
11月15日付けの日本救援会新聞に掲載予定。
民主商工会の歴史と成り立ち、
中小業者の実態や税務当局・権力機関との関わりなどが記事になる
夜は山梨の消費税廃止各界連絡会の学習会に参加。
1時間ほど消費税増税中止の展望について話した。
新宿から中央本線で山梨へは初めての旅程。
往路はあずさ号、復路は「かいじ号」で約1時間半の移動であった。
〈写真↓ 夜の甲府駅〉