4/13(月) 18:00配信
SBC信越放送
【満蒙開拓の記憶】「行っていいという自分の一言で殺してしまった」15歳の教え子を満州へ 元教師の終わらない戦後
宮川清治さん
戦後75年、体験者が減っていくなか、ひとりひとりの心の奥底に刻まれた不都合な記憶を見つめ、平和の尊さを語り継ぐ。
松本市に住む宮川清治さんは、国民学校の教師をしていたとき、15歳の教え子を満州(現:中国東北部)に送り出した。満蒙開拓青少年義勇軍と呼ばれた国策で、その数は全国でおよそ8万5千人、長野県が最も多く7千人近い。県は学校にノルマを課して送出を進める。その先頭に立ったのが、宮川さんたち教師だった。
【満蒙開拓の記憶】「行っていいという自分の一言で殺してしまった」15歳の教え子を満州へ 元教師の終わらない戦後
満蒙開拓青少年義勇軍(提供:満蒙開拓平和記念館)
家族にも話せない記憶
2013年に長野県の阿智村に開館した満蒙開拓平和記念館は、戦争中の満蒙開拓をテーマにした全国初の施設で、開館前から体験者の証言記録に力を入れている。
松本市に住む宮川清治さんの収録に同行したのは2012年の冬。当時、93歳で、足の痛みをおして取材に応じる宮川さんを娘が支えていた。「私たちには戦争のことは何も話さないんですよ」という娘に「悪いことをしたと思っているから」とつぶやく。
満蒙開拓青少年義勇軍は、10代半ばの子どもたちを集め、毎年1万人以上を満州へ入植させる国策だった。募集は1938年から始まり、満州開拓の促進と将来の農業従事者を育成することがうたわれた。しかし、その裏には、成年男子が徴兵され満蒙開拓団の募集が滞っていたことや、対ソ連戦略における関東軍の予備軍としての軍事的目的が隠されていた。
長野県は、町や村に人数を割り当て、学校単位で募集を行ったが、大きな役割を担ったのが、信濃教育会という教員がつくる研究団体だった。学校に絶大な影響力をもっていたため、県は信濃教育会に対して、必ず割り当ての人数を確保するように強く要請する。各学校へのノルマは厳しくなり、教師が必死に生徒たちを勧誘した。
【満蒙開拓の記憶】「行っていいという自分の一言で殺してしまった」15歳の教え子を満州へ 元教師の終わらない戦後
宮川清治さん(24歳当時)
国策を進めることが教育だった
国民学校の教師だった宮川さんは、長野県の南に位置する平岡村(現:天龍村)に赴任していた。毎年、4人から5人の割り当てが課せられ、達成は村をあげての悲願だった。学校で募集の担当になった宮川さんは、茨城県にあった内原訓練所を視察する。全国から集められた子どもたちが、満州へ渡る前に、ここで3ヶ月の訓練を受けていた。宮川さんは、指導者の話を聞き、農業や勉強、軍事訓練に励む子どもたちの生き生きとした姿を目にする。
「15歳の少年を満州に出すなんて、心のなかでは反対していた。それが訓練所で義勇軍の重要性を見聞きして、変わったね、気が変わって、学校に戻ってから義勇軍の教育をやったわけ。」
その年、宮川さんは、4人の教え子を満州へ送り出し、村はノルマを達成することができた。一番喜んだのが村長と校長だった。今まで割り当てが達成できず、片身の狭い思いをしていたが、「宮川先生のおかげで今年から威張れる」と感謝を伝えられた。先頭に立って進めた義勇軍送出だったが、本当に正しいのか気持ちは揺れていた。15歳といえば今の中学2年生。満州へ送り込むことは無茶な政策ではないのか、戦いが始まったときに駆り出されることはないのか、そんな不安がよぎった。
少年たちが見た満州の夢
満州へ渡った少年たちはどのような道を辿ったのか。長野県の北部、山ノ内町に住む須田光司さんを訪ねた。14歳のとき、満蒙開拓青少年義勇軍に参加した。当時、家は山あいの僅かな土地を耕し生計を立てていた。8人兄弟の三男で、将来を考えるようになったのは、国民学校を卒業する頃だった。
「家にいても自分の田畑はないからね、みんな小作で。衣類だって、ほとんどつぎはぎだらけ。食いたくても食糧はない。土地をわけてもらって、分家というわけにはいかないからね。だからいっそのこと満州へ行ったほうが何とかなるだろうと」。
周辺の町や村から集まった総勢200人の子どもたちは、中隊長の名前をとって、頓所(とんどころ)中隊と呼ばれた。ほとんどが国民学校を卒業したばかりの14歳から15歳の少年だった。
「不安がないと言えば嘘になるけどね、自分で行く気になっていたんだから。大東亜共栄圏なんて言ってね、とにかく日本が、日本人が全てだと。もう希望に燃えてね。」
1944年6月、満州へ。大きな訓練所で共同生活が始まった。生活は、自給自足。3年の訓練を終えれば、開拓団として独立。家と土地をもち、地主になることができる。軍隊式の生活は、気の休まる暇もなく、大陸の農業といっても、畑に出て草狩りばかり。どこまでやれば終わるのか、気の遠くなるような毎日だったが、地主になるという夢が支えだった。
【満蒙開拓の記憶】「行っていいという自分の一言で殺してしまった」15歳の教え子を満州へ 元教師の終わらない戦後
須田さんが所属した頓所中隊
これが人間なのか
1945年8月9日、激しい砲撃の音に、須田さんたちは震え上がった。戦闘機が上空を通過していく。近くの開拓団から、戦争が始まったらしいと連絡があった。状況がわからないまま、中隊長の指示で、荷物をまとめ、須田さんたちの逃避行が始まった。
ソ連軍が国境を超えて侵攻していた。この日、大本営は関東軍へ命令を下している。満州を放棄して、朝鮮半島を防衛するというものだった。国境の部隊はいち早く南下、少年たちを守る軍隊はすでにいなかった。関東軍の拠点だった勃利、林口、牡丹江は、すでにソ連軍が制圧、山中に身をひそめながら逃げ続ける。訓練所を出て2週間。深い山に入っていた。靴の底は破れ、眠気が襲い、食べ物もない。草や、木の芽をかじったが、苦くて、渋くて、とても飲み込めない。小休止の度に、起き上がれない友だちが出始めていた。
「友だちが倒れて、動けなくても、『連れてってくれ』という叫びを聞いていながら、どうすることもできない。自分だけで精一杯なんだから」
須田さんは、倒れた友だちを振り返らず、歩き出す。
2ヵ月後、北朝鮮との国境に近い延吉へ辿り着く。収容されたのは刑務所だった建物。冬が近づいていた。コンクリートの上にアンペラという薄いものが一枚敷いてあるだけで、麻袋をかぶって眠った。おやすみと言って眠った友だちが、朝起きたら動かない。須田さんは、次は自分の番なのかと恐怖にかられ、夢中で彼の服をはいで、体に巻きつけた。
「普通だったら死人が着ていたのをはいで着ることはしないでしょう、普通ならね。そのときは自分も薄着で、零下30度という寒さの中でね、そうやらざるを得ない。自分が生きるためにね」
別の収容所に移ると、恐ろしいことが始まった。早い時期に渡満した義勇軍の先輩による虐待だった。
「食べ物は自分たちでとって全部食べちゃう。だから下の方は段々弱ってしまう。助けようと思って口を出せば、貴様!ということだからね。自分の欲のために、人を殴ったりする。収容所のなかで殺された人もおりますよ。チェーンで殴られてね、夜、外へしばりつけられて凍死してしまった。これが人間なのか、恐ろしかったですね」。
満蒙開拓青少年義勇軍は、全国でおよそ8万5千人。3分の1を超える3万人余りが命を落とした。須田さんがいた頓所中隊は総勢200人、半数を超える118人が死亡した。
終わらない戦後を生きる
元教師の宮川清治さん。戦後、送り出した教え子の一人が、収容所で亡くなったことを知る。重い足取りで生徒の両親を訪ねた。
「親はね、そういう運命にあったから、先生そんなことを心配しなくてもいい。あの子は、自分でも行くと言って親たちも賛成したから、苦にしては困るって。そう言われても、私の『行っていい』という一言で、ひとり殺した。忘れようとしたって、夢見ちゃって駄目だ。」
戦場で命を落とした10代半ばの少年たちは、軍国主義の犠牲者とされた。ひとりの教師として、本当にそれで終わりにしていいのか、何度も自分に問いかけた。
「時代がそういう時代だったから諦めろと言ったってね、殺した側になると諦めきれない。こういう話をするのは本当に嫌だ」
宮川さんは、声を震わせ、突然、泣き崩れた。
戦後、自責の念から教職を離れていたが、恩師のすすめもあり、再び教壇に立った。二度と過ちを繰り返さないための教育。それが人生をかけて為すべき使命だと考えるようになった。しかし、心に刺さったままの棘の痛みが和らぐことはない。穏やかな表情の陰に、降ろすことのできない重荷を背負い、終わらない戦後を生きてきた苦悩が滲んでいた。
連載:満蒙開拓の記憶
この記事は信越放送とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。1931年に満洲事変が起きると、翌年、現在の中国東北部に「満洲国」が建国。日本全国から農民を中心とした移民「満蒙開拓団」が送り出され、長野県からは最も多い3万人余りが満州に渡りました。戦後75年、戦争体験者が減っていくなか、ひとりひとりの記憶から満蒙開拓の歴史を問い直します。
SBC信越放送
tar***** | 1時間前
これは遠い昔の話ではない。私の母の一族は、満州に渡り、銃殺された者、朝鮮半島を彷徨ってマラリアにかかった者、引き揚げで全財産を没収された者、シベリアに抑留された者がたくさんいる。いつの時代も政府の甘い美味しい話にのってはいけない。
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god***** | 1時間前
>>訓練所を出て2週間。深い山に入っていた。--2ヵ月後、北朝鮮との国境に近い延吉へ辿り着く。
須田さんが当時、どこの訓練所に配属され、そこから2か月の逃避行でどのルートをたどって延吉にたどり着いたのか記事には記載がありませんが、ある意味、ロシアの侵略が夏だったから生き残れたのかも。冬の満州では山中逃避行ですぐに凍死だったでしょう。
多くの日本人にとって旧満州国は既に歴史ですが、吉林省延吉と長春の間にある敦化市のハルバ嶺等には日本軍の遺棄化学兵器が多数埋められたため、化学兵器禁止条約に基づき、今もその廃棄処理事業が続いており、内閣府には専門の部署もあります。ちなみにコロナで有名にあった武漢でも2014-15年に廃棄処理作業が行われました。
戦争が残した爪痕を理解し、その残酷さを経験した人々の思いを語り継ぐことは、とても大切だと思います。
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kok***** | 1時間前
私の叔父叔母一家も満蒙開拓団として牡丹江へ渡りました。
今の時代では測りきれない常識が当時の時勢を動かしていたのです。
その様な時空が作り出す正義や常識はその時代に生きる者には冷静に理解できる者は少ないのは当たり前のことなのです。 しかし、あえて、それを語ることのできる人は今の時代の人は称賛できるのかもしれません。
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nbt***** | 1時間前
涙無しでは読めなかった。。戦争になって、同じような悲しみを繰り返さないよう、政治力も軍事力も大切。平和な世の中が続きますように。
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tob***** | 1時間前
少年、長野県出身、夜間突然の空襲、ドラマ「大地の子」のリアル体験と感じた。主人公は紆余曲折を経て人生とアイデンティティを確立した。
でも現実はノルマによって少年が駆り出され親と離れ離れのまま死ぬ子も多数。余りにも気の毒だ。
学校が休みでこれを目にする子供達がいるなら記事やドラマから感じて学ぶ機会にして欲しい。
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lav***** | 1時間前
いつの時代にも国策には警戒が必要だ。満州開拓団も、直近で言えば、インバウンド政策も。インバウンドは、破綻しただけではなく、今、国家の根底も揺るがしている。貪欲な経済政策には、大きな落とし穴がある。
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mas***** | 1時間前
当時は酷かったんだなと考えるのは間違いである。
現在でもダブルスタンダードであり、矛盾だらけの中で上が逃げ、自分で判断を下し責任を取らされる。現在でも社会構造は変わらない。
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**** | 1時間前
骨のある企画だね。
政府は、当事者が全員亡くなるのを待って、歴史から抹殺するだろう。
朝日新聞名古屋本社も語り継ぐ戦争というタイトルで伊藤智章記者がずっと記事にまとめている。
満蒙開拓団記念館が出来た時にごくごく僅かだが、寄付させていただいた。
NHKアーカイブスにも、カセットテープによる満蒙開拓団の当事者の手記があったが、もうNHKもこの話は興味を持たないらしく、全くラジオでも再放送していない。。。
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dee***** | 1時間前
「守れ満蒙、日本の生命線」。
当時の新聞紙面に踊った見出しで、貧資源国日本にとって石炭と鉄鉱石確保が目的の、いわば国民的合意でした。
今やマラッカ海峡ペルシャ湾がその様相ですが、硬直的な考えでなく柔軟に対処し、過ぎたる外交の無き様務めるべきです。
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shi***** | 1時間前
満洲自体に魅力があったのは間違いないから、
行かせた人が騙した訳じゃないし、
行った人が必ずしも騙された訳でもない。
ただそもそも人様の土地だったというのが問題。
path-finder | 1時間前
私は滋賀に出身ですが、私の父も満蒙開拓団に参加していたようです。その後、召集され終戦を迎えましたが、そのまま捕虜としてシベリアに抑留されて森林伐採の作業に従事していた様です。父は、生前も、その頃のことはほとんど口にしなかったので、あまり詳しいことは知りません。
不肖の息子ですが、戦争だけは絶対に避けたい、幼い子供たちを戦場に送ることだけは避けたい、との思いで勤めて来ました。
二度と同じ過ちを繰り返してはいけない、と言う思いは息子が引き継いでくれているものと信じています。
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jan***** | 1時間前
1945年のはじめ頃からソ連対日参戦の話が広がり高級官僚は満州から逃げ始めていたらしい。
これは今の時代も通じる所があるかもしれませんが自分が困ってる時は少なくても政治家や官僚が助けてくれるなどとは思わないほうがいいということではないでしょうか。
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mat***** | 1時間前
私の父の兄は、南方で戦死した。そうです。
もちろん、遺骨はなかった。そうです。
母親(祖母)は、最後まで、息子の戦死を信じなかった。そうです。
戦争を知らずに育った私達。
何を教わり、何を伝えていけるだろう。
戦争は絶対悪との共通認識だけでも、って考えています。
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mae***** | 1時間前
戦争映画観て、私が思ったのは、
なるべく本土にいること。
島や外国にいる人たちは見捨てられる。
外国でひどい仕打ちにあう。
コロナもそうだよな。
今、アメリカではアジア人差別が酷いらしいね。
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mkr | 1時間前
うちの祖母も93歳。
幼い頃はよくお風呂で戦争の話を聞きました。出兵しない女性でもお国のためと働いている軍事工場なども爆撃にあったり。
1番覚えているのは、空襲から逃げる途中、一緒に逃げていた友達が目の前で焼夷弾にやられ、泣きながら肉片を拾ったと言っていました。
まだ小学校低学年くらいで聞いた話ですが、忘れることはできません。聞いただけでも衝撃的な記憶になるのだから、体験した人々はどれだけ重い記憶なのか。
祖母は軽い認知症もあり心臓も病んできたので、今では貴重な体験談です。
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スナバ | 56分前
長野県の出身ですが、こういう事はほとんど授業などで教わらず、大人もこのことは話しませんでした。戦後も信濃教育会というのは大きな力を持っていたようです。
私がこれを知ったのは東京へ出てきてから(昭和45年以降)です。
やはり、教育というのは大事、人間は都合の悪いことは隠すようなことをしがちですね。
返信2
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blu***** | 1時間前
行き着くとこまで行ってしまった第二次世界大戦。
今はもうその経験者も数少なく、あと10年もすれば生の声を聞くことはできなくなる。
私は戦争を知らない世代だけど、子供には多方面から見た戦争を伝えたい。
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wtt***** | 59分前
ありがとうございます。
この記事を、記憶を、残してください。
祖父は戦争で亡くなって、
祖母は生活が厳しかった、とだけ言ってました。
もっとどんなもの着て、食べて、
情勢が変化したのか、生の声を聞けば良かったと今更後悔してます。
今は技術も発達してるから
映像で画像で本人の言葉を残してもらえたら
この先の世代にも重みを持った言葉を届けられます。
返信0
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cbe***** | 1時間前
日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連に許せない気持ちはあるものの、戦争とはそういうものだともいえる。日本だって満州を攻略するにあたっては騙し討ちみたいなことは多々やってる。
やはり戦争はやらないに越したことはないが、やる以上は負けてはいけない。
負けないためには過去の失敗に対する反省が必要である。
しかしながら、日本は第二次世界大戦における失敗を全く反省していない。これじゃぁ、また戦争になっても負けるでしょうね。
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fab***** | 1時間前
戦況悪化に伴い満蒙開拓団の志願が減ると農林省は農村にあらゆる圧力を掛けた。
ある村長は断腸の思いで村から若者を送り出したが彼らは再び故郷の地を踏むことはなかった。
戦後村長は責任を感じ自ら命を絶った。
一方農林省の担当者は後年開拓団について語り、政策の正当性の主張はすれど開拓民への謝罪や後悔の言葉は一切なかった。
ter***** | 50分前
今の若い人は、アメリカ・英国・オランダと日本が戦争をしたことを知らない人がいると聞いたことがある。ある意味、歴史教育の貧弱さを表している。
私は、子どもの頃から感じているが、歴史教育は先史時代から現代に向けて辿るのではなく、現代から過去に向けて辿りながら教えた方が、絶対に実になると考える。
その方が、豊かな現代は先人の苦労と犠牲の上に成り立っていることが実感できると考える。
返信2
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tai***** | 47分前
満蒙開拓団ではないけど北朝鮮への帰国事業も日本政府の奨励で夢の国に渡ったわけだけど、その後聞く話は悲惨なことばかり、南米に渡った人達も人並みの苦労ではなかった、無論アメリカに移住した人は差別でいいようがない苦労をしてる、決して権力者の甘言に乗ってはいけないてことが教訓として残っている
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lzb***** | 40分前
今も昔も大人が子供達に与える影響は大きい。
背中を押した、選択肢を与えた。これは紛れもない事実だ。子供達はきっと夢を見て、そして夢中で旅立ったに違いない。きつい言い方をすれば、時代が悪かったというのは生き残った者の精神安定剤でしかない。不運にもこの選択肢を選んでしまった子供達とこの先生の失敗談を次世代もその次の世代までも正しく進む判断材料として大切に語り継ぐ必要がある。老先生が声を震わせて伝えた事実を風化させない事こそが若干15歳程で儚く散っていった子供達に対する現代の大人が出来る供養だと思う
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児島良平 | 1時間前
親父が出身地の武蔵小山商店街の人が参加した荏原満蒙開拓団について晩年調べてたので概略は知ってるが、少年義勇軍は知らなかった。東京の場合は配給制になって売るものがなくなった商店主が動員されたけど、農家は二男、三男が動員されて、山形や山梨もかなりの人が帰れなかったと聞いてる。戦中、兵役に就けない人達を満州に送った棄民政策。生きている人はもっと語って欲しい。
返信0
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yko***** | 1時間前
行く方も送り出す方もその時は正しいと思ってた。翻って現代、いまの教育や制度が正しいと信じていいのか。例えば戦前の反省から、コロナ対策で私権制限はできない、都市のロックダウンは出来ない。だがその為に感染爆発が起こったら?多数の死者がでたら?また「反省」するのか。
返信2
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jhn***** | 40分前
ソ連が侵入したとき、関東軍幹部や満鉄の役員などはいの一番に逃げ出し、国境に入植した開拓者や兵士は何の命令もなく取り残された。そして貧しい農民や若者を甘言で満州に送り出した役人や教育者は、戦後口を拭って安閑とその職に居座った。これからは風潮に流されることなく、一人一人がしっかり本質を見極める目を養わねばならない。右に倣えではなく、自分自身が考える力を養うことを教育の目標にしなければならない。
返信0
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aco***** | 54分前
この話では勧誘があるが、一旗揚げようと自ら行ったものも少なくなかったとは聞いています。
長野の8人兄弟の話がそうですが、国内でも生き残れる見込みが薄いんです。
当時は炭鉱やらなんやらありましたが、いまとちがって安全性とかしっかりしていないから、落盤で亡くなる人も珍しくない。仕事そのものも多くないから、仕事にありつけるかもわからない。一事が万事そう。ちょっとしたことですぐに亡くなる時代。
家業で失敗して地元に居ずらくなったとか、人に言えないことをしてしまったとか色々です。それを満州が吸収した。
仕事がなかったんですよ。でなきゃ海を越えた遠いところに子供を送り出すものですか。
残るも行くも、生き残れるかわからない、そういう時代だったと。
返信0
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gri***** | 58分前
日本の敗戦が決まった翌日から、学校での教育がガラッと変わった。お年寄りに聴いたことがるが、威張り散らして軍国教育を説いていた教師が、父兄に袋叩きにあったという。お国のために・・欲しがりません勝つまではと、個人は虫けらのごとくの教育が、一夜にして一転したのだ。その当時の事を話してくれる方も少なくなった。
先日伺った話だが、台北で誕生し、中学生で終戦を迎えたとのこと。
玉音放送も現地で聞いたらしい。戦後、共産党から追われた蒋介石が
国を治めている時代に、通学生が一人で船に乗って帰国したらしい。
次に彼に合うときに続きをしっかり聞こうと思う。
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met***** | 40分前
両親共に満州生まれで、両家とも満州に行き満州から帰ってきたので、満州の話はよく聞きました。
祖父は捕虜に連れられてくなか、仲間三人と脱出して生き残れたのは祖父一人。
映画やドラマのような表現より過酷だったと、生前話をしていたそうです。
祖母は丸坊主で女性に見えないようにし、何日も電車が止まって命からがら日本に戻ってきたそうです。
100歳になりますが、まだ普通に生活しながら生きております。
もう少し満州の事を日本の人達に知って欲しいと思います。
政治の悲劇の一つであり、悪政は悲劇を生む事です。
今の堕落した政治や司法を見ると、また悲劇を生産してくように思えてなりません。
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p97***** | 42分前
満蒙開拓青少年義勇軍は、農村の次男や三男などの青少年を中心に行われた武装開拓移民です。規模は約66万と言われています。
実態は対ソ連戦における兵力確保と満州開拓を混在させたもので、終戦時に多くの死者や残留孤児をうみました。
要は国策の名の下に送り込まれたのです。
この問題に未だに国家は責任をとっていません。また、歴史の闇に埋もれる可能性があった問題です。忘れてはいけない国の誤りです。