第二の人生を満喫!+愛犬ウィル(享年14歳)

還暦で娘・息子は結婚し孫がいます
様々な障害を抱え妻に支えられながら前向きに暮らしてます。

ぷぷりさんへ

2007-08-02 22:54:41 | 心の旅

ぷぷりさん。

宇宙飛行士なんてありえない。。。」のコメントについて
キツク言ったのは反省してます。
そのように言ったのは、理由があってのことです。

私がパニック障害を発症したとき、カウンセリングの看板
を掛けたところに行ったことがあります。
しかし、
5回目位で、名前も知られていない協会のカウンセラー
だと分かりました。
そのお陰で病状は悪化し1回目の自殺未遂をしたのは、
このときです。
病院に3ヶ月入院しました。

これ以来、
私はカウンセリングの勉強をしようと思いました。
私も病気になってから、カウンセリングの勉強をしようと
思ったのはぷぷりさんも同じですね。

それから
精神対話士や産業カウンセラーを受講し修了しました。
また、国分康孝先生のグループエンカウンターにも参加
したことがあります。
ですから
カウンセリングの事は、少なからず知っています。

ぷぷりさんは、どんなカウンセリングの勉強をしているのかは
知りませんが、少し分かり易く、列挙してみます。

○カウンセリング
 ・職場カウンセリング
 ・産業カウンセリング
 ・ライン・カウンセリング
 ・牧会カウンセリング
  ・矯正カウンセリング
 ・高齢者カウンセリング
 ・学生相談
 ・リハビリテーション・カウンセリング
 ・異文化間カウンセリング
 ・精神対話士(一部制限を持って病気の人と関わります)
   だいたいここまでが、健常者を対象としたカウンセラーです。

 ・学校カウンセリング
 ・メンタルヘルス・カウンセリング
 ・家族カウンセリング
 ・メディカル・ケースワーク
 ・サイキアトリック・ケースワーク
  これらは、心理療法が出来るカウンセラーが病気の人を対象
  に行います。
  * 臨床心理士、認定心理士など大学又は大学院で専門の
    教育を受け合格した人
  * 臨床心理士などでも職場カウンセリングなどを行っています。
     要するに、臨床心理士は何でもOKと言うことですね。

HPにあるロージャースの来談者中心療法は、
一つの技法です。
来談者中心療法を行うには、傾聴技法をスーパーバイザーの下で
マスターする必要があります。

危険だと言ったのは、
教科書の通りに聴くだけと言っても、そこで少し療法を使うことに
なり、カウンセリングと心理療法の区別が付かないと、相手を危険
な状態にしてしまいますし、ぷぷりさんの叔母さんを私のように苦し
んで欲しくないことやぷぷりさん自身が軽い気持ちで、カウンセリング
の練習(練習じゃないと言っていますが)をして欲しくないのです。

カウンセリングは、(簡単に述べます)
健常者であり、健常者とは現実生活に適応できるほどに自我が
成長し、ある程度のフラストレーション・トランスと柔軟性を持って
いることで、現実生活でさらに自己実現出来るように援助するのが
目的です。
日本カウンセリング学会定義参照

心理療法は、(簡単に述べます)
病理的パーソナリティを持ち、現実生活から落ちこぼれているのを
現実生活に引き上げる(つまり治療)が目的です。
日本臨床心理士資格認定協会参照

ぷぷりさんは今、勉強をし始めたばかりですよね。
理論、技法も大切ですが、まずは自己覚知と自己一致が先だと
思います。

私自身、現在、精神科医師や臨床心理士に通う身であり、
自己覚知や自己一致が出来ていないので、
誰かにカウンセリングをしようとは思いません。
病気である私がカウンセリングを行えば、相手を危険に
さらすからです。
あくまでも、私自身の成長のために学びました。

ぷぷりさんも、
カウンセリングの勉強は、今は誰かのためではなく
ぷぷりさん自身の成長のために学んで欲しいと思います。


私の机の前に、いくつかの詩を貼っていますが、そのうちの
一つを紹介します。

本気

本気になると
世界が変ってくる
自分が変ってくる

変ってこなかったら
まだ本気になっていない証拠だ
本気な恋
本気な仕事

ああ
人間一度
こいつを
つかまんことには

私は病気のことに対して、ぷぷりさんやみんなには、
本気で正面から向き合っています。
ふざけたり、本気じゃなかったりすると向き合う相手から
信頼されないからです。

人との繋がりは信頼だと思っています。
カウンセリングでも同じですよね。

このことを契機に
お互い成長し合えると良いと思っています。

カウンセリングのことで何かあれば
私の分る範囲でお手伝いしますよ。
気軽に言って下さい。


 


ひと休み コラム3

2007-08-02 10:41:49 | 日々の「つぶやき」

偏見や差別は何故あるのだろうか?

偏見と差別のメカニズム
中川 喜代子
明石書店

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「偏見と差別のメカニズム」という本を読んで見ました。

簡単に言えば

子どもの時の教育で
~してはならない。
~しなければならない。
と言ったしつけで
「ものの見方」や「考え方」が
子どもに生き写しになります。

親の教育次第で、偏見や差別が生まれるのです。

社会の中で

ステレオタイプによるカテゴリー化される。
(いわゆるレッテル貼りである。)
          
         偏  見
 ○誹謗
   陰口を言うなどのかたちで口にする。
 ○回避
   かなりの不便を犠牲にしてでも、嫌いなグループの
   メンバーには近づかず、自分の方から相手を避け
   るようになる。
          
          差 別
 
隔離
   気に入らない相手が属するグループを違う地域に排除
 ○身体的攻撃
   暴力の行使
 ○絶滅
   ジェノサイド。ヒットラーのユダヤ人のガス室による虐殺

これが、偏見・差別のメカニズムです。


現代社会において、誰の中にも
少なからず偏見・差別は持っていると思います。
その偏見・差別を小さくするには、
人権

男女共同参画などの
意識を持つことだと言われています。
また
私のような病気の人間を怖いと感じられなくなる
意識も必要だと思います。

病気になってから
障がい者
目の上のタンコブ
仕事に来てるんじゃないだろう
など色々な事を言われました。

病気になってから
偏見・差別がなんであるのかを考えて来ました。
一朝一夕で無くなるとは思えませんが、
少なくとも、何らかの障害を抱えた方たちが
住みやすい社会が必要なことは確かだと思っています。

 

最後に
読んだ本の中におもしろい事が書いてありました。

二人の裁判官が、夕食後、仕事のことについて話し合っています。
「今日、私が担当したAという被告の裁判をどうしたものでしょうか?
あなたなら、どのように裁きますか?」
一方の裁判官が、もう一人の裁判官に話しかけました。
すると、意見を求められた裁判官は、
「そのようなことに私が答えられないということを、あなたはご存知
ではありませんか。Aの父親は5年前に死んでしまったということ
だけでなく、彼は、私の息子でもあるのですから・・・」と答えました。

みなさんは、この二人の裁判官の会話の意味が分りますか。
二人目の裁判官は、どうしてAを私の息子と言ったのでしょうか?


折り合いかぁ~

2007-08-02 03:37:59 | 日々の「つぶやき」

  この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。
投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開してます。

 

 

前の記事

まだまだ修行中

私なりに

仕事と労働について書きました。

仕事が労働になるのもあるなぁと思いました。

例えば

収入を得るための仕事から

やりがいや生きがいを求めての労働へ

という考え方です。

それは、

やりがいや生きがいを実感しながら収入を得るという事です。

そんな仕事があるのかぁ!

そんな仕事があればみんな苦労してないよ!

と言われそうですが

天職とまでは行かないけれども

肌が合う仕事というのはあるんじゃないか

と思います。

肌が合う、合わないはやってみなければ分りませんし

何より、それを見つけ出すには時間が掛かる事だと思います。

自分は、どんな仕事をしたいのか

というよりも

何をしたいのか

だと感じます。

 

私の場合、

何をしたいのかよりも

何かおもしろそうだ

または

出来そうと言う感覚で仕事に就きました。

若く、健康なときは、それで何の疑問も感じませんでした。

病気になってから

生きること

今、ここにいること(存在していること)

Etc・・・

などを病気に考えさせられました。

ですから

仕事の持っている意味が私の前に現れて来たのです。

 

生きるためには仕事をして収入を得なければ

暮らしてはいけないのは当然です。

ただ、生きるためだけに仕事をするのは

何か虚しいと感じるのです。

 

それは

人間関係にも言えるのではないかと思います。

人間関係なしでは、仕事をするのは難しいと思います。

どこかの会社で仕事をしている上で、会社の職場で人間関係が

必ずといって良いほどあるのは確かです。

例えば

電車や飛行機に乗って移動するとき

お互いの顔を見合わせる事は少ないんじゃないかと思います。

降りたときに、隣にいた人の顔を覚えていないのが

今では普通になっているような感じがします。

仕事場では、ある決められた事に従ってマニュアル通りにやるか

流れにそってラインの一部としてやるか

色々な仕事のやり方があると思います。

現実の仕事場を体験上から考えると、合理化によって

隙間がなくなり成果に追われているような感じがします。

 

そんな中で

私のような病気の人間の居る場所が狭くなっているような

感じがします。

 

病気になってから

家族や医師から【折り合い】を付けなきゃダメだ。

と言われます。

ひねくれた考えかも知れませんが

【折り合い】って何?と今、思います。

妥協?

自身の心を偽ること?

我慢して耐えてやること?

どうも違うような気がします。

【折り合い】について私自身、答えは未だ見つかっていません。

今、現時点の最大の関門であり

このことが感じられないと

社会復帰が出来ないんじゃないかとも思えます。

 

仕事、人間関係、折り合い

自分自身の中に答えがあるのかも知れませんが

現在、模索しています。