第二の人生を満喫!+愛犬ウィル(享年14歳)

還暦で娘・息子は結婚し孫がいます
様々な障害を抱え妻に支えられながら前向きに暮らしてます。

久々のパニック発作(大)

2007-08-07 09:33:43 | 日々の「つぶやき」

 この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。
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過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開してます。

 

 

今日はです。

何か、うつうつとした気分。。。(


昨日の夕方5時すぎに

来た~!

と思ったら

パニック発作でした。

ソラナックス2錠をすぐに飲んだが

間に合わず

ベットに横になり自律訓練法で

過ぎ去るのを待つのみ

その間

涙はボロボロ

頭の中は廻るは

腹は痛くなるは

呼吸は速いは

身体は痺れるは

久々だったんで、パニック発作を思い出してしまいました

それから

妻に介抱してもらい

ソラナックスを続けて飲んで

いつの間にか苦しい中で寝てしまいました


今日の朝は

当然のように早期覚醒

あさ2時半にバチッと目が覚めて

ボォーとしながら(

みんなの所に見に行ってました。

結局

寝れませんでした


今日は、とにかくダルイ

久々のパニック発作が尾を引いているようだ。

しかも!

パニック発作を忘れていたのに

バカ頭が思い出して

パニック発作の不安が蘇ってしまった

とにかく

エネルギーを充電して

パニック発作の不安を行動して消さなきゃと思う。

この繰り返しは辛いッス

 

追伸
あもさん~
どうして何にも言わずに
どこに行ったんですか~
どうしたんですか???
掲示板に連絡して下さい。
心配してます。

 


心を病んでいる人にやって欲しくない事 その3

2007-08-05 18:58:41 | 日々の「つぶやき」

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前に

職場の状況を確認するため

名前を言って

電話したところ

どなた様でしょうか?

言われ

固まった

もう

自分の存在は無いのかよ~


たんぽぽさん。

2007-08-05 18:05:20 | 心の旅

 

徒然なる夜に」の

たんぽぽさんとは

私が休職前ですから

う~ん

約2年位前だったと思います(しっかり憶えていません)

同じ様に苦しんでいる人がいるのかと

ネットを見ていたところ

偶然に、たんぽぽさんのHPを見つけました。

HPを始めから、読んでいくうちに

しっかりした人だなぁと思いましたし

何で、こんなしっかりした人が病気になったんだろうと

不思議に感じました。


それ以降、

何度か『やりとり』をさせてもらいました。

そのやりとりで、私の事を知っています。

悩んでいるときには

時には、考え方とか教えてもらった事もあります。

今もほぼ毎日、たんぽぽさんの記事を読んでいます。

それで記事を読んで

私自身が「何か危ない」と感じたときには

メールを送ったりしてました。


そして

この度

相互リンクをさせてもらいました。

BOOK MARKの上にあるのは、その様な理由です。


ちょっとでも励まし、助け合いながら

輪が広がっていければいいなぁと思っています。

 

たんぽぽさん

ありがとうございます。


大泣きしました~・・・・・・・・

2007-08-05 15:28:59 | 日々の「つぶやき」

今日、奇跡体験!アンビリバボーの再放送を
家族で
見ていたら、
妻や子どもと一緒に泣きました。。。

本当に感動しました。

感動した内容は、下の通りです。

25年ぶりの手紙


  昭和の爆笑王と呼ばれた
落語家・林家三平の弟子に、
一人の男がいた。通称クーペこと本間良介。
破天荒な行動で何度も破門となったが、
その度に両親や姉が頭を下げ、それに免じ
て再入門を繰り返していた。
 そんなクーペも27歳で結婚し娘が誕生した。
クーペは娘に幸江と名付け、周囲が驚くほど
溺愛した。しかし自由奔放な性格が変わるこ
とはなく酒やギャンブルにひたる日々が続き、
結婚3年目に妻は離婚を決意し幸江を連れて
出て行くことになった。クーペは幸江が1歳で生き別
れることになった。
 その後も度重なる素行不良で、9回目の破門で落
語会を永久追放された。
全てを失ったクーペはますます酒とギャンブルに溺れ
借金もふくれあがり、別れた妻と娘にも何もしてあげら
れず、きっと娘は自分を恨んでいるに違いないと思って
過ごしてきた。
 2003年、55歳になっていたクーペは友人に借りた金で
東京多摩市にライブバーを開いたものの経営は思わしくなく、
アパートを借りる金もないので店で寝泊まりする毎日だった。
そんなある日、彼のもとに1歳の時に別れた娘・幸江から
一通の手紙が届いた。

  手紙には、幸江が興信所に頼んで
クーペの住所を調べたこと、会ってみ
たいけれどやめたほうがいいと思うこと、
そして生きているうちに
一言「生んでくれてありがとう」と伝えた
かった、という言葉が並んでいた。
 友人のshifoさんにも手紙を見せると、
娘を一日たりとも忘れたことがないと聞
かされていた彼女は「良かったね」とクーペ
に言葉をかけた。
 クーペはその夜、一心不乱に返事を書き続けた。
しかし返事を出すことはできなかった。手紙には
幸江の住所は書かれておらず、
封筒の裏には郵便局あてに「郵送先に誤りがあり届
かない場合は破棄してください」と書かれていた。
 そんな中、クーペが娘に書いた返事にshifoが曲
をつけた。彼女は歌にして歌ったらいつか娘に届
くのではないかと思ったのだ。

実はshifoはmihimaruGTの「気分上々↑↑」を作曲
するなどシンガーソングライターとして活躍していた
のだ。
 幸江から手紙が届き、クーペは変わった。周囲も驚
いたのだが酒をやめ、届くかわからない曲を歌い続け、
さらにshifoとコンビを組みライブ活動を始めた。
 クーペは歌がうまいわけではなかったがなぜか
人の心に響き、気づけば日比谷野外音楽堂で
単独ライブを行うまでになった。

  そして次のライブは福岡でやること
が決まったのだが、それは特別なこと
だった。幸江の手紙の消印が福岡だっ
たからだ。福岡に向かうと、たまたま入った
店の主人が新聞記者の知り合いで、
クーペのことが記事になった。それがきっかけで
ラジオやニュースで取り上げられた。
 これで娘に会えるとクーペは信じて疑わなかった。
ライブ当日、
クーペは手紙に貼ってあった写真をもとに
娘の姿を探した。

しかし娘の姿を見つけることはできなかった。
クーペは娘が自分に会わない選択をしたのだと思ったが、
幸江にも事情があった。
 1歳でクーペと別れた幸江は、4歳の時に母親が再婚し、
いつも優しい父親と祖父母に囲まれ何不自由なく成長
した。
 彼女が本当の父親の存在を知ったのは小学校
2年生の時。
保険証に「養女」と書かれていることを疑問に思い、
その時に母親が教えてくれたのだ。
母親は、本当の父親は幸江を捨てたわけではないので
恨まないようにと話した。
 それ以来家族の中で実の父親の話題がのぼることはなく、
幸江にとってその存在は宙ぶらりんのまま月日がたった。

  そして23歳の時に車購入のために
戸籍謄本を取り寄せたところ、そこには
初めて見る父親の名前が記されていた。
 名前を見て、実の父親の存在が急に
現実のものに思われ、幸江は生きている
うちに自分の気持ちを伝えたいと考え、
興信所に頼んで住所を調べた。
ほどなく住所はわかったのだが、
彼女はすぐには手紙を出せずにいた。
 小学校の頃に幸江がいじめられると、普段は無口で
静かな父が本気で怒り、彼女を守ってくれた優しい姿
を忘れられなかった。
だから自分が実の父と連絡をとるのは、愛情をたくさん
注いでくれた父親を裏切ることになるのではないか、
と思ったのだ。
 幸江は一年も悩み、手紙には2人だけの秘密にして
欲しいと書いた。
また今の両親を傷つけないように、手紙が戻らないため
の細心の注意も払った。
 そんなことを知る由もないクーペが福岡のライブから
東京に戻って4日目、
彼は店で脳梗塞で倒れた。右半身が麻痺し、ろれつも回
らなかった。
娘から手紙をもらう前のクーペだったら、生きることを諦めて
しまっていたかもしれない。
でも彼はもう昔のクーペではなかった。

  彼は娘に手紙をもらった時、
店のトイレの片隅に小さく「誇り」と書いた。
娘に恥じない生き方をしようと決めたのだ。
クーペは昼も夜もリハビリに取り組んだ。
少しでも早く娘に誇れる父になりたかった。
 その頃、幸江は自分のために父が福岡でコンサート
をしたことをネットで初めて知った。

そこには写真もあり、なぜか涙が次から次へと溢れてきた。
 2005年12月24日、脳梗塞からわずか2ヶ月で退院した
クーペに、幸江から電話がかかってきた。
最高のクリスマスプレゼントだった。
クーペは手紙をくれたことに感謝を述べ、
次の福岡でのライブを見に来て欲しいと幸江に伝えた。
 2006年2月25日、福岡でのコンサートの前日、幸江のもとに
クーペがコンサートまでに間に合わせようと
必死になって作った本が届いた。
そこには手紙をもらってから始めたクーペの絵
や書が掲載されていた。
 さらに、幸江がクーペに送った手紙も載っていた。
感謝の気持ちのつもりでクーペは載せたのだが、
2人だけの秘密にして欲しいと
書いたはずの幸江は傷ついた。
そしてクーペのもとに幸江の友人から、
コンサートには行けないと電話が入った。
娘に会える、その嬉しさから調子に乗った
クーペの大失敗だった。

  ライブ当日、急遽出版を差し止めたものの、
クーペはショックから立ち直ることができなかった。
一方で父親に会うのをやめようとしていた幸江
に母親は、「自分に嘘はつかない方がいいよ」
と言葉をかけた。
 コンサートが始まり、クーペは何気なく客席の
最前列に目をやった。そこには幸江の姿があった。
28年ぶりの再会だった。
 クーペは「25年ぶりの手紙」
作詞:クーペ 作曲:shifo)を歌った。
ところどころ、涙で歌うことはできなくなっていた。
客席の幸江も涙を流した。
 コンサート終了後、初めて2人は向かい合って話をした。
クーペは生きてて良かった、
やっと自分の人生が始まると思った、と思い出す。
 今年6月16日、クーペは3回目の福岡での
コンサートを行った。
実は今回、嬉しい知らせがあった。
オリジナルの化粧品の社長として活躍している幸江さんが、
メイクとしてコンサートを手伝ってくれることになったのだ。
 幸江さんは現在の2人の関係を、
みんなに2人の父親がいて幸せだね、
と言ってもらえるようになって良かった、と話す。
そして、現在のような関係になることができたのは、
今の父親と母親のお陰だとあらためて思っているという。

 

クーペさんとSHIFOさんの感動の歌は下のURLから
無料でダウンロード出来ます。
一度、聞いて見て下さい。

http://www.voiceblog.jp/coupeandshifo/

 


あもさんへ

2007-08-05 12:29:15 | 心の旅

 

あもさん。

参考になるかどうか分りませんが、
私が認知行動療法によって広場恐怖から脱出した事を
お話します。

あもさんが
リハビリを始めるとこんな小さなことができないで
 
社会に出れるのかと涙がでます」
と言っている通り苦しく・辛いのは十分、分ります。

私の場合、
パニック障害が発症して1年後(今から約4年位前かな)に
医師の指示の下、入院していたので
認知行動療法を行いました。
私にとっては未知の世界で不安や恐怖はありました。

最初は
病棟から出る訓練
それから次第に
病院外へ出る訓練となって行きました。

どの訓練においても
苦しく・辛かったし、
初めから全て順調に出来た訳ではありません。
失敗して落ち込んで、出れなくなった事も
数え切れない位あります。
その度に
家族や医師そして看護師、職場の心ある方からの励ましや
話を聴いてもらったりして
勇気を出して挑戦しました。

未知の世界に挑戦するのは
怖かったし不安もありました。
そんな中
私の背中を押してくれたのは
家族や医師そして看護師、職場の心ある方たちでした。
私、独りでは出来なかったと思います。

特に
駅に行くこと
電車に乗ること
バスに乗ること
人混みの中にいること
飛行機に乗ること
などは時間が掛かりました。
途中で引き返して来たことは数知れませんし
救急車で運ばれたこともあります。

あもさんは「甘え」と考えている様ですが
私は「甘え」だとは思いません。

私も理解の無い周囲の人たちから
そんな事も出来ないのは
根性がないから
やる気がないから
怠けているから
自分に甘えているから
色々言われました。

根性論、精神論も時には必要かも知れませんが
それだけで治る病気じゃないと心で思っていまし
周囲の理解の無い人に説明を何度もしました。
でも
理解してもらえずに、人を信じる事が出来なって
いきました。

今、考えると
広場恐怖を克服した後も
人を信じることに
時間が掛かりました。

あもさんに聞いて欲しいのは
広場恐怖は医師などの専門家の力を借りて
克服出来ます。
その克服のため挑戦している時、
何で分ってくれないのか
と悩むと思います。
そんな時
思い出して欲しいのは
ぷぷり小隊の人たちは理解してくれている
という事です。
周囲に理解してくれる人がいなくても
その人たちだけは分ってくれている

思って欲しい。
苦しく・辛い時
あもさんのブログに、その心を思いっきり
書いて下さい。
どこまで、支えられるか分らないけど
出来るだけ支えるから

広場恐怖を克服した後
人を信じられなくなったら
また
その克服をしなきゃならないんで
そうならない為に
ぷぷり小隊の人たちを信じて下さい。

こんな偉そうな事を書いている私は
実は
自分自身に言い聞かせながら書いているし
調子が悪くても、悪いなりに自分の心を
書いてます。
私の場合、そうする事で少し、スッキリ
するんですが。。。

最後に
みんなで克服しましょう。

 

 


回復傾向・・・・・・

2007-08-04 09:29:52 | 日々の「つぶやき」

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回復傾向ォォォォォォォォォォオッ!です。

でも

まだ

頭がボオォォッッッッッッッッッッッッッ・・・・・・です。

正常な思考に戻ってないです

毎度の事だけど

フラッシュバックはキツイ

 

苦しいのはいやだ~


今日は。。。

2007-08-03 18:53:58 | 日々の「つぶやき」

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今日は、フラッシュバックが

ひどくて

みなさんにコメントをする余裕がありません。

すみません

回復したら

しますんで。。。

 

 


ぷぷりさんへ

2007-08-02 22:54:41 | 心の旅

ぷぷりさん。

宇宙飛行士なんてありえない。。。」のコメントについて
キツク言ったのは反省してます。
そのように言ったのは、理由があってのことです。

私がパニック障害を発症したとき、カウンセリングの看板
を掛けたところに行ったことがあります。
しかし、
5回目位で、名前も知られていない協会のカウンセラー
だと分かりました。
そのお陰で病状は悪化し1回目の自殺未遂をしたのは、
このときです。
病院に3ヶ月入院しました。

これ以来、
私はカウンセリングの勉強をしようと思いました。
私も病気になってから、カウンセリングの勉強をしようと
思ったのはぷぷりさんも同じですね。

それから
精神対話士や産業カウンセラーを受講し修了しました。
また、国分康孝先生のグループエンカウンターにも参加
したことがあります。
ですから
カウンセリングの事は、少なからず知っています。

ぷぷりさんは、どんなカウンセリングの勉強をしているのかは
知りませんが、少し分かり易く、列挙してみます。

○カウンセリング
 ・職場カウンセリング
 ・産業カウンセリング
 ・ライン・カウンセリング
 ・牧会カウンセリング
  ・矯正カウンセリング
 ・高齢者カウンセリング
 ・学生相談
 ・リハビリテーション・カウンセリング
 ・異文化間カウンセリング
 ・精神対話士(一部制限を持って病気の人と関わります)
   だいたいここまでが、健常者を対象としたカウンセラーです。

 ・学校カウンセリング
 ・メンタルヘルス・カウンセリング
 ・家族カウンセリング
 ・メディカル・ケースワーク
 ・サイキアトリック・ケースワーク
  これらは、心理療法が出来るカウンセラーが病気の人を対象
  に行います。
  * 臨床心理士、認定心理士など大学又は大学院で専門の
    教育を受け合格した人
  * 臨床心理士などでも職場カウンセリングなどを行っています。
     要するに、臨床心理士は何でもOKと言うことですね。

HPにあるロージャースの来談者中心療法は、
一つの技法です。
来談者中心療法を行うには、傾聴技法をスーパーバイザーの下で
マスターする必要があります。

危険だと言ったのは、
教科書の通りに聴くだけと言っても、そこで少し療法を使うことに
なり、カウンセリングと心理療法の区別が付かないと、相手を危険
な状態にしてしまいますし、ぷぷりさんの叔母さんを私のように苦し
んで欲しくないことやぷぷりさん自身が軽い気持ちで、カウンセリング
の練習(練習じゃないと言っていますが)をして欲しくないのです。

カウンセリングは、(簡単に述べます)
健常者であり、健常者とは現実生活に適応できるほどに自我が
成長し、ある程度のフラストレーション・トランスと柔軟性を持って
いることで、現実生活でさらに自己実現出来るように援助するのが
目的です。
日本カウンセリング学会定義参照

心理療法は、(簡単に述べます)
病理的パーソナリティを持ち、現実生活から落ちこぼれているのを
現実生活に引き上げる(つまり治療)が目的です。
日本臨床心理士資格認定協会参照

ぷぷりさんは今、勉強をし始めたばかりですよね。
理論、技法も大切ですが、まずは自己覚知と自己一致が先だと
思います。

私自身、現在、精神科医師や臨床心理士に通う身であり、
自己覚知や自己一致が出来ていないので、
誰かにカウンセリングをしようとは思いません。
病気である私がカウンセリングを行えば、相手を危険に
さらすからです。
あくまでも、私自身の成長のために学びました。

ぷぷりさんも、
カウンセリングの勉強は、今は誰かのためではなく
ぷぷりさん自身の成長のために学んで欲しいと思います。


私の机の前に、いくつかの詩を貼っていますが、そのうちの
一つを紹介します。

本気

本気になると
世界が変ってくる
自分が変ってくる

変ってこなかったら
まだ本気になっていない証拠だ
本気な恋
本気な仕事

ああ
人間一度
こいつを
つかまんことには

私は病気のことに対して、ぷぷりさんやみんなには、
本気で正面から向き合っています。
ふざけたり、本気じゃなかったりすると向き合う相手から
信頼されないからです。

人との繋がりは信頼だと思っています。
カウンセリングでも同じですよね。

このことを契機に
お互い成長し合えると良いと思っています。

カウンセリングのことで何かあれば
私の分る範囲でお手伝いしますよ。
気軽に言って下さい。


 


ひと休み コラム3

2007-08-02 10:41:49 | 日々の「つぶやき」

偏見や差別は何故あるのだろうか?

偏見と差別のメカニズム
中川 喜代子
明石書店

このアイテムの詳細を見る

「偏見と差別のメカニズム」という本を読んで見ました。

簡単に言えば

子どもの時の教育で
~してはならない。
~しなければならない。
と言ったしつけで
「ものの見方」や「考え方」が
子どもに生き写しになります。

親の教育次第で、偏見や差別が生まれるのです。

社会の中で

ステレオタイプによるカテゴリー化される。
(いわゆるレッテル貼りである。)
          
         偏  見
 ○誹謗
   陰口を言うなどのかたちで口にする。
 ○回避
   かなりの不便を犠牲にしてでも、嫌いなグループの
   メンバーには近づかず、自分の方から相手を避け
   るようになる。
          
          差 別
 
隔離
   気に入らない相手が属するグループを違う地域に排除
 ○身体的攻撃
   暴力の行使
 ○絶滅
   ジェノサイド。ヒットラーのユダヤ人のガス室による虐殺

これが、偏見・差別のメカニズムです。


現代社会において、誰の中にも
少なからず偏見・差別は持っていると思います。
その偏見・差別を小さくするには、
人権

男女共同参画などの
意識を持つことだと言われています。
また
私のような病気の人間を怖いと感じられなくなる
意識も必要だと思います。

病気になってから
障がい者
目の上のタンコブ
仕事に来てるんじゃないだろう
など色々な事を言われました。

病気になってから
偏見・差別がなんであるのかを考えて来ました。
一朝一夕で無くなるとは思えませんが、
少なくとも、何らかの障害を抱えた方たちが
住みやすい社会が必要なことは確かだと思っています。

 

最後に
読んだ本の中におもしろい事が書いてありました。

二人の裁判官が、夕食後、仕事のことについて話し合っています。
「今日、私が担当したAという被告の裁判をどうしたものでしょうか?
あなたなら、どのように裁きますか?」
一方の裁判官が、もう一人の裁判官に話しかけました。
すると、意見を求められた裁判官は、
「そのようなことに私が答えられないということを、あなたはご存知
ではありませんか。Aの父親は5年前に死んでしまったということ
だけでなく、彼は、私の息子でもあるのですから・・・」と答えました。

みなさんは、この二人の裁判官の会話の意味が分りますか。
二人目の裁判官は、どうしてAを私の息子と言ったのでしょうか?


折り合いかぁ~

2007-08-02 03:37:59 | 日々の「つぶやき」

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前の記事

まだまだ修行中

私なりに

仕事と労働について書きました。

仕事が労働になるのもあるなぁと思いました。

例えば

収入を得るための仕事から

やりがいや生きがいを求めての労働へ

という考え方です。

それは、

やりがいや生きがいを実感しながら収入を得るという事です。

そんな仕事があるのかぁ!

そんな仕事があればみんな苦労してないよ!

と言われそうですが

天職とまでは行かないけれども

肌が合う仕事というのはあるんじゃないか

と思います。

肌が合う、合わないはやってみなければ分りませんし

何より、それを見つけ出すには時間が掛かる事だと思います。

自分は、どんな仕事をしたいのか

というよりも

何をしたいのか

だと感じます。

 

私の場合、

何をしたいのかよりも

何かおもしろそうだ

または

出来そうと言う感覚で仕事に就きました。

若く、健康なときは、それで何の疑問も感じませんでした。

病気になってから

生きること

今、ここにいること(存在していること)

Etc・・・

などを病気に考えさせられました。

ですから

仕事の持っている意味が私の前に現れて来たのです。

 

生きるためには仕事をして収入を得なければ

暮らしてはいけないのは当然です。

ただ、生きるためだけに仕事をするのは

何か虚しいと感じるのです。

 

それは

人間関係にも言えるのではないかと思います。

人間関係なしでは、仕事をするのは難しいと思います。

どこかの会社で仕事をしている上で、会社の職場で人間関係が

必ずといって良いほどあるのは確かです。

例えば

電車や飛行機に乗って移動するとき

お互いの顔を見合わせる事は少ないんじゃないかと思います。

降りたときに、隣にいた人の顔を覚えていないのが

今では普通になっているような感じがします。

仕事場では、ある決められた事に従ってマニュアル通りにやるか

流れにそってラインの一部としてやるか

色々な仕事のやり方があると思います。

現実の仕事場を体験上から考えると、合理化によって

隙間がなくなり成果に追われているような感じがします。

 

そんな中で

私のような病気の人間の居る場所が狭くなっているような

感じがします。

 

病気になってから

家族や医師から【折り合い】を付けなきゃダメだ。

と言われます。

ひねくれた考えかも知れませんが

【折り合い】って何?と今、思います。

妥協?

自身の心を偽ること?

我慢して耐えてやること?

どうも違うような気がします。

【折り合い】について私自身、答えは未だ見つかっていません。

今、現時点の最大の関門であり

このことが感じられないと

社会復帰が出来ないんじゃないかとも思えます。

 

仕事、人間関係、折り合い

自分自身の中に答えがあるのかも知れませんが

現在、模索しています。

 

 


まだまだ修行中・・・

2007-08-01 10:18:13 | 日々の「つぶやき」

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今日はです。

風も冷たくなって来ました。

こちらは、もうすぐ秋ですね~。

秋茜(あきあかねと言うトンボ)が飛ぶ季節

 

私の【こころ】

時間が過ぎていくのが割り切れない。

何とかしようとすれば、するほど空回り。

Etc・・・

複雑怪奇な【こころ】である。

 

そんな

複雑怪奇な【こころ】の中に

みんなと『やりとり』して

気付かせてもらった事があります。

それは

『仕事』です。

 

健康であったとき

自分が家庭を支え

給料を持ってこないといけないんだ!

そうしないと

生活していけないんだ!

と考えていました。

 

病気になってから

給料を持って来れない情けなさ。

仕事をしていない自分は何だ。

と悩んで、落ち込んでいました

 

仕事をするのは、大きく分けると

生活していくため

経済的に今より豊かになるため

我慢しながら、ある目標達成のため

子どもを良い学校に入れるため

老後の蓄えのため

Etc・・・

などがあり、

人によって色々な理由があると思います。

 

良く考えて見ると

『仕事』は確かに

苦痛を伴うのと、引き替えに収入を得ることだと思います。

じゃあ

〔労働〕は?

 

『仕事』〔労働〕を調べてみると

『仕事』
職業: 賃金を受け取る約束で、何らかの労働に従事すること。

〔労働〕
人間が道具を用いて対象にはたらきかけ、人間にとって有用で
価値のあるものをつくりだす行為である。

とある。

簡単に言えば

『仕事』は、本人の気分が良いだろうが、良くないだろうが
       しなければならない事

〔労働〕は、誰かのために、自ら進んでする事

と考える事が出来る。

 

私が病気になった大きな原因を考えると

仕事

妻の交通事故

私自身の中にあるストレス耐性が弱い

子ども時代の環境

Etc・・・

などがあると思います。

 

病気になった要因の一つである『仕事』

また従事すれば、

上記の大きな原因が取り除かれない限り

再発する可能性は大きいと感じます。

 

性格は変えれないけど

考え方が少し変えられるならば

『仕事』ではなく〔労働〕に考え方を

変えた方がいいんじゃないかと

この頃、感じています。

 

本当に心の底から感謝する事が出来ない私という人間は

みんなとの『やりとり』の中から、少し気付かせてもらい

ありがたく思っています。 

家族やみんなが私の背中を押してくれたように思います。

ありがとうございます!