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『労農派マルクス主義』 その4

2008-08-15 14:59:52 | Weblog
 釧路米町公園 石川啄木歌碑 
 「しらしらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな」

 『労農派マルクス主義』 その4

 物語は「第Ⅳ部 戦後激動期1945~1951年」から「1955年体制への過渡期」に入る。ここでの焦点は、多様な形で存在していた戦後労農派が、なぜ事実上、社会主義協会のみに収斂してしまったのであるかである。

 敗戦直後、山川均を初めとした旧労農派の中枢は、まずは労働組合と無産政党の再建、民主化の主体づくりに集中した。

 しかし、当時の労農派はバラバラで、山川均とその周辺グループ、鈴木茂三郎が1946年1月に設立した「社会主義政治経済研究所」に依拠した社会党左派の政策集団、48年に社会党から離れ労農党を旗揚げし再び社会党に復党した黒田寿男のグループ、高野実を中心とした労組活動家グループなどに分かれていた。

 1947年夏頃からは、向坂逸郎らによる平和革命論を廻る論争を経ながら、労農派の再結集の試みが続いた。労農派は、社会党が小ブルジョワ的で矛盾を内包した政党だったが、当面は民主主義の前進のために割り切ってその客観的役割を推し進める仕事に集中するか、社会党とは別に理論的に純化した社会主義政党を結成するかの間を揺れ動いたのであった。

 安保条約、三池闘争、社会党の分裂と統一、左派社会党・総評ブロックの形成などを経て、労農派の多くは高野実も含めて社会主義協会に結集した。
しかし、後に、高野派は協会から分離する。その他にも、清水慎三や市川誠に象徴される非共産党、非社会主義協会派の潮流(「労働情報」誌グループ1977年4月創刊)も別れるが、長い生命力を持った。


 これは、後で判明していくのであるが、この著書が読み進むに連れて、段々と「社会主義協会史」になってしまうのは、筆者の石河氏が、旧社会主義協会関係者であったこととも関係しているのだろう。

 さて、このあと時代は、高度経済成長、総評・社会党の解体へと進むが、展望が語られるであろうか。


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