晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

死刑制度

2008-08-20 22:31:22 | Weblog
 随分と日没が早くなりました。気温の低い日が続いています。今日の夕方、ランニングの時に、ジャージの上下を着ました。これでも「地球温暖化」なのでしょうか。間違いなく「冷夏」です。



 左下の友好ブログ「Retriever Legend's blog」(2008.6.28)から引用させていただきます。
 「僕は、国家による殺人は憲法違反と考えています。国家による殺人を認めることは、国家の命令による殺人を認めることが通底に横たわることになります。為政者は、自分が、親が、子供が、外国の民兵、正規軍等に意味も無く殺戮されることは想像できないようです。」至言です。


 死刑制度には、様々な問題が内在していると思います。上記では、国家による殺人を肯定していいのかという問題があります。「ひと一人の命は地球より重い」と言ったのは、福田首相の親父、福田赳夫ですが、死刑を認めることは、「ひと一人の命は地球より重いが、国家より軽い」ということになります。

  国家 ≧ 一人の命 ≧ 地球 です。

 国家をそれほど重要なものと捉えていいのでしょうか。「国家の廃絶」は究極の目標です。

 また、近年は被害者、殺人の場合は、被害者が亡くなっているので肉親などその関係者がマスコミに登場します。彼らは、当然のことながら「犯人を殺したいほど憎い」と言います。私は、その心情を肯定します。
 しかし、死刑をはじめとした刑罰の本質は、復讐心を満足させることではないと思います。国家の体制維持のためではないでしょうか。ここにも国家が登場します。

 一度罪を犯した人は二度と許されるべきではないのでしょうか。刑罰による犯罪の抑止効果は無いと言う言説は多々見られますが、刑罰による教育的効果の議論、更生の可能性についての議論はあまり聞かれません。
 毛沢東は、「すべての反革命分子にたいして、更生の機会が得られるよう生活の道をあたえるべきである。こうしたやり方は、人民の事業にとっても、国際的影響からみても有益である。」と語っています。(実際にやったことは、かなり違うが。)

 その他、冤罪の場合、死刑を執行してしまうと取り返しのつかない国家犯罪を実行してしまいます。また、犯罪の真の動機が永久に解明されないことになる可能性があります。

 最後に、これから導入されようとしている国民参加の裁判員制度に私は不安を覚えます。裁判員制度は、現在のマスコミ報道の情況では大衆によるリンチ、人民裁判化する可能性があります。
コメント
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