晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

森達也 フォーラムin時計台 その1

2008-10-16 21:22:57 | Weblog
 喫茶店に彼女と二人で入り、コーヒーを注文すること。あーそれが青春♪(青春の詩)

 喫茶店におばあちゃんと二人で入り、渋茶を注文すること。あーそれが老人♪(老人の詩)

 琴似のある喫茶店、今どき珍しい昔風の店で、夕方でしたが結構込んでいました。ドトールやテリーズは、喫茶店の雰囲気が感じられません。



 『森達也 フォーラムin時計台』  2008.10.15 

 感性の合う人の話はストンと落ちるものがある。書物でしか知らない森達也氏、その本物を見たかった。実物の森氏は、私より2歳若い50歳代、しかしロン毛(自分で長髪と言わずロン毛と言っていた。)、70年代のままといった感じ。

 森氏は、20歳代を各種アルバイト(今で言うフリーター)、30歳代で、テレビの下請け会社のAD、久米宏のニュースステーションの制作などにも関わっていた。現在は、作家、フリーのディレクター。

 久米さんの時代は、放送後番組の反省会が1時間も2時間もやっていた。古館は5分位だそうである。いかに、報道現場の制約が多くなっているかである。

 森氏の話のキーワードは、「1995年」、オウム真理教事件の前と後では、世の中が大きく変化したという。事件当時の番組は、オウムを凶暴、凶悪、信者は麻原に洗脳されたロボットなど、一方的なイメージで作ることを強要されたという。

 だが、森氏が実際に取材した信者は、普通で、やさしく、純真な、どこにでもいる人々であった。しかし、これは視聴者やテレビ局の望む姿ではなかった。
視聴者にとっては、オウムは、自分たちとは違う人たちでないと困るのである。動機がわからないと、不安、恐怖に陥るのである。自分たちと同じでは、いつ何時自分が何をしてしまうか恐怖なのである。

 1995以降、ブラウン管を挟んで、善と悪の純度が上がった。自分は「善」で、テレビの向こう側に「極悪人」がいて、安心が得られる。

 人々の不安、恐怖は、ひとりでいることに恐怖を覚え、それは、社会の武装化、集団化をもたらす。国旗、国家、住基ネット、盗聴法・・・が成立。

 また、自分を「善」と思いたい人が増え、「悪」を許せない気持ちが強くなる。1995以降、死刑判決が増加している。



 私も、自分(たち)が「正しい」と思っている人(たち)が増えていると感じるし、彼らの独善的な感性が時々怖いと思う時がある。付け加えれば、旧来の政治的スタンスでいえば、彼らは、「革新」ないし「左翼」といわれた人(たち)である。もちろん、私自身もそのジャンルの人間と自覚しているが。





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