晴走雨読

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自由 その6

2011-01-10 16:58:48 | Weblog

理由無き小沢切りが進むにつれ、マスコミの現政権をとりあげるスタンスに変化が生じてきている。菅首相も根拠の無い自信を見せている。

 

否、理由も根拠もあるのだ。そこに米国の意向が働いている。小沢排除で米国が現政権を認知し始めている。このまま小沢は角栄と同じ道を辿るのか。

 

 

『生きるための自由論』(大澤真幸著 河出ブックス 2010年刊)の第2論文「連帯の原理としてのリベラリズム」で、一見矛盾しているリベラリズム(自由)と連帯の両立の可能性を提起している。(以下、単純化した論旨の要約)

 

 著者は、社会構想において二つの矛盾する目的があり、ひとつは、全体主義(ファシズム、スターリニズム)への対抗としての自由、多様性、もうひとつは、社会保障、福祉を実現するための統合と社会的連帯である。そこから、両方の要素を含む、「多様性へと開かれた連帯は可能か」と問題を立てる。

 

 古典的なリベラリズムは、「私は私である」というアイデンティティの単純な肯定の上に立っている。また、「(私が)この身体であること」という身体の自己所有も肯定される。

                     

 しかし、自分の身体を売る行為の自由に対し、嫌悪が生じるという逆立が生じる。自分の身体なのだから自分でどうしようと自由だ、例としては、臓器売買、買売春の自由、極限は、自殺の自由などである。

 

 そこからは、身体は、自己のものであるが完全には自己に所属しきれていない、自己ならざる者、不定の他者に所属している。

 

 「他者がいなければ無際限の自由が可能だ」(古典的リベラリズム)とは逆に、「他者がいなければ自由そのものが不可能だ」ということのなり、ここにおいてリベラリズムが連帯の原理になりうるとする。

 

 

 私は、「自由 その3」で、「自分の内面を意識化で制御できる」、「自分の身体を意識化で制御できる」の二つの自由を最低限確保されるべきとした。

 

 大澤氏は、この本で、脳科学の成果から思考が必ずしも意識化で制御しきれていない例を、また、自己の身体には他者が入り込んでいることを示している。そして、「第三者の審級」や「他者との連帯」と、いずれも自由の波及エリアは自己の外に及ぶとしている。

 

 そこには、相変わらず自由の主張が他者の自由に対して関与し、それが権力化して抑圧に転化する可能性が横たわったままなのである。解決できないやっかいな堂々巡りが続いている。

 

 

 

 

コメント
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