サツエキ紀伊国屋札幌店2階イノダコーヒーでクリームシチュー、正月にイノダの福袋を購入、その中の食事券を利用しました。
大丸デパートが見える窓に面した席で本を読みながらコーヒーを飲む人、テーブルを囲んで談笑する人。月に2,3回、買った本を開きながらコーヒーを注文すること、それがささやかな私の贅沢。
『いじめを考える』(なだいなだ著 岩波ジュニア新書 1996年刊)
10数年前の著作であるが、当時もいじめ問題が深刻化していたのだ。著者は、いじめは昔からあったという。差別もいじめと捉えられ、被差別、障害者、公害病患者、らい病患者、女性やこども・・様々な差別は社会におけるいじめだという。さらに、運動部と軍隊に存在する有無を言わせぬ上下関係もいじめの温床であるという。
著者の状況認識では、社会においては人権意識の高まりや法制度の整備によりいじめが少しずつ減る方向にあるが、学校にだけはいじめが残ってしまった。その理由は、学校の内と外にある二重規準によるという。触法的な非行に対しては警察権力が介入できるが、いじめは学校の教育的機能にゆだねられている。その機能が限界にあるのではないかという分析をしている。
子どもの中に発生する現象は、社会の反映という考え方がある。政治家やタレントに対するバッシングが垂れ流される報道に毎日接している子どもは、みんなでひとりをターゲットにやっつけていいと思ってしまうのも無理はない。
先輩タレントからの嫌がらせにも笑って応えている若手芸人や、爽やかなイメージのスポーツ選手がきっちり上下関係を踏まえている姿を見ている子どもは、それが当たり前に思えてしまうのも同じである。
私は、いじめの報道から、被害者といわれる子どもに、皆と協調できない、上手くやっていけないというような何かある種の共通性を感じる。そこで、いじめは秩序の再構築であるという仮説を立ててみたい。秩序に同調できない者を秩序に強制的に従わせる試みなのではないかと思うのである。(決して、いじめを肯定するものではない。)
一方、学校運営も管理や秩序といった価値観で貫かれているため、秩序の再構築を試みている加害者と同調する、黙認する要素を抱えている。よくある例は、教師のいじめへの加担である。いじめが発覚した時の校長らの会見は、被害者への謝罪よりも、学校経営の失敗に対する挫折感を漂わせていないだろうか。
さて、私の考えるいじめ問題の解決は、反秩序、反管理を認めることである。現状の学校の原理がそれになじまないのであれば、いくら「いじめを考える集会」重ねても、学校の中でいじめを根絶することは不可能と考える。しからば、学校に変わって子どもたち一人一人の個性、特性、思想が尊重される自由な空間を構築しなければならない。