「そば処 大勝(おおかつ)」(札幌市中央区北4条西5丁目アスティ45ビル地下1階)寒い日は、カレー南が一番。
ここは、走る仲間の実家が営んでいるお蕎麦やさんで、この一角が再開発でビル化する前からあった老舗です。
『チョムスキーの「アナキズム論」』(ノーム・チョムスキー著 明石書店 2009年刊)から、世界的な学生反乱後の1970年代に書かれた、第Ⅲ章「アナキズムについて」(1970年)、第Ⅳ章「アナルコ・サンディカリズムの今日的意義」(1976年)まで読み進めたところの感想を記す。
アナキズムは、強制的な権威、抑圧を否定する。従って、国家権力は、代表民主制であっても、それがいわゆる労働者国家であっても「赤色官僚制」への転化の可能性を持つゆえに否定の対象とする。
アナキズムの構想する社会は、職場や地域共同体を基礎的結合体として、それらの連合協定を国際レベルまで結ぶというものである。また、人々は自分本来の活動(仕事)に常に従事し続けるべきであり、政府への参加はパートタイムで、かつ全てのコミュニティが持ち回りで行なうべきである。吉本隆明が言う「政治は掃除当番のようにやれば利権などは生まれない。」というものである。
しかし、これだけでは複雑な現実社会のオルタナティブにはなりえないのではないか。アナキズムは、国家権力の廃絶までは行くことができても、その先については見通しを持たないのである。
もっとも、その点は、マルクスも同様で、資本主義社会の矛盾を疎外論や物象化論で暴露し、また「資本論」で経済メカニズムの限界を分析したが、明確な未来社会のプランは提示していない。そういう意味では、マルクスもアナキストなのである。
一方、アナキズムは、権威や抑圧を否定したうえで個人の自由の実現を求める。ここでもまた、「その自由とは何か」という問題に行き着く。
著者は自由について以下を引用する。カント「自分の力を自由にかつ有用に使うことを学ぶためには、人は自由でなければならない。」
バクーニンの自由とは、「各自が潜在能力の状態で持っているあらゆる肉体的・知的・精神的力を完全に発達させることのなかにある自由」である。
フンボルトは、「自由の成熟を促すことが、自由そのものである。」
またまた、自由論の袋小路に入ってしまった。
これらから、私の直感から言えば、アナキズムは体系性を持った思想では無い。アナキズムは、心情であり気分である。清水邦夫流に言えば、「心情あふるる軽薄さ」!である。