晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

いっぴん

2011-02-19 20:09:52 | Weblog

十勝豚丼「いっぴん」札幌平岡店(清田区北野5条5丁目20 厚別滝野公園通り)の豚丼定食です。

 

本店は、本場帯広です。少し厚みがあって脂身の少ないロース肉が乗っています。タレも美味いはずです。タレ屋さんのソラチが経営しています。お薦めの店でした。

 

 

 

チュニジアの枯野に捨てた一本の煙草の火が、エジプトを焼き尽くし、リビア、クウェート、ジブチ、バーレーン、イエメン、イランと燃え拡がっています。

 

 

 

 

自由 その8

 

『双書哲学塾 自由論』(井上達夫著 岩波書店 2008年刊)

 

 本書のキーワードは、「自由の秩序」である。著者は、一定の秩序こそ自由を可能にし、自由な社会とはより秩序付けられた社会であると言う。

 そのため、秩序のトォリアーデとして、国家、市場、共同体があり、これらの相互抑制と均衡の中に自由が存在する。しかし、これら相互の均衡が失われた状態になると、全体主義専制、資本主義専制、共同体主義専制という専制のトォリアーデに陥り自由が失われる。

 

 

 私は、「秩序」を前提にしなければならない自由という著者の考え方に違和感を持つ。「秩序」という言葉へのアレルギーといってもいい。「秩序」という一定の枠内における自由なんていうものは、本物の自由では無いと感じる。

 

 だが現実の私は、国家、市場、共同体の中で生きている。著者のいう「自由の秩序」を否定した場合、これら以外のどこで生きていくことができるか。それ以外の居場所はあるのかという問いを解決しなければならない。

 

ひとつは、自分自身の中で自由に生きていくというのがある。しかし、内面の自由だけで生きていくことに伴う困難性は容易に想像がつく。

 

 そこで、人と人との関係性を持つ共同体の中で生きていくことを考える。そこでは、私自身が、相互扶助とか、共生に親和性を持っているのかが問われる。

 

例えば、共同体の中の規範が私自身にとって不合理な場合、また共同体のルールに反した際の制裁(私的制裁=リンチの場合もある。)の根拠はどこにあるのか。自分が所属する共同体のリーダーの正当性をどうやって確認し、自分として受け入れるのか。

 

このような問いに対して、国家や市場に判断をゆだねる(法律や選挙制度など)という習性を見直すことができるのか。国家や市場に代わり社会の基本に共同体を据えるとすると、これら規範や正当性などについて共同体の構成員ひとりひとりがひとつずつ再構築していくという気構えが必要になる。

 

そもそも私は、人といることが好きなのか、嫌いなのか?

コメント
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