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『子どもと哲学を』 その5

2012-10-10 20:53:30 | Weblog

 旭川、みそラーメンのよしの。太麺にピリ辛スープ、野菜たっぷりで、超満員の人気店でした。しっかり記憶に残る味を出していました。札幌テレビ塔店の方はどうでしょうか?

 

 第五章哲学の効用

 著者は、「哲学は、誰にとっても、生きるために必要であり、役に立つ」と言う。哲学者の「ねちっこさ」に学ぶことが、子どもが生き残るために必要だ。

 子どもたちが、哲学の「ねちっこさ」を学ぶためには、何が必要か。しかし、悩める子どもたちは、いつもたった一人で考えていた。

 人間の子どもがチンパンジーと違うのは、言葉という不思議な世界へ参入することである。私たちが「世界」と呼んできたものも、「自分」と呼んできたものも、すべては言葉そのものである。この世界に住むすべての人間が、言葉の「意味」によって深く結びつけられている。人は決して「一人で考える」ことはできない。考えている時、人は意味の海の中で、同じ海にすむすべての人々とつながっている。

 悩める子どもたちの孤独は、そのことに気づくことができなかったゆえの孤独であった。

 哲学の「ねちっこさ」とは、私たちが自分の使っている言葉の意味を互いに吟味しあい、言葉を尽くすことによって、一歩ずつ探求の歩みを進めることである。意味の世界がすべての人間に共有のものであるとしたら、哲学の営みは、すべての人とのつながりを求める営みである。

 思春期の迷いの中で一人哲学をし続けた子どもたちに欠けていたものは、哲学することが持つ意味と見通しである。たった一人の哲学は、哲学ではない。哲学への切実な欲求を持ちながら、哲学する道を見出すことのできなかった子どもたちの経験は、哲学の教育の必要性と可能性について考えることを迫っている。

 

 著者の論理を整理すると、「言葉を尽くすことが、人とのつながりになり、孤独な子どもたちの救いになる。しかるに言葉を探求する哲学という営みを教育する必要がある。」ということになる。そうなると結局、人と人とのつながり、絆、和といった陳腐なスローガンとどこが違うのかということになる。私は、「独りを噛みしめる」ことの大切さ、それに耐える強さを獲得することが必要だと思う。そのために、哲学が有効ならば、教育に取り入れれば良いと考える。それが、宗教であればそれでも良いと考える。

コメント
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