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『子どもと哲学を』 その6

2012-10-13 20:28:20 | Weblog

 全国から見学者の絶えない旭山動物園、動物園に行ったのは30年ぶり位かな。白熊くんのところは、地面から顔を出すような構造になっていて、直ぐ傍まで近寄ってくるのが見えます。

 動物園の野生動物たちは、何代にもわたって動物園生まれですから、再び自然界に戻って生きていくことはできないでしょう。DNAに変化が生じないのでしょうか。

 

 第六章 哲学を学ぶ/教える          

 著者は、「哲学の効用は、意味と意味の世界のなかで他者とつながること、つながりの中で笑いをもって存在を受容する希望と勇気を育むことだ。」と言う。

 従来の「哲学を」教える哲学教育は、哲学が書物(文字)の中に存在することを前提とする。文字の共同体へ参加するには、読むという技能に熟達していることが必要であることから、伝統的な哲学教育は中等教育の終わりに位置づけられていた。

 もう一つの、「哲学することを」教える哲学教育は、いかなる権威からも自由な一人一人の生きた思考と、それらの間で交わされる対話(声)から始まる。1970年代頃から声による共同体(探求の共同体という)の試みが、子どもを対象として始まった。

 道徳教育は、人間としてどのようにふるまうことが正しいのかを教える教育である。人間は、考えることのできる、理性ある動物としてふるまわなければならないということを教える。いじめの問題について、道徳教育では、いじめは悪いこと、してはいけないこと、と教える。

 一方、哲学教育とは、そもそも「考える」というのはどういうことなのか、と問うことである。哲学教育は、いじめという行為をなくすことに直結しないが、探求の共同体の実践を通して、「人間の制度が完全ではないこと、人間の経験は部分的で限られたものでしかないこと、人間の知識には限界があること、だからこそ、分析を重ね、深く考え続けることが必要なのだ。」ということを子どもたちは学ぶのである。

 

 著者は、子どもたちが哲学を学ぶこと(探求の共同体の構築)で、つながり、希望と勇気を見出すことができる、というが、結局、悩める子どもたちの自死を食い止めることができるのは、つながり、であるという著者自身が批判していた「きれいごと」に帰着している。やはり問題は、つながり、希望と勇気などという「きれいごと」に子どもたちが命をかけて異議を唱えているところにあるのではないか。私は、「独りを噛みしめること」が意味のあるということを子どもたちが掴み取ることから始まると考える。

 

コメント
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