楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

東北地震10周年の日に思う

2021-03-10 10:24:46 | まじめ

東北地震10周年の日に思う

 

 今日、東北地方太平洋沖地震、東日本大震災10周年。犠牲になられた多くの方々に心より哀悼の意を表します。また未だ、復興の中で苦しんでおられる方々にエールを送ります。

 

 地球科学の研究を生業としてきたものとして、この科学の非力さ、限界を改めて心に刻みます。残された人生の時間、考え続け、思いを発信し続けます。

 

 今、世界と日本はコロナ禍という未曾有の歴史的転換点にあります。大規模感染症、大規模災害、地球環境劣化に国際社会から地域社会、そして家族・家庭という身の回りまで時代の流れが押し寄せてきています。

 

 このような時こそ、人の繋がり、心の繋がりが鍵と信じます。皆さんめげずに頑張りましょう。

 

 震災の日の朝に。

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科学における「嘘」と「誤り」(その2)

2006-04-02 07:41:59 | まじめ
まず最初に本題からはずれるが、イントロ。
 最近、科学論文のレビューは最初の投稿の段階から、ウエブで公開で進める、というのがいくつかの分野で行われており、話題を呼んでいる。電子投稿は当たり前になったが、この新しいシステムは投稿段階で公開し、著者の知的先取権を保証する。しかし、そのデータセット、論理が科学論文として成立するかどうかの専門家によるレビュー過程も公開する。そして、それらが終了した段階で、論文は受理され、当然即刻電子発行となる。これまで、レビュー過程は著者、査読者、編集者の間で秘密のベールに隠され、査読者側の倫理になければ、知的先取権が犯されるというトラブルが、この投稿即刻公開ということで防ぐ事ができ、かつレビュー過程が公開ですすめられるので、著者や査読する側も、いいかげんなものを提出するわけにはいかず、高度の知的作業が要求される、というわけである。受理までの時間も大幅に短縮された。受理されたものは永久保存となる。

そこで、本題。
 科学論文は、専門の第3者の判断を入れて、ここまで徹底してレビューを行い、出版する。それでも「嘘」が発見できなかったり、著者や査読者の気がつかない「誤り」は起こる。「嘘」は発覚した時点で、発行取り消しとなるのは当然である。科学論文の永久保存記録から抹殺されるのである。発行する側のできる最大の処分である。「嘘」をついた全責任は当然、著者にあり、それに気がつかなかった、出版元や査読者にはない。
 「誤り」は別である。それはデータの訂正や、誤りの修正記事を掲載し、是正される。また、論理や結論が一義ではない場合、学術雑誌においては、「討論」コーナーがあり、問題提起する側とそれに対する「返答」を同じところで併記、反論権を保証しているのが普通である。
 このような一般的な、科学論文のあり方は、出版社、記者側に一方的判断がゆだねられ、それらに対する反論も保証されていない「新聞記事」「週刊誌記事」と明らかに異なることは明確である。これらの記事を巡って、多くの訴訟が起こされるのはそのためである。

最後にまた本題からはずれて、「ホームページでの発表は、科学の発見においてはどうなるの?」について。
 一方的に自己の見解を発表し、永久保存の保証されない「自分のホームページ」などに、今のところ、科学の発見としての知的先取権が認められていません。理由はそれを客観的に検証する体制がないからである。しかし、上に述べたような科学論文投稿から受理に至る過程の完全公開システムがあらゆる分野で成立するようになれば、それは、そこへ形式を整えて、提出するだけなので、自分の「ホームページ」上で公開するのと、ほとんど同じであるから、近い将来、このシステムが科学世界で当たり前になると予想される。 
 まだ、ホームページで自己主張しても、それは知的先取権を取得した事にならないし、査読のない雑誌や週刊誌で取り上げられたとしても、同じ。
 みなさん、くれぐれも気をつけて。新しい発見の喜びのあまり、自分のホームページで書き連ねないように。その発見の知的先取権は保証されません。
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科学における「誤り」と「嘘」

2006-04-01 10:09:09 | まじめ

 最近、科学におけるねつ造が新聞をにぎわしている。「ねつ造とか、虚言とか、嘘とか」いう「人間のこころ」の問題と「自然そのものを探求する科学」との間で揺れ動く、科学の姿を考えてみよう。

 「ねつ造、虚言、嘘」はいずれも、事実を知っていながら、それとは別のことをあたかも事実であるかのように言うことである。あるいは、事実が存在しないのに、あたかも事実であるかのように記すことである。科学は自然の真理を発見する人間の知的作業であるから、そこへ「人間の心」が入り込むのである。
 「うそかまことか」の判定は、科学の世界では、再現可能あるかどうかによって行う。理論において、誰がやっても同じ結論になるのは、一見容易に見えるが、その論理に抜けや欠陥がないかは徹底した検証にかけられる。しかし、その理論が自然に実際に存在する「事実」かどうかは、理論が予見する現象が実際に発見されるか否かを観察・観測によって探される。そして発見されたとき、その理論は証明された、とよび「事実の殿堂入り」を果たす。
 理論が予見する現象を実験によって再現することも、証明の方法である。ただ、実験は初期条件とか、境界条件という(微分方程式を解くと必ず出てきますね)ものを人間が勝手に与えるので、それが人間のこころの入り込む隙にもなる。一見似た現象であっても、それは虚像かもしれない。大型コンピュータを使ってなされるシュミレーション(数値実験)も、現象を再現するのが目的である。これらの「証明の方法」はそれでも観測や観察に比べて比較的容易である。予見する事実の再現過程で、予見しなかった、あるいは予見と矛盾する現象が発見され、それが新しい原動力となってまた科学は前へすすむ。実験の再現性は比較的容易なので、そこにウソが入り込んでもすぐに見破られる。
 もっと難しい、しかし科学で大きな部分を占めるのは、自然の観察とか観測と呼ばれる作業である。観察というのは、自然の中の現象をじーと眺め、その中に規則性があることを見いだすことですね。これはA、これはB、これはC、と分ける。あるいはこれが一番先、これが二番目、これが最後、などと順番を決める。これは、人間の科学事始めでもあったのですね。今でももちろん極めて重要な科学ですね。
 観測とは、そのような観察を数値化すること。この数値がデータですね。その数値には物理的な数値と化学的な数値がありますね。そして、その数値の間の関係を式で表す。単純なことは、例えば数値をグラフに落とし、傾向があればそれを最も近い式で表す。すると、式は数学であるから、必ず関数となりますね。そして、中学でも習ったように、xがなんぼであればyがなんぼという関係が得られる。そのxとyの関係を原因と結果に置き換える。そこまでが、観測である。その式は、自然の一部を切り取っていると考えるのである。
 そして、この観測から得られた、数値の間の規則的な関係を、既に分かっている理論から如何に説明できるかを示して「事実の殿堂入り」を果たすのである。これまでの理論では説明できないことが、自然には山のように無限に存在する。人間の頭の中の脳細胞の数、それらを総て相互に組み合わせた数、よりも、もっともっと多い。しかし、観察そしてそれを数値化する観測は、ある意味で自然に最も近いと言える。これまでのちっぽけな理論(自然に比べてですよ、理論に取り組んでいる科学者はいつも頭脳を使っている、すごい人たちであり、彼らがちっぽけなのではないのですよ)では説明できないことこそ重要であり、それが科学をすすめる原動力になるのですね。ですから、「説明できない!」と科学者や学生諸君は悩みにぶつかりますが、その時こそ、実は大いなるチャンスなのですね。悩める諸君、今こそチャンス!
 さて、そのような観察や観測は、人間の五感、様々な観測装置を使いますから、そこに自然の事実と違う事柄、すなわち「誤り」が入りますね。その誤りを故意に行った時「嘘つき、ねつ造、虚言」となり、最近、問題となっているのですね。そして「科学は堕落した」とマスコミから徹底的にたたかれる。最初ついてしまった「嘘」で一流科学誌に載り、いい気分になる。誰も気がつかない。もうちょっといいかと、どんどんエスカレートする。人間なのですね。「嘘つきはドロボウのはじまり」ですね。韓国そして日本でも、有名な科学者が「落ちる」のは、きっとそのような「小さな嘘」のはじまりが、彼らの科学者人生のどこかにあったのですね。「名声」という科学とは無縁な人間の心がもたらした悲惨な結果です。
 次回は、この「誤り」と「嘘」(この2つは厳然と違う)は、科学において、どのように正されるのか、について見てみる事にしよう。ポイントは「科学雑誌の論文」と「週刊誌記事」は明確に異なることにある。
つづく
 
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「知りたい」ための我慢

2006-03-21 04:14:35 | まじめ

 ある「知りたい」ことのための巨大プロジェクトの会議。
技術の困難のために出来ないかもしれないという。お金が足りないので、出来ないかも、という。
誰がって?それは技術を持っている人。それはお金を持っている国。
でも私たちは「知りたい」のである。技術もなければお金もない!でも、ただただ「知りたい」のである。

こころの中で、以下の問答。
(「ジェット戦闘機一機より遥かに安いだろ?」「ピンポイントでミサイルを当てる技術より遥かに易しいだろ?」
「人を殺すための道具で墜落したり、爆発したりして一瞬に消えてしまうような壮大な無駄ではないよ」)

「私たちの研究によって分かる事はすぐに役に立たなくたって、必ず役に立つ時が来る」
 だとしたら安いものではないの.
「そこで開発される技術は必ず役に立つ」

といっても「すぐに役に立つ?」などと言われると本当に腹が立つ! 
だから長期展望のない日本は駄目なんだ!と切れたくなる。
(我慢我慢ーー、切れると負け。するが堪忍、なすが堪忍。大義の前の冷静沈着。)


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