楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

地球と生物の対話

2008-10-18 06:48:55 | 読書
地球と生物との対話 (1982年)
井尻 正二,湊 正雄
築地書館

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自宅の本棚の奥で昔の本を探していたら、この本が出て来た。
大昔出た時に買ったものだ。
当時、さっと、読んで極めて不愉快になったのでしまってあったものだ。

改めて読んでみて、やはりひどい。とにかく粗暴である。
当時より一層、そう思う。そして、なぜあのときこの本が出たのか、と改めて考えてしまった。

なぜか?

時代背景:この本が発行されたのは1982年。時は日本の地質学界で放散虫革命が進行し、プレートテクトニクスに基づく付加体の仮説に基づく時代予測が、放散虫による年代決定という新たなデータによって次々と検証されている最中である。

著者:井尻正二氏は、第二次大戦後地学団体研究会を組織した指導者であり、一貫してその理論的支柱であった人だ。
そして、湊正雄氏は北海道大学を代表し、これまた日本の地質学界を代表する研究者であった人だ。
この二人が対談という形で議論を展開している。それを星野通平氏という、まだご存命だが、強烈にプレートテクトニクスに反対する人の司会で進行した対談をまとめたものだ。中身はプレートテクトニクスに関する事ばかりではなく、この二人の出会いから生物の進化、日本人の起源等、多岐にわたっている。しかし、当時の科学の流れを考えると、この本発行の意図は下記の1点のみが意味のあることであった。

本の意図:プレートテクトニクス理論が、放散虫革命によって急速に地質学界に受け入れられ、それに反対する論が急速に劣勢になっていく中で、戦後一貫して地質学界をリードして来たこの二人が対談し、それを徹底的にこき下ろすことによって巻き返しを図ったもの、と見る事ができる。書店は、築地書館であり、それまで地学団体研究会や井尻正二氏の多くの著作を出して来たところである。

中身:湊氏は、さすがに良く勉強していたんだろう。動揺の様子が見える。しかし、井尻氏ははっきりと言い切るのである。
(本はすでに手に入らない可能性が大きいので以下引用)
「私はプレート説について、言うべき点が三点あるのです。第1点は、プレート説で何か地下資源が見つかったかどうか、という点です。この実績なくて、何の新学説か、という気がします。第二点は、地震と火山です。もし、プレート説が正しければ、プレート(岩板)が大陸の下にもぐりこむのですから、地震の震源地は、点ではなくて必ず線か面にならなくてはならない、と思います。同様に、火山もみんな線(割れ目)にならなくてはならないはずです。火山がポツンポツンと点になるのはおかしいと思うのです。第三番目は、プレート説というのは、まだ法則(真理)ではなくて、一種の仮説だと思います。それが実証されて、法則というにふさわしくなるためには、第1に指摘したように、プレート説で地下資源がうんと見つかるということが絶対必要です。」(92ページ)

そして、三人による、こきおろしがつづく。

湊氏は、最初は動揺していた様子であるのに、どんどん悪のりをはじめて、ドイツでのエピソードを披露する。

「ウェゲナーはいまどんなふうに評価されているのか」と問われて、
「「ドイツ国民が、なぜヒットラー伍長のもとで戦争をしたんだ。われわれはそのまねをしたばかりにえらい目に会った。」
「たぶんヒットラーのような運命をたどるのではないでしょうか、ウェゲナーの理論は」(95~96ページ)
と、強烈な歴史をそこに投影させるのである。

彼らをすばらしい研究者と思って尊敬している人がこれを読んだらどう思うだろうか?
特に、第二次世界大戦て手痛い経験をし、「もう二度と戦争は嫌だ!」と思い、かつ戦後の激しい左右対立という政治状況の中で、アメリカは最大の敵「アメリカ帝国主義」と思っている人が読んだら。

言うまでもない。

プレートテクトニクスは、敵のアメリカで生まれた、まだ本当かどうか分からない「仮説」であり、それを提唱したウェゲナーを信じる事はヒットラーを信じるようなものだ、と思うだろう。

このようにして、彼らは科学を巡る議論の中に、極めて乱暴に政治を持ち込んでいたのである。

井尻氏の指摘する3つの点の第二点は、当時ですらほとんど彼の無知から出ているが、第1点と第3点は、彼独特の科学方法論から出ている。

私は常日頃、日本の地質学界がたどった戦後の歴史をきちんと整理する必要があると思っている。
その根底にあるのは、井尻正二氏が、彼の科学方法論や科学運動論によってこの学界を長く翻弄させ、学界の中にも多くの追随者を生み出したことだ。

井尻正二氏はすでに亡いが、哲学的考察まで踏み込んで彼の科学方法論や科学運動論を批判的に検討した著作は極めて少ない。
いずれ機会を見て、私の見解を展開したいと思っている。




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流されて蜀の国へ

2008-10-15 02:48:44 | 歴史
これは読書録で、書名は「流されて蜀の国へ」(川口孝夫著)である。
自費出版なので、Amazonのアフィリエイト投稿にリンクしようと思ったがそこにはない。
友人が、私なら興味を持つかもしれないと、送ってくれた本である。
10年ほど前に北海道新聞の1面トップを飾ったらしい。
ここに紹介されている。
http://www.netlaputa.ne.jp/~rohken/kawaguchi.htm


終戦から1950年代、日本の社会は左右の政治勢力が力で激突する時代であり、様々な事件が起きた。
それは、多くはGHQが朝鮮戦争を前にして仕掛けた謀略であるとの論が多く展開され、それが昭和史の謎として今も語り継がれている。
その中にあって、どうも本当に共産党の側が引き起こしたらしいのが「白鳥事件」という、北海道の札幌で起きた警察官殺害事件である。その本当らしさを決定づけた本がこれである。

この著者の川口孝夫氏はすでに亡く、最終的なことはついに語らず、亡くなったらしい。
歴史とはこうして、闇の中へ消えてしまうのであろうか、と思うと残念である。

この本を読んで、私が驚いたというのは、1960年代以降も、1950年代に密航した多くの日本共産党員が中国に残り、そこで歴史的な大躍進運動や文化大革命の中で翻弄されたということである。そのことの歴史的証言がここにある。
この著者は、人生の大半を革命運動の幻想の中で翻弄され、最後には本人も信じた文化大革命の「敵」にされ、ようやく自分自身で考える事の重要性に気がついたことを告白している。
その時は、既に齢50を超えていた。

しかし、そのことによって帰国を果たし、晩年は穏やかな人生であったという。彼が人生を掛けて確保した、この自らの頭で考えることの重要性が、少しでも周囲をかえる事ができたとしたら、本望であったに違いない、と思う。

1950年代の恨みは、いまでもあちこちに渦巻いている。

(本の題名が反対になっていました。「蜀の国に流されて」ではなく、「流されて蜀の国へ」です。関係者の皆様、読者の皆様へお詫びして訂正いたします)


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時が滲む朝

2008-10-04 22:32:37 | 読書
時が滲む朝
楊 逸
文藝春秋

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この本は、芥川賞受賞後すぐに買って読んだのだが、ここに書く暇もなく過ぎていた。

内容は(NHK週刊ブックレニューで今朝やっていたので、そこから以下パクリ)
天安門事件で挫折した、若者たちの半生を描いた物語です。
1988年、中国西北部の名門大学に合格した幼なじみの梁浩遠と謝志強。学問と愛国心に燃える二人は、情熱に突き動かされるまま、民主化運動に身を投じてゆきます。
天安門事件での敗北感と大学から下された退学処分、そして友の裏切り…。政治や経済の激しい変化に主人公の紆余曲折を重ねながら、理想と夢をくじかれた中国の若者の痛みと希望を力強く描き上げました。

時と場所と情景は全く異なるが、先に記した「望みは何と訊かれたら」(小池真理子)と空気は似ている。特に、脇役として登場し、消息不明となっていた恋人の女性のさっそうとした姿との再会は、突然、小説をスイッチしてもいいものかもしれない。

もっと長編にして、もっとこころの機微をえぐり出せば、圧倒的な小説になった気もする。小池真理子と比べるとちょっと物足りないか。


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望みは何と訊かれたら

2008-10-04 22:10:34 | 人間
望みは何と訊かれたら
小池 真理子
新潮社

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いつだったかNHKの週刊ブックレビューで紹介されているのを見て、
「お!読んでみたい」と思った。
小池真理子は私と同世代の女流作家。名前は知っていたが読んだ事はない。
学生運動を経験し、その最中の人間模様を描いているらしい。
私は、小説などはほとんど読まないが、昔、学生運動の経験もあり、引きつけられた。
そして、本屋で見つけて買ってあったが読む暇がなかった。
しかし、休みが取れたらこの本を読もうと決めていた。
(そのような本が、実は、山とあるのだがーー)

最後まで、読者を引きつけてやまないサスペンス調で展開しつつ、終わりはない。
なぜなら、まだ続いているからである。小池真理子が八十にになれば、更に書けるのかもしれないが。

貫かれていることは、
日常の安定の安堵と、非日常の不安定の緊張の恍惚の狭間で強く揺れる人間の性である。
この生き様は、あの時代に青春を経験した者でなければ理解不能かもしれない。

読んでいて私はふと、第二次世界大戦の時に青春を過ごし、いま人生を終えようとしている世代のことが頭をよぎった。
それは命を強制的に中断させられるという、非日常の中で過ごした青春、そしてその後の時間的には圧倒的に長い安定的な日常の人生(もちろん相対的にという意味でしかなく、私には想像でしかないのであるが)の対照があった。
そして、いま本当に命の灯火が消えようという時に、その非日常の青春の意味を確認し、後世に伝えたいという叫びが心を打つ。

あの揺れ動いた時代の青春は、このような世代に比べれば、ひよっこ程度のものでしかないかもしれない。
しかし、人生の中の、命をかけた非日常であったことだけは間違いない。

そういえば、私も「日常性から脱却せよ!」には引きつけられたな。いまでも、「非常識」が好きだ。






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