楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

ルーツの旅(12) 司(1)

2024-10-22 06:19:20 | 歴史
大正5年4月に生まれた滝蔵の子、小林は、成長し札幌女子師範学校附属尋常小学校の訓等(訓導)となっていた。
司は昭和20年4月札幌で宮村澄子と結婚した。

司27歳、澄子20歳。

澄子は、昭和15年に新設された女子師範学校の第2期生。卒業後二年間の根室標津での勤務義務*を終えたばかりだった。

この二人の人生は、激動の時代に翻弄された典型そのものだ。

司は昭和13年に札幌師範学校を卒業し、夕張沼ノ沢に赴任した。炭鉱の開拓で賑わい、全国から集まる労働者の子供の数は爆発的に増えていた。

新任の司は、師範学校では地理学を専攻したが、多くの管理職の見る国語の研究時間に失敗をしてしまった。

「必要」という漢字の「必」の書き順を「心」を書いた後に、右上から左下に「ノ」を書いたのだ。

授業の後に、校長室に呼び出された。
間違いを指摘された。書き順は、交互に襷掛けだからだ。

でも司は、居直ってしまった。
「多くの人が心を書いた後にノを書いている。多くの人がやっているのだから、間違いともいえないのでは?」

「バカモノ!」「訓導が嘘を教えるとは、何事か!」

司は、師範学校卒業後、昭和14年に全国の師範学校卒業生から選ばれる満蒙教育支援隊に,北海道から5名だけ選ばれたエリートの中にいたので、居直っても許されると思っていたのだ。

満州からの帰任後、先の居直りも重なったのか、
「もう一度、勉強し直して来い!」
といわれ、札幌に新しくできた女子師範学校附属幌南尋常小学校訓導の辞令を受けたのだった。

居直りへの処分的空気を伴った辞令は、当時「生活綴方運動」** が国語の時間にはやり、戦争激化の中で、厭戦気分を醸成する危険運動とみなされたからだったかもしれないと、司は後に振り返っている。
(つづく)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

* 第2次大戦以前、義務教育(尋常小学校)教員(訓導)養成のための師範学校は、寄宿舎制度であり、授業料や寄宿舎料などは無料であったが、卒業後、二年間の勤務義務があった。北海道では、男子教員の徴兵による不足を補うべく、昭和15年より女子師範学校が設置された。

**「生活綴方運動」
生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

精選版 日本国語大辞典 - 生活綴方運動の用語解説 - 〘 名詞 〙 大正時代から昭和初期にかけて成立し、第二次世界大戦中も活動を続け、さらに戦後にも復活した、作文によっ...

コトバンク

 




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ルーツの旅(10) 滝蔵(6)

2024-10-06 06:00:00 | 歴史

北海道移住の模索

滝蔵が世帯をもったことをきっかけとして蝦夷地への移住を本格的に検討を始めた。
祖父の後妻筋の叔父叔母たちが既に十勝へ渡っている。二宮尊親氏と共に渡った知り合いもいる。
しかし、明治も終わり、十勝はもう開拓の地は予定され、移住の余地はなかった。

しかし、相馬と北海道とのつながりは、それだけではなかった。

札幌は、江戸末期には大規模な開発が始まり、碁盤の目を巡らせた設計がなされていた。
直線で新しく深い川を浚渫、泥炭地からの排水を計ることからはじまる大規模土木。札幌の創成川や新川として知られる。
その設計者の中心に二宮尊徳の門下生、大友亀太郎がいたのだ。

滝蔵が北海道への移住を決した時には彼は既にいないが、大友が実行した二宮尊徳、尊親の報徳仕法と相馬からの移住は、名を轟かせていたに違いない。それは人脈を形成していた。


(つづく)
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ルーツの旅(9) 滝蔵(5)

2024-10-05 06:00:00 | 歴史
自立への模索

尋常小学校を終え、高等小学校を終え、将来を決めなければならない。
男手の少ない本家で、山野から生産する仕事は事欠かない。
樹木の伐採、草刈り、薪集め、炭焼き。越冬作業の蓄積は男仕事だ。
田畑狭いながらも、米作は先祖伝来の本業。

田畑、山から生産したものは、宇多川沿いの山上村、時には相馬の中心地、中村までへも払い下げた。
子供時代のように、遊び回ることもできない。
やがて、徴兵検査となり、心身剛健な滝蔵は、甲種合格となった。
召集があれば、赴く覚悟はできている。農民といえども歩卒(足軽)身分を兼ねている。
将門家来の平安の昔からの、相馬の伝統は身についている。
しかし、招集はなく時が過ぎた。

二十歳も半ばになると、長兄の家長継承、滝蔵の嫁取りと自立の課題が本格化してきた。

宇多川、中村街道をさらに上流へ遡り、亘理伊達の領地(現宮城県)側へ入ったところに三男四女人も兄弟姉妹のいる家があった。国(藩)は違うが、滝蔵の家から見ると隣家だ。そこの次女のヨシが候補となった。器量良しの一八歳。 話も整い、時代も大正三年となった春。二人は一緒になった。

戸籍は、滝蔵筆頭の分家とした。しかし、住居は、自立した将来が確定するまでは、本家の隣においた。

この時が滝蔵の人生が最も輝いた時だった。新しい家族、器量良しの嫁。そして授かるであろう子供たちの将来。

滝蔵は、夢の新天地、蝦夷への移住を決意し、準備をはじめた。

(つづく)
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ルーツの旅(8) 二宮尊親(3)

2024-10-04 06:57:23 | 歴史
開拓からの凱旋帰還

尊親は、明治29年北海道開拓を決意し、明治30年、3月3日北海道、十勝の豊頃へ。明治33年まで、相馬から、総計114戸入植させ、陣頭に立ち寝食を忘れて指導に当たった。明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に戻った。

この間、東京から福島、仙台を通り青森に至る東北本線の鉄道も開通した。滝蔵のいたところから福島までは、中村街道に沿って約50km, 12里。歩いても12時間だった。北海道への移住経路も出来上がった時代だった。

尊親の率いた北海道開拓の成功談は、多くの相馬の人に夢を与えたに違いない。

家父長制で農家を引き継ぐのは長男のみ。
次男以下は、手に職をつけるか、男でのないところへ婿として行くか、手に職をつけるかしかない時代だ。
女子は、どこかへ嫁ぐか、貧しければ身を売られることも普通に行われていた時代だから、尚更だ。

開拓入植に際し、尊親は、開拓成功の10年後に返済できる借財を与え、成功の暁は自作農として土地もろとも授与す報徳仕法で成功させたのだから。生活の苦しさから博打や酒に走ることを許さず、毎夕その日の反省を交流させる厳しい仕法だったという。

この尊親率いる移住から凱旋帰還に至る時期は、滝蔵が八歳から十八歳に至る時だ。

狭い山間に喘ぐ、農家の次男坊にとって、開拓の成功の結果、1戸10町歩すなわち東京ドーム数個弱の田畑が手に入ることは想像もできないくらいの大きかったに違いない。

(つづく)
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ルーツの旅(7) 二宮尊親(2)

2024-10-03 06:08:59 | 歴史

恩人の孫からの「再恩返し」

江戸時代の飢饉は想像を絶する。飢えで次々と人が絶命する。地獄図の世界だ。天明・天保の飢饉は、冷害におそらく風水害も重なり、経済の根幹である米が実らず、幕府も関東東北地方の多くの藩も空前の困難に直面した。

小田原で成長した尊徳が、報徳仕法で実りを復活させた。武士農民が一体となった結果だった。小田原藩は武士身分にした。それが徳川幕府にもとどろき、現在でいえば国交省大臣に当たる普請奉行となった。その時に相馬藩から出向していた人が、甚大な被害のあった藩の復興への指針を請うた。尊徳は現地へ赴く余裕はなかったが報徳仕法を丁寧に示した。相馬藩は、復興を遂げた。

幕末、戊辰の内乱で徳川側の行末に暗雲が懸念された。相馬藩は、戦場となることが懸念された、日光街道の真岡から尊徳一家の疎開地として名乗りを上げた。恩返しだった。その中に孫の尊親がいた。

相馬で成長した尊親は、恩返しへの再恩返しを実行した。

(つづく)
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