軍事教育
札幌へ戻った司は、幌南女子師範附属尋常小学校で教育を始めた。
司は、札幌師範学校時代、陸上部と剣道部に所属していた。
近眼でありメガネをつけなけらばならないが、身体剛健でスポーツ万能であった。
赴任を命ぜられた幌南小学校は、豊平川沿いの札幌の南の学園町にあった。旧札幌中学(現在の札幌南高校)に隣接している。当時は札幌師範学校附属なので、周囲に住む高級住宅街から選ばれた子達が通う学校だ。
昭和16年、あらゆる科目の中に軍事教育が入り込んだ。
司は、小学生を対象とした丘珠に基地のあった札幌少年航空隊の指導も命じられた。
男子生徒から強い志願兵を育て上げることは青年教師にとっても必死の任務だ。
なぜなら、戦闘機操縦士は、死を覚悟して望まなければならないからだ。
司は、26歳になり、教員といえども、いつ徴兵されるかもわからないので、周囲から結婚を勧められた。
結婚相手となる女性は、勤務が女子師範学校附属の学校なので、教育実習にくる学生が多数いる。
札幌女子師範学校は、昭和15年度開設、1学年120名の定員、北海道全域から募集された。高等女学校を卒業した17歳の少女たちだ。今の学校制度でいえば、高校2年終了で進学してくることにあたる。
当時の社会常識は、女性は20歳までに結婚し、主婦になることが理想だった。高等女学校も良妻賢母になるための教育が施されていた。多くは卒業直後、あるいは若干期間の仕事の後、結婚した。
女子師範は、高等女学校を経て、女子教員になろうという志をもった女子が集まったところだったのだ。
入学時は、きらきらと目が輝いていたに違いない。
しかし、昭和16年12月8日、真珠湾奇襲によって太平洋戦争開戦以降、空気は一変していた。
昭和19年、司の目に、ある女子学生が留まった。昭和16年度入学、17年度早期卒業の女子師範学校2期生の宮村澄子である。
(つづく)
札幌へ戻った司は、幌南女子師範附属尋常小学校で教育を始めた。
司は、札幌師範学校時代、陸上部と剣道部に所属していた。
近眼でありメガネをつけなけらばならないが、身体剛健でスポーツ万能であった。
赴任を命ぜられた幌南小学校は、豊平川沿いの札幌の南の学園町にあった。旧札幌中学(現在の札幌南高校)に隣接している。当時は札幌師範学校附属なので、周囲に住む高級住宅街から選ばれた子達が通う学校だ。
昭和16年、あらゆる科目の中に軍事教育が入り込んだ。
司は、小学生を対象とした丘珠に基地のあった札幌少年航空隊の指導も命じられた。
男子生徒から強い志願兵を育て上げることは青年教師にとっても必死の任務だ。
なぜなら、戦闘機操縦士は、死を覚悟して望まなければならないからだ。
司は、26歳になり、教員といえども、いつ徴兵されるかもわからないので、周囲から結婚を勧められた。
結婚相手となる女性は、勤務が女子師範学校附属の学校なので、教育実習にくる学生が多数いる。
札幌女子師範学校は、昭和15年度開設、1学年120名の定員、北海道全域から募集された。高等女学校を卒業した17歳の少女たちだ。今の学校制度でいえば、高校2年終了で進学してくることにあたる。
当時の社会常識は、女性は20歳までに結婚し、主婦になることが理想だった。高等女学校も良妻賢母になるための教育が施されていた。多くは卒業直後、あるいは若干期間の仕事の後、結婚した。
女子師範は、高等女学校を経て、女子教員になろうという志をもった女子が集まったところだったのだ。
入学時は、きらきらと目が輝いていたに違いない。
しかし、昭和16年12月8日、真珠湾奇襲によって太平洋戦争開戦以降、空気は一変していた。
昭和19年、司の目に、ある女子学生が留まった。昭和16年度入学、17年度早期卒業の女子師範学校2期生の宮村澄子である。
(つづく)