楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

ルーツの旅(13) 司(2)

2024-10-24 06:00:00 | 人文
軍事教育

札幌へ戻った司は、幌南女子師範附属尋常小学校で教育を始めた。


司は、札幌師範学校時代、陸上部と剣道部に所属していた。
近眼でありメガネをつけなけらばならないが、身体剛健でスポーツ万能であった。

赴任を命ぜられた幌南小学校は、豊平川沿いの札幌の南の学園町にあった。旧札幌中学(現在の札幌南高校)に隣接している。当時は札幌師範学校附属なので、周囲に住む高級住宅街から選ばれた子達が通う学校だ。

昭和16年、あらゆる科目の中に軍事教育が入り込んだ。

司は、小学生を対象とした丘珠に基地のあった札幌少年航空隊の指導も命じられた。
男子生徒から強い志願兵を育て上げることは青年教師にとっても必死の任務だ。
なぜなら、戦闘機操縦士は、死を覚悟して望まなければならないからだ。

司は、26歳になり、教員といえども、いつ徴兵されるかもわからないので、周囲から結婚を勧められた。

結婚相手となる女性は、勤務が女子師範学校附属の学校なので、教育実習にくる学生が多数いる。

札幌女子師範学校は、昭和15年度開設、1学年120名の定員、北海道全域から募集された。高等女学校を卒業した17歳の少女たちだ。今の学校制度でいえば、高校2年終了で進学してくることにあたる。

当時の社会常識は、女性は20歳までに結婚し、主婦になることが理想だった。高等女学校も良妻賢母になるための教育が施されていた。多くは卒業直後、あるいは若干期間の仕事の後、結婚した。
女子師範は、高等女学校を経て、女子教員になろうという志をもった女子が集まったところだったのだ。
入学時は、きらきらとが輝いていたに違いない。

しかし、昭和16年12月8日、真珠湾奇襲によって太平洋戦争開戦以降、空気は一変していた。

昭和19年、司の目に、ある女子学生が留まった。昭和16年度入学、17年度早期卒業の女子師範学校2期生の宮村澄子である。

(つづく)
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ルーツの旅(12) 司(1)

2024-10-22 06:19:20 | 歴史
大正5年4月に生まれた滝蔵の子、小林は、成長し札幌女子師範学校附属尋常小学校の訓等(訓導)となっていた。
司は昭和20年4月札幌で宮村澄子と結婚した。

司27歳、澄子20歳。

澄子は、昭和15年に新設された女子師範学校の第2期生。卒業後二年間の根室標津での勤務義務*を終えたばかりだった。

この二人の人生は、激動の時代に翻弄された典型そのものだ。

司は昭和13年に札幌師範学校を卒業し、夕張沼ノ沢に赴任した。炭鉱の開拓で賑わい、全国から集まる労働者の子供の数は爆発的に増えていた。

新任の司は、師範学校では地理学を専攻したが、多くの管理職の見る国語の研究時間に失敗をしてしまった。

「必要」という漢字の「必」の書き順を「心」を書いた後に、右上から左下に「ノ」を書いたのだ。

授業の後に、校長室に呼び出された。
間違いを指摘された。書き順は、交互に襷掛けだからだ。

でも司は、居直ってしまった。
「多くの人が心を書いた後にノを書いている。多くの人がやっているのだから、間違いともいえないのでは?」

「バカモノ!」「訓導が嘘を教えるとは、何事か!」

司は、師範学校卒業後、昭和14年に全国の師範学校卒業生から選ばれる満蒙教育支援隊に,北海道から5名だけ選ばれたエリートの中にいたので、居直っても許されると思っていたのだ。

満州からの帰任後、先の居直りも重なったのか、
「もう一度、勉強し直して来い!」
といわれ、札幌に新しくできた女子師範学校附属幌南尋常小学校訓導の辞令を受けたのだった。

居直りへの処分的空気を伴った辞令は、当時「生活綴方運動」** が国語の時間にはやり、戦争激化の中で、厭戦気分を醸成する危険運動とみなされたからだったかもしれないと、司は後に振り返っている。
(つづく)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

* 第2次大戦以前、義務教育(尋常小学校)教員(訓導)養成のための師範学校は、寄宿舎制度であり、授業料や寄宿舎料などは無料であったが、卒業後、二年間の勤務義務があった。北海道では、男子教員の徴兵による不足を補うべく、昭和15年より女子師範学校が設置された。

**「生活綴方運動」
生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

精選版 日本国語大辞典 - 生活綴方運動の用語解説 - 〘 名詞 〙 大正時代から昭和初期にかけて成立し、第二次世界大戦中も活動を続け、さらに戦後にも復活した、作文によっ...

コトバンク

 




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イランの地方に住む愛ある家族の日常

2024-10-18 04:02:13 | 生活
造山帯の中東地域の風景と生活

現在執筆中の書の参考に、地球の地質学的風景を知りたいと思って探ったイランからのYoutube
 
長らくアクセスし続け、政治宗教絡みのプロパガンダでは�ない、と確信するので紹介したい。

完全なる別世界

体を覆い尽くす女性の服装のイスラムの文化、その背景の乾燥自然の中で生きる女性のバイオリズムが伝わってくる。

貧しくも穏やかな四人の子供の成長の愛ある家族のリアルタイム生活と笑顔が嬉しい。

毎日1時間アップのYoutuberとしての収入のみがこの家族と姿の見えないカメラマンの生活の糧と想像できる配信。

生活のニオイさえ漂うが、健康管理のための鍵が水と、伝わる。

翻訳機能付きのSNS(社会ネットワークシステム)とAI(人工知能)がなぜ世界を変えるか、の現在進行形としてもよくわかる。

フォローをお勧めします。それだけでも援助になると思うので。
ちなみに場所はイラクとの国境に近いイランの地方のようです。

bonavar

bonavar

Hello dear viewers Bonavar narrates the story of Iman village life family who lives in Iran country.

YouTube

 
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ルーツの旅(11) 滝蔵(7)

2024-10-08 08:33:48 | 人間
滝蔵の結婚

滝蔵の嫁になるヨシは、街道筋の隣家であることは(5)に記した。この二人が仲良くなるのは、大正二年のことだ。次男と次女の気軽さがあったのかもしれない。街道の谷間は二人の相引きには格好の自然のデート場だ。

出来ちゃった。ヨシが身重になった。大正三年春、未婚のまま子を産んだ。十八歳。
女の双子だった。

しかし、最初の子は死産。あとの子も三日後に亡くなった。

ヨシの名をとり、ヨシノ、ヨシエと名付け、丁重に葬られた。

ヨシと滝蔵との仲はあまりにも明らかで、両家にとって大騒動だった。

両家は、この二人を結婚させることにした。大正三年の瀬も押し迫った冬、滝蔵を分家させ、ヨシを籍に入れた。

二人の住む家は、本家の隣。

仲睦まじく暮らす二人に、大正五年春、待望の次の子が生まれた。

長男、司。

狭い谷間、本家から分ける土地はない。二人は、本気で自立への道を考え始めた。蝦夷へ。

(つづく)
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ルーツの旅(10) 滝蔵(6)

2024-10-06 06:00:00 | 歴史

北海道移住の模索

滝蔵が世帯をもったことをきっかけとして蝦夷地への移住を本格的に検討を始めた。
祖父の後妻筋の叔父叔母たちが既に十勝へ渡っている。二宮尊親氏と共に渡った知り合いもいる。
しかし、明治も終わり、十勝はもう開拓の地は予定され、移住の余地はなかった。

しかし、相馬と北海道とのつながりは、それだけではなかった。

札幌は、江戸末期には大規模な開発が始まり、碁盤の目を巡らせた設計がなされていた。
直線で新しく深い川を浚渫、泥炭地からの排水を計ることからはじまる大規模土木。札幌の創成川や新川として知られる。
その設計者の中心に二宮尊徳の門下生、大友亀太郎がいたのだ。

滝蔵が北海道への移住を決した時には彼は既にいないが、大友が実行した二宮尊徳、尊親の報徳仕法と相馬からの移住は、名を轟かせていたに違いない。それは人脈を形成していた。


(つづく)
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