楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

夢の中へ

2006-06-29 08:23:30 | 人間
夢の中へ
誰にでも夢はある。死ぬその瞬間まで。それが生きる力。
夢は年を取れば取るほど、大きくなる。
知れば知るほど、未知が増える。
実現から遠ざかれば遠ざかるほど夢は膨らむ。

若者と年寄りとちょっと違うこと、それは悩み方がうまくなる。
それを大人と人は言う。
実現と夢のギャップが大きければ、それは絶望である。
しかし、大人はこのギャップでは、悩まない。
夢は実現しないもの。実現するのはその道筋。
だから一期一会、だから入魂一事。だから夢の共有。
そして人は、世代はつながり、夢は近づく。

夢は無限、夢はゼロ。連続と不連続。
数学の無限の定義、ゼロの定義、連続の定義。
それは夢と現実の矛盾そのもの。何も絶望する必要はない。
夢は実現するもの、そしてしないもの。
人類はそうやってここまできた。

宇宙史137億年。
地球・生命史46億年
大陸移動・合体5億年
恐竜絶滅後6,500万年
人類史500万年
人間史1万年
科学史400年
人生70年
青春時間~5年
悩み・痛みせいぜい1日
睡眠8時間
精神集中2時間
たばこ一服5分
巨大地震1分
脈拍1秒
カメラフラッシュ 0.001秒

この時間スケールを自由自在に。夢の中へ。
ただただ自然のなすがままに。
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なつかしい悪への入口

2006-06-26 23:20:36 | 人間
 昔話を1つ。
 私は1964年、東京オリンピックの年に、北海道の炭坑街、上芦別を去った。本当に充実した子ども時代であった。
小学校の時は街の子であった。しかし、中学へ進学すると2つの小学校からの子が一緒になり、全く新しい社会となった。1学年300人。6クラス。一学級60人。教室の机は後ろの壁までびっしりである。新しい友がたくさんできた。その中で印象深い友が二人できた。ひとりは炭坑街の幹部の子。そしてもう一人はとてつもなく体の大きい、番長格の子。

 番長の友は優しいボスであった。その彼には父がいなかった。彼の父は三菱炭坑のバレーチームの一員であった。チームは強く、バレー全国大会へ出場することとなった。いさんで東京へ。しかし不幸にもそのバレーチームを乗せた青函連絡船は「洞爺丸」であった。洞爺丸台風によって津軽海峡の海に沈んだ。そのチームの中に彼の父はいた。彼は悲しげにしかしちょっと自慢げに、父の写真を見せてくれた。私は「洞爺丸台風」と名づけられた台風のことは知っていた。小学6年の時の修学旅行で函館へ行き、七重浜に大量の死体が揚がったことを聞いていたからである。しかし、それがこんなにも身近な友のことであることに大きなショックを受けた。それから、その番長たちといつも遊ぶようになった。

 「おおーい!梨を捕りにいくぞ!」と放課後、声がかかる。もう一人の友である炭坑会社幹部の子の家の庭にある梨が目標。西洋梨で大根のように堅い。しかし、ほのかに甘く、当時の子どもたちには絶好のごちそうである。「お前は先生の子なので見つかるとまずいから、見張り。道路の端で人が来ないように見張ること」「よし!分かった」。わくわくドキドキである。炭坑の家はハーモニカ長屋。幹部の家はレンガ作りの一戸建て、庭付き。道路脇から、その家を見ると、その幹部の子の友が何とも寂しげな目で、こっそりと外を眺めていた。こころの中で、申し訳ない気分が広がった。
 「こら~!」どこからか声がした。「逃げろ!」の声とともに、皆一斉に駆け出した。そして、草むらに板を組み合わせて作った秘密基地へ。みんなで、盗んだ梨をがりり!とかんだ。

「うえ!この梨、虫が食ってる!」「うへ!これもだ!」
「わっはは、これではあいつら、梨も食えないぞ」
 とみんなで腹を抱えて笑った。

 梨泥棒は幹部と一般炭坑夫の間のどうしようもない差別を感じている子どもたちの反逆であった。しかし、ふたを開けてみると、その差別の象徴であった梨が食えないものであった。そのことを理解したことの安堵の笑いであるように感じた。なにか暖かい気分になった。

 当時は300人の子どもたちの成績番付が総て発表となった。なんとも残酷な時代である。私はなぜか、中学最初の試験で上位となり、いつであったか1番になった。そして、そのことから番長たち仲間の宿題係となった。小学校時代の街の子たちは、どうも性に会わなかった。彼らは金持ちなのである。医者の子も大きな呉服屋の子も、皆、家には自分の部屋を持ち、自分のベットと机を持っている。小学校の教員宿舎は長屋。部屋は2つ。そこに親と兄弟4人がひしめいている。おやつのおこづかいももらえない。典型的貧乏教員である。当時は60年安保の余波の時代。小学校教員は炭坑の組合と一緒になって「安保反対」の側にいた。きっとそんな大人たちの激しい矛盾と対立が子ども社会にも如実に反映していたのであろうと思う。私はただただ楽しかっただけであるが。
 その仲間の中で宿題を見るとともに、私は鉛筆を削るのが大得意であった。今でも大好きである。フィールドへ出かけて、メモを取るが、私はシャープペンシルが嫌いである。頭に消しゴムのついたトンボ鉛筆。それを丹念に削り先端を尖らす。その間合いが大好きである。さて、この鉛筆削り請負もまたグループの中の私の仕事であった。

番長仲間は、私も含めて皆ナイフを持っていた。やがてそのことが学校で大問題になるのであるが。
私の知らないところで彼らは隣の中学校の番長グループを決闘と称して、けんかをしたらしい。
 ある日、その中の一人が「鉛筆削ってくれ」といって手に真新しい包帯をして学校へ来た。「どうした?」ときくと「いやちょっと。お前にはいえん」。私はとにかく鉛筆を削った。「本当にうまいなお前は!でもそのナイフちょっと切れんな。あすいいものを持ってきてやる」といった。次の日、かれは2枚のカミソリの刃にポマードという頭につける油をぬって持ってきた。「これ2枚一緒に使い、切ると決して傷口がふさがらないんだ、気をつけろ」といった。

 そして、先生から呼び出しが来た。「お前、最近成績が下がっているぞ。悪い奴らとつきあうな!」
くやしかった。父や母にさえ言われていない。「なぜ、そんなこと言われなければならないのか!」「たかが5番や6番下がったくらいでなんだ!だから1番なんていやなのだ!」その番長仲間はだれも一番だからといって妬んだり恨んだりなんてしていなかった。ただただ楽しく皆で遊んでいただけなのに。
 でも、事態は着実に悪くなっていた。2年の秋の日曜日、私はあまりにもの天気のよさに、自転車で隣の街までぶらりとひとり出かけた。そして遠くで呼ぶ声がした。何か怒りに似た声である。私はとっさに「やばい!」と感じて逃げた。しかし、坂道で追いつかれた。突然、自転車から引きずり降ろされ殴られた。隣町の番長であった。
「お前は○○を知っているか!お前んとこの番長!」「偵察に来たのだろう?」「今度、いつやる気だ?」
「知らん!」と答えた。また、一発思いっきりこぶしで殴られた。しかし、ただ散歩に来ただけ、本当に知らん。
とかなんとか切り抜けた。
これを○○君にいうと間違いなくに復讐戦になると思った。しかし、殴られた悔しさは押さえられず、なんとしても仕返しをしたかった。もう悪の入り口にいることが自分にもはっきりと分かった。ポケットの拳はナイフを握りしめていた。
この怒り、いかに解かせん! この街を去る事となるひと月前のことである。
昭和30年代の上芦別
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喫煙同盟

2006-06-25 03:03:20 | 生活
7月からタバコは値上げ。コンビニも今がチャンスとパッケージを山と積み並べる。周りは次々とやめていく。こんな圧力に屈してやめることなど反骨の楽学のこころが納得しない。医者もやめろというのだが。でもゆくゆくは北欧やカナダのように一箱?1,000程度になるであろう。そこでは20年前でその値段であった。私は喫煙歴38年。カナダにいた時もノルウエーにいた時も、苦労してすい続けた。
対策案:
1。学生時代の貧乏な時は、しけもく、を総て取っておき、フィルターにそれをつないで吸った。これだけで、大分違う。
2。パイプにする。これは実は安上がり、おまけに格好いい。パイプたばこは安い上にうまい。私はカナダとノルウエーではこれで過ごした。パイプにはいろいろあるのでそれを集めるのも趣味に出来る。ただパイプの掃除が大変。しかし、これにすると紙巻きたばこはなんて紙臭いのだとわかる。
3。海外旅行の友人で吸わない人にお金を渡して、免税タバコを買って帰ってきてもらう。今1パッケージ?2,700ものは?1,600のはず。今回の値上げは税なので、この免税価格は変わらないはず。
4。この免税は船でも同じ。日本の領海を出るだけでOKなので、公海上で仕事をする船に乗る人に頼めばOK.
5。昔、カナダがべらぼうな値段で、アメリカは日本並みであった15年くらい前には、タバコ購入ツアーというのが国境であった。ちなみにタバコツアーを兼ねて、韓国や台湾旅行などを企画すればよい。どうせ旅行するなら。

てな、ことを組み合わせて、安いタバコを吸い続けることですかね。
ちなみに私は、海外旅行を吸わない人と一緒に旅行する時は、これから絶対頼む事にしようと考えています。
よろしく、皆さん。

こんなに喫煙者にとってきつい世の中ですが、それでも突っ張っている喫煙者にはある種の連帯感が生まれ、仲良くなれるのです。ニコチン中毒の禁断症状はほぼ1時間弱。同じ職場でも、見知らぬ外国でも同じ顔ぶれがリズミカルに喫煙場所に顔を出します。虐げられた問同士、5分程度、一緒にいるわけです。黙って吸うのも変。自然と話がはじまり、再来すると「やーやー」いつしか仲良くなり、一杯いこうか!てな具合です。

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コンクリートと銘菓「落雁」

2006-06-25 01:25:09 | 人間

3歳、コンクリートの天井と階段、それが私の最初の記憶である。
父は運動の得意な人であった。野球で全国大会(今で言う高校野球)へ出た人であった。その父の子として生まれた私は、活発に動き回る子であったらしい。しかし、ある日、コンクリート階段から転げ落ちた。そして、立ち上がる事さえ出来なくなったという。再び立ち、歩き出したのはそれから1年が過ぎてからであった。
そのコンクリートの記憶から1年間、幸い私には全く記憶はない。強烈な電気マッサージと脊椎注射の連続で泣いていたという。次の記憶はベットの横で、歩く自分である。そして歩き終わった時に白衣の医者がくれた「落雁」という菓子である。父も母もお医者さんも、看護婦さんも拍手をし笑顔で一杯だったことを覚えている。私の心はうれしさとテレくささで一杯であった。
日本で猛威を振るっていた「小児まひ」の発症と闘病であった。
この「落雁」というお菓子を口にするたびにそのなつかしい場面がよみがえり、うれしくなる。
そして、この人生の出発点から勇気がもらえる。

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ひさびさのカプセル

2006-06-24 19:03:26 | 生活
 私の古くからの友人が天皇陛下から直接授与される○●賞をもらい、その祝賀会が先日行われた。その○○教授はいわゆる名物教授である。記念講演の中で多くの聴衆というか、共同の研究者や弟子たちが「おお~~」と思ったのは、常に若者たちへ「愛と嫉妬」で接してきたという心の吐露であった。思いのままに感情の発露に任せて、突っ走ってきたかに見えてきたからである。その祝賀会のお土産は、写真の瓦せんべいである。これをバリバリ!と食べて様々な思いを消化せよ、ということか。『ばりばり!ん、うまい!」。とにかく楽しい講演会と祝賀会であった。その後、例によって彼とともにカラオケ屋へ出かけ、○○記念カラオケ大会と相成った。歌うに任せて、終電を逃してしまった。しかたなく都内でカプセルホテルへ泊まるはめとなった。彼と知り合った若い時に、討論のために東京へ出て、目一杯議論して、飲んだ後、一番安いカプセルへ泊まるのが常であった。その時の懐かしいすえた香りがした。
その賞の授与式ではかのスケートの金メダリストと一緒だったとか。風貌のアンバランスが目に浮かぶようだ。
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