教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

東川口中3女子父親刺殺事件から(4)…バカをつくりだす日本の教育システム

2008年08月03日 | 「大人のフリースクール」公開講座

「家族殺し死のうと思った」と父殺害の長女(読売新聞) - goo ニュース

やはり、長女が父親殺害に至った動機として語った弁明はウソであったか。辛く悲しいことだが、家族や学校関係者には彼女の心が見えていなかったのではないか、この事件は教育の常識的な「普通」の感覚からは見えないのではないか、と言った私の予想は概ね当たってしまったようである

事件の性格としては、秋葉原での無差別刺殺事件に代表される「誰でもよかった」といった言葉に象徴される一連の事件とほとんど同系列のものではないだろうか。己の命を筆頭に人の命の重みを理解する思考回路を築けず、あたかも人生ゲームをリセットするような感覚で、自分のストレスを解消するために(そのことで自分の人生や人の人生がどうなってしまうかなどという想像力はまるで働かない)、ゲームのボタンを押すような感覚で押してしまう。今回の事件は基本的にそういう性格のものではないかと感じている。

しかし、現今の教育の方針を是と考え、そこに何ら疑問符を持たない教員の集団の中では、今回のこの長女の心のありようは全く見えていないだろうし、その路線でしか長女の育ちや勉強を見ていなかったとしたらその家族にもまた同様に全く彼女の心の様子は見えていなかっただろうとも思う。もし、そういう彼女に気付いている人間がいるとしたらそれは、彼女が心を打ち明けられる親友か、心の相談などを持ちかけられた人間ではなかったかと思う。あるいは、現今の学校の路線や教育の価値観から自由に物を見られる立場にいる人間なら分かったかもしれない。でも、事件前に彼女からそういう告白を受けた人間は誰もいなかったようだ。

ここに今、学校に行けなくなったある特別な事情の子がいる。その子の場合、学校に行けなくなった原因の大部分は大人の世界の崩壊にあると言っていいだろう。彼は今、自分がまともであろうとして、それが適わないが故にもがき、苦しんでいる。で、その結果、彼の家は壁が破られ、柱は鉄骨がむき出す廃墟のような様になった。彼は今、惑乱の真っ只中にいる。その状態では自も他も何も正確に見えて来ない。何も論理的に捉えられない。そこで彼に、まずは自分を取り戻し、立て直すための自らの課題として取り組んでもらっていることがある。

それは「家族って何か?」ということ。書き手は、口で喋るのは流暢だが、言葉として書くのはとても苦手な中学の男子生徒である。この作業を通さないことには彼は自分の足で立ち、自分の足で歩き、自分の足で考えることは出来ない。それは別の側面からすれば彼が子どもから大人へと脱皮を遂げるための避けて通ることの出来ない通過儀礼だと私は思っている。今、惑乱状態にあるとはいえ、現代の子どもである。小型のパソコンを貸し出し、それで夏休み中に入力してもらう。

そうすることで、彼は少しずつ自分の言葉を獲得し、その言葉で自分の心や思いを明確な形にし、自分の心を自分で客体として考察することが出来るようになる。おそらくそういう行為を通して(これだけではない)、彼は自らの生きる方向を獲得していくことだろう。これは書くという行為の優れた効用の一つである。

このケースは、川口の父親刺殺事件の長女の場合とは全く交わらない別のケースのように見えるかも知れない。ある意味、現象だけを見るならば、ベクトルが全く逆の方向を向いている事件のようにも見える。しかし、私はこの両者から共通の問題点が見えてくるように思う。それは、以前私は『バカをつくる学校』というアメリカのニューヨークの教師の著作を紹介したことがあったが、その共通のものとは、“このようなバカを作り出すようになった日本の教育システム”ということである。

問題を抱えた多くの子どもたちは、彼ら自身のせいで問題となる例は多くはない。一見、子どものせいのように見えて、価値の崩壊した大人たちの世界が透けて見える。いや、透けて見えるどころか、その子どもたちはその激流に否応なく押し流されてしまった子どもたちでもある。だが、大人たちの変化を待つことは百年河清を待つに等しい。子どもたちは日々成長の途上にある。一日として待つことは出来ない。

ならばどうするか。応急の措置ということも含めて、まずは子どもを保護しなければならない。事件が起きるとこの頃はよくPTSDが口にされるが、大人の社会の中で生きる子どもたちはいつもPTSDの危険に晒されていると言っていい。そして、長期的にはともすればPTSDになりかねない環境の中においても自分を保持し続ける術を身に付けるために、少しずつ強さを付与していかなければならない。もし、それに失敗した時には、いわゆる引きこもりのようになって、なかなか社会参加が難しくなるということも想定しなければならなくなる。

このことについては、また別の項で論じたい。