「成績知られる前に家族殺し自殺しようと」父刺殺の中3少女(読売新聞) - goo ニュース
「やっぱり」というか「とうとう」というか、“この事件はこういうところに落ち着いてしまうのかなあ”という気がする。私なりにこの事件に注目してきたので、「大人たちは自分たちの常識で理解可能な範疇で処理したいのだ」「そういう形で安心したいのだ」と思わざるをえない。
長女は「人の顔色を見ながら、人に嫌われないように生きていくのに疲れた」とか「成績が下がったことが親に知られるのが嫌だった」とか、彼女が学校の成績や人間関係の悩みでストレス抱えていたことが強調されている。そのストレスの爆発が今回の事件となったと周りの大人は言いたいのだろうか。でも、それが家族全員を皆殺しにしたいという行動に結びつくだろうか?この間には常識的な理解では超えがたい大きな飛躍がある。
問題は、現に父親を刺殺した中3の長女という人間がいるということ、そして可能であれば母や弟も含めて(自分も含むのか?)家族全員を殺したかったという願望を持っていたということである。その動機が「学校の成績」とりわけ「学校の成績の下落という事実」であるということである。
もしかすると、この子の論理の中では何の矛盾も飛躍もないのかもしれない。しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理展開をそのまま常人の論理として受け入れるわけにはいかない。では、彼女は常人ではないのか?どうもそうとも言えない。では、何が問題なのか。それは、私流に言うならば、「彼女のような常人を実は我々の社会は当たり前の普通の人間として育てて来ている」ということである。言い換えれば、今回の事件はたまたま事件という形をとって報道されることになったが、彼女のような人間は当たり前にどこにでもいるということである。
だから、今回の事件を私流にまとめるならば、「普通の人間が引き起こした異常な犯罪」ということになる。
よく“宮崎勤の事件以来、事件の質が変わった”と言われるが、今の時代、狂気と正気は紙一重なのかもしれない。そういう危うい時代に我々は生きている。では、「あれはおかしい!」と誰が判断するのか。
ボーダーとは何か。ボーダーレスとは何か。ここからはいろんな問いが生まれそうである。
※この項はさらに考察してみたい。