教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

川口中3女子父親刺殺事件から…狂気と正気の間で

2008年08月08日 | 教育全般

「成績知られる前に家族殺し自殺しようと」父刺殺の中3少女(読売新聞) - goo ニュース

「やっぱり」というか「とうとう」というか、“この事件はこういうところに落ち着いてしまうのかなあ”という気がする。私なりにこの事件に注目してきたので、「大人たちは自分たちの常識で理解可能な範疇で処理したいのだ」「そういう形で安心したいのだ」と思わざるをえない。

長女は「人の顔色を見ながら、人に嫌われないように生きていくのに疲れた」とか「成績が下がったことが親に知られるのが嫌だった」とか、彼女が学校の成績や人間関係の悩みでストレス抱えていたことが強調されている。そのストレスの爆発が今回の事件となったと周りの大人は言いたいのだろうか。でも、それが家族全員を皆殺しにしたいという行動に結びつくだろうか?この間には常識的な理解では超えがたい大きな飛躍がある

問題は、現に父親を刺殺した中3の長女という人間がいるということ、そして可能であれば母や弟も含めて(自分も含むのか?)家族全員を殺したかったという願望を持っていたということである。その動機が「学校の成績」とりわけ「学校の成績の下落という事実」であるということである。

もしかすると、この子の論理の中では何の矛盾も飛躍もないのかもしれない。しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理展開をそのまま常人の論理として受け入れるわけにはいかない。では、彼女は常人ではないのか?どうもそうとも言えない。では、何が問題なのか。それは、私流に言うならば、「彼女のような常人を実は我々の社会は当たり前の普通の人間として育てて来ている」ということである。言い換えれば、今回の事件はたまたま事件という形をとって報道されることになったが、彼女のような人間は当たり前にどこにでもいるということである。

だから、今回の事件を私流にまとめるならば、「普通の人間が引き起こした異常な犯罪」ということになる。

よく“宮崎勤の事件以来、事件の質が変わった”と言われるが、今の時代、狂気と正気は紙一重なのかもしれない。そういう危うい時代に我々は生きている。では、「あれはおかしい!」と誰が判断するのか

ボーダーとは何か。ボーダーレスとは何か。ここからはいろんな問いが生まれそうである。

※この項はさらに考察してみたい。


高2の男子生徒の自殺から…何という命の軽さ!

2008年08月08日 | 教育全般

高2男子が自殺、携帯掲示板の中傷で教師に事情聞かれた後(読売新聞) - goo ニュース

北海道の高2の男子生徒が携帯電話の掲示板に他の生徒の中傷を書き込んだことについて、同校の教師たちから指導を受けた後、自宅で自殺を図り、死亡した。ノートには「おまえの罪は重い。死ね」と言われたとあったとか。

さて、とても困ったことになったものだ。学校から自宅に「停学処分」の電話をしたそうだが、「『死ね』と言った事実はない」と校長は弁明している。

まあ、「はい、言いました」とは口が裂けても言わないだろうが、実際には厳しく叱責する過程でそのような言葉に類するものがあったとしても別におかしくはない。しかし、そういうことを差し引いて考えても、おそらく学校側の言うことには、今回あまり矛盾はないように見える。問題はそう言って自殺してしまった当の高校生の側にある。

もし教師に問われることがあったとすれば、そういう高校生の心理状態をあまり考えずに(なぜ彼は携帯で他人を中傷するような真似をしたのか?)、一方的に非難してその高校生を逃げ場のないところまで追いつめてしまったことではないか。軽々しく「殺す、死ね」という言葉を遣う高校生である。彼の行為への厳しい叱責(たぶん他の高校生にはさほど厳しくは感じない程度であったかもしれない)を彼は「死ね」という意味と受け取ったかも知れない。

さらに問題があったとすれば、「停学処分」はまず口頭で伝え、本人の様子を見るべきであったということ。やはり学校の教師から咎められて、処分を電話で伝えられた後に自殺してしまったという似たようなケースがある。電話での通知はこれで人間的な繋がりが途切れてしまったように当人には思われるのだ。

その意味でー結果論ではあるが、教師たちはその高校生の心のありように対する想像力と配慮に欠け欠けていたと言われても仕方がない。たとえ厳しく断罪すべき事柄であったとしても、口頭での触れ合いをないがしろにし、非人情的な形で一方的に電話で伝達した場合、どういう事態が想定されるか、たとえカウンセリングのプロではなくても、教育のプロなら当然考えていてしかるべきである。

何が正しく何がいけないか、成長期の子どもたちに大人や教師の責任において厳しい叱責も時には必要である。しかし、叱るだけなら誰でもできる。相手はまだ年端の行かない高校生の子どもである。厳しい叱責の後には彼のどうしようもなく悶える心を受け止め、フォローすることは絶対に欠かすことは出来ない。それが出来なければ子どもの専門家とは言えない。

それにしても、その高校生男子の何という命の軽さだろう。それはある意味我々の想像を超えている。ここで敢えて「今時の高校生は…」と一般化はしないが、そのように言い切ってしまいたい誘惑に駆られる事件である。自分を殺すにせよ、相手を殺すにせよ、「今時の子どもたち」の命に対する感覚の軽さは驚くべきものがあると言わざるを得ない。

これはまた、項を改めて考えたい事柄である。