ついこの間「小1プロブレム」が問題になったと思ったら、今度は「中1ギャップ」だという。中1ギャップというのは、要するに、小学校から中学校に進んだときに、学級王国から教科担任制への変化、学習量の大幅増加、部活動等の人間関係など、学校の生活空間が大きく変化することから来るストレス、具体的には、いじめや不登校が急増することをいうようだ。
ちなみに、文部科学省によると、2007年度に30日以上学校を休んだ不登校の小中学生は、約12万2000人、小学生が約2万2700人、中学生は約9万9500人だという。実質的な不登校生はもっといるはずだ。ちなみにその対策として導入したスクールカウンセラーを配置するための経費は47億円もの税金を当てている。だが、その成果というものはほとんど聞かれない。
確かに、中1ギャップは大きな問題だ。でも、それは舞台が小学校から中学校に移ったというだけで、「小1プロブレム」と本質的なものは何も変わらないのではないか、とも思う。これが高校になれば「高1ドロップアウト」とでも呼ぶべきものになるだけのことだ。特徴的なのは、全ては学校生活空間の切れ目で起きているということ。これをどう考えるか…。
原因は一様ではなく、個々に即した丁寧な指導が必要だ、というのが一般的な考え方のようだが、教育関係者がどうもはっきりした原因は掴んでいるようには見えない。きっと教師達は、幼稚園や保育園では自分達の教育や保育が一番だと考え、小学校では小学校でやっている教育方法が一番だと考え、中学校では中学校で自分達のやり方が一番だと考えているのだろう。これは高校の場合も同様だろう。
彼らは、この問題は教育者の側の問題でも教育システムの問題でもない、問題はそれに適応できない子ども達の側にあるのだとでも思っているふしがある。しかし、そこには彼ら特有の独善が潜んでいるように思えてならない。そこで、そういう教員の誰でもが納得できる一番の切り札として、幼保と小学校、小学校と中学校、中学校と高等学校との連携を密にしよう、ならば、幼小一貫教育、小中一貫教育、中高一貫教育というやり方がいいのではないかというわけだ。
横浜や大阪をはじめ、この連携を強める方向に雪崩を打って進むことになるらしい。でも、原因がはっきりしないのに、対策だけは立派に立てるというのはいかがなものか。何か泥縄式の典型のようにも見える。「誰も責任を取らないシステム」の問題がここ教育の世界にもある。何かまた壮大な無駄をしようとしているように見えなくもない。
小中一貫の方法として、たとえば4・3・2とか、3・4・2とか、5・4方式とかがあり、全ては6・3・3制の枠組みは壊さない範囲での試みになるようだ。それを見ると、現今の教育システムに対する若干の問題意識はあり、まあ、全く効果はないということにはならないかも知れないが、どうも抜本的な解決には繋がりそうにもない。
私の見るところ、この問題の遠因は日本の学校教育のシステムそのものにある。つまりは、このようなシステムではどの段階においても、システムと施設と指導者がまず先にあり、子ども達はそこに適合することをのみ求められる。子どもの教育ではまず先に教育を受ける主体としての子どもがあってしかるべきだと思うが、残念ながら教育行政を取り仕切る側の人間にそういう発想はまずない。調べていけば分かると思うが、上の学校に進学して不適応を起こす子どもの大部分は、実は今いる空気に最も適応していた子ども達、いわゆる学校の指導に最も素直で真面目に反応し、最も良い子を演じてきた子ども達であったということだ。その結果として、上の学校に進んだときに、そこに支配する異質な空気に自分を適応させることが出来ずに、真っ先に不適応を起こしてしまったのだ。
繰り返しになるかもしれないが、小中一貫とか小中連携とか、このような手段に出なくてはならなくなったことの背景には、子ども達の生活、彼らの心や体の成長の現実と文部科学省が一手に握る日本の教育システムとが合わなくなってきたということがあることはまず間違いない。広く言えば、13万人にも及ぶ(実態はもっと多いはず)不登校の子ども達の出現はそういう教育システムに対する子ども達の体を張っての異議申し立てでもあるのだ。
この日本の教育システムの引き起こす最終的な形態として、私は「社会的引きこもり」の現象を見ている。別の見方をするならば、彼らほど日本の教育が要求するものを忠実に演じてきた連中はいない。確かに、見方によってはとても不器用な連中ではある。学校教育の要請をもっとクールに、適度な距離をもって、程ほどに受け流してきたならば、そういう桎梏に絡め取られることもなかったであろうに。しかし、日本の学校教育は(例えそれが建前であろうと)逆にそういう生きる知恵とも言える能力を悪のように見なしてもきた。そういう意味でも彼らはまさに日本の教育システムの矛盾から生まれた犠牲者達なのである。
何故、そう言えるのか?それは、自分でフリースクールをやっていて感じたことだが、フリースクールにやって来る子ども達というのは、そういうプロブレムやギャップを身をもって体験し、ドロップアウトした者達が殆どだからである。教育行政や学校の教師はそういう生徒がいなくなったところから始めるらしいが、私達フリースクールの人間はそういう生徒達がやってきたところから始めるのである。だから、彼らの生態が良く見える。彼らは私達のところに救いを求めてやってきて、癒され、再び元気になって、また飛び立っていくのである。彼らにとって何が問題か、どうすればいいか、もう10年も15年もやってきたことだ。だが、教育行政は訳の分からない対策に経費は惜しみなく注ぐけれども、我々の意見には殆ど耳を貸そうとはしない。何かがおかしくはないか?