教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

親は子どものパシリ(執事)やメイドになるな(2)…北海道旅行から考えたこと(補遺2)

2009年08月20日 | 「大人のフリースクール」公開講座

親は子どものパシリ(執事)やメイドになるな(2)…北海道旅行から考えたこと(補遺2)

 ▼学校から「来るな!」と言われた子
 ここに、まだ中学生という義務教育段階の子ではあるが、学校からははっきり「来るな!」と言われてしまった子がいる。だから、もう学校に居場所はない。ただ学籍があるだけで、学校とは完全に切れてしまっている。卵が先か鶏が先か、両者に言い分はあろうが、中学生が公立学校から一方的に登校を拒否されるというのは尋常ではない。当然、教育権や学習権の観点からも問題がある。
 中学生としては奇天烈な服装をし、髪を金髪に染め、幾つものピアスをし、腰パン姿で街を歩き回り、昼間は寝て過ごして夜には街中を徘徊し、同じような仲間と愉快に過ごし、左腕には常時包帯が巻いてある、という出で立ちである。どこでどう間違ってしまったのか定かでないが、こういうツッパリの子は本質的にはナイーブで弱い子なのだ。自分ひとりで自分を支えられない子がほとんどだ。中学生には似つかわしくないそんな服装は、そういうひ弱な自分の内面をひた隠す仮面に過ぎない。ガングロ(顔黒)のメイクの場合と同じである。激しく露出することで本当の自分を隠すのである。
 左手首の包帯もリストカットの痕隠しであったり、馬鹿な根性焼きであったり、○○命であったりするが、同様の心情である。昼寝ているのは昼間に付き合う友達がいないからであり、夜出かけるのはそこなら自分と同じような境遇の仲間がおり、自分の話を受け止めてくれるからである。

▼誰が自分を分かってくれるか
 そんな悩みや相談があるなら、専門のカウンセラーのところに行けばいいではないか、と教師や一般の大人は思うかもしれない。が、子どもはそういうところに連れて行かれても、1時間~1時間半の間、大抵の場合、カウンセラーの心証を壊さないように良き相談者を演じるだけである。学校では大部分の子ども達が良き生徒を演じるように。カウンセラーが幾らにこやかに受容と共感の“技法”を持って迫ろうと、「ちょっとこれから火をつけてこようと思うんです」とか「みんなで○○をぶちのめして来ようと思うんです」などと言おうものなら、カウンセラーはたちどころにその仮面を脱ぎ捨て、通報するような態度に出るだろうことを本能的に知っている。第一、そこには専門的に考え抜かれた周到な技法はあるかもしれないが、発する言葉やその感覚が自分とはまるで違うのである
 それに比して、夜の世界の仲間は自分の言葉にじっくり耳を傾けてくれ、実感で自分を受け止めてくれる。ここにいる仲間は自分と同じ言葉を話し自分と同じ空気を吸っている!自分のことを本当に分かってくれるのはここだけだ!本物のカウンセラーがここにいる!そんな気持ちにさえなる。他愛ない夜の世界のお喋りには、そんな媚薬のような魔力があるのだ

▼子ども達を飲み込む闇の世界の陥穽
 だが、子どもはそれが自分を掴まえる大きな陥穽かも知れないとは考えない。その子の周りにいるのはほとんど犯罪の予備軍なのだ。タバコ、酒、無意味な馬鹿騒ぎ…、今問題になっている薬の世界までほんの少しである。いざとなれば、そこに屯している連中にとって子どもに有無を言わさずに従わせることなど赤子の手をひねるようなものだろう。
 そしてさらに、インターネットや携帯サイトの世界が不気味な口をあけている。学校裏サイトが問題になっているが、プロフ(自己紹介サイト)などには平気で自分の写真や連絡先、学校の仲間や交友関係まで詳細に載せていることが多い。無防備である。まるで警戒心がない。単純極まりない。が、ここまで来ると、もはや自分やその取り巻きの仲間の問題にとどまらなくなる。たとえば、出会い系サイト等で見知らぬ人と出会いどんな事件に巻き込まれてもおかしくない。糸の切れた凧はただ風に飛ばされるままである

▼変身のための猶予期間
 私たちのフリースクールはどんなところか、インターネットの紹介サイトやその記事、紹介本などを見れば大体の察しがつく。だから、大抵の場合はそれに相応しいタイプの不登校生たちがやってくる。だが、たまにそうではないタイプの子が来ることがある。
 確かに、趣旨の違いはあっても一応どんな子どもでも居場所となるのがフリースクールという場所である。それでも、場合によっては受け入れ条件を設けることがある。たとえば「○○までにうちのスクールの趣旨に合うようにしようね」というように、変身のための猶予期間を設けたりすることもある。普通は1ヶ月~3ヶ月という期間である。

▼夜の世界にのめり込む子ども
 実際にそうして引き受けたK子の場合、それまで全く手付かずであった教科学習やスポーツ等の身体活動にも熱心に取り組み始めた。相変わらず保守的な見方をする人からは奇異に映る外見の問題はあり、他の生徒(普段着の通学を勧めているが、全体的に派手ではない)との違いは際立っていたが、その姿勢は周りからはそれなりに好意的に受け止められていた。そして、母親からもぱいでぃあに入ってから本人の行動に大きな変化が見られ、夜の仲間との付き合いも止め外泊もなくなったとのことであった。
 しかし、3ヵ月後のぱいでぃあの旅行は一般の社会人と共にする旅行であり、それまでには普通の社会人の一員としての身なりに戻すように求めていた。ところが、旅行の日程が近付いて具体的な話を詰めていく中で、実はその子の生活態度は何ら変化しておらず、両親が私達に偽りの報告をしていたことが分かったのである。しかもそれだけなく、逆に自信を回復した彼女は臆することなく夜の仲間と付き合う傾向を強め、プロフでのカミングアウト(自己表出)も放置しておけない段階にまで及んでいたことが分かったのである。
 子どもが元気になるのは喜ばしいことだが、そういう世界に入って行かせるのはぱいでぃあの本意ではない。単に子どもの言い分に任せるのではなく、社会人としてのコモンセンス(社会感覚)を体得することを重視しているところは、もしかすると他のフリースクールとは違うかもしれない。

▼「子どもがそう言っているから」
 ところが、その話し合いの中で、両親のとった姿勢は最終的に「子どもがそう言っているから」と言うものであった。こちら側で問題にしたのは単に社会人と一緒の旅行だけのことではない。中学生の段階での茶髪やピアス等の問題を不問に付すということは、フリースクールの中ではある一定の条件で可能ではあっても、やはり他では通用しない
 確かに、たとえばビートルズが日本にやって来た当時は、その音楽やファッションは大人たちから不良扱いされた(この夏、改めて「ジョン・レノンミュージアム」を訪れた)が、今はその音楽も歌詞も風俗も半ば古典的な扱いを受け、学校で使用する英語の教科書の中にも登場するようになっている。そういうような社会の変化は今後も確かにあるだろう。だから、今学校から追放されるようなファッション等がいつどういう扱いを受けるか分からないところがある。だから、「そんなに頑なにならなくても…」という意見もあるだろう。

▼現実認識と子の声の尊重
 しかし、子ども達は今を生きており、今社会の現実はどうであるかを親子共々しっかり認識していなければならない。もしそういう覚悟の上での決断であれば、それはその人の決断として尊重しなければならない。そして、その結果もまた受け入れなければならない。悪法も法なのである。現在の社会のルールもまた然りである。
 そういう現実を踏まえて、「このままではお子さんはみすみす選択肢の乏しい袋小路の生き方を強いられることになりますが、親としてそれでもいいのですか」と何度か念を押した。しかし、最終的な答えは「子どもがそう望んでいるから」というものであった。

▼親の責任とファミリー・ルール
 これは見方によってはやはり養育権(監護権)の放棄とでも言うべきものだろうか。欧米であれば各家庭にはファミリー・ルールというものがあり(日本にも少し前までは「家訓」というものがあった)、門限や社会の約束事を守ることなどを子どもにきっちりと遵守させる。このように親は未成年の子どもに対して絶対的な権限と責任を持っている。だから、「子どもがそう望んでいるから」などという応えはまずないだろう。「何寝言を言ってるんだ。あんたはあの子の親だろう」の類だろう。
 しかし、日本では恣意的な形での親の権限が極めて強い。だから、私たちとしては子どもの気持ちは子どもの気持ちとして受け止めるが、親御さんの口からはそういう形で我が子を社会の荒波に放り出した場合(まずあり得ない想定だけれども)のその責任とリスクの大きさ等について率直な意見を交換したいと思った。けれども、ついにそれは叶わなかった。「子どもがそう望んでいるから」…親御さんの口からはただその言葉がくり返されるだけであった。

▼子ども達とフリースクールの現状
 私たちは学校から離れて不登校となったどんな子どもでも引き受けたいと思う。心の弱い子ほど道を外すのである。支えが必要なのである。しかし、現実には、行政からの教育支援が一切ない中で、思いある人々の手弁当でかろうじて成り立っているフリースクールという民間の組織においては、自分を責め自分を苦しめてしまうナイーブ系の不登校生達と、援助交際(売春)や親父狩り(恐喝)などの非行に走る子や暴走族など夜の世界の仲間とつるんでしまう子ども達を同じ空間に置くわけには行かない。また、他人を排除し唯我独尊で自分さえよければの我利我利亡者とか、自分の周りはみんな敵というような思いでいっぱいのこのままでは将来犯罪者になりかねないような子とかをそのままの状態で「いいよいいよ」と引き受けるわけにはいかない。(そういう子たちにはそういう子たちに合った別の居場所が必要なのだと痛切に思う)

▼生まれながらに悪に染まった子はいない
 フリースクールでの不登校ってあるんですか?」とは時折訊かれる問いである。最近では、韓国から日本のフリースクール活動の研究に来た子ども達にも訊かれた。残念ながら答えは「イエス」である。どの子であれ生まれながらに悪意を持ってこの世に生まれてくる子はおらず、人の世に生まれ育つ中で、育ちの環境の中で染まってしまという現実がある。大人たちの壊れた羅針盤や狂った羅針盤が子ども達にそういう状況をもたらしているのは確かだ。子どもたちの姿はこの社会を正確に映し出す鏡なのだ。だが、それはもう一介のフリースクールが扱える領域を超えている

▼旅行に行けた子ども達
 だから、振り出しに戻るが、今回の旅行は望む人がみな参加できたわけではない。特に小学生の子ども達は今回、お留守番の役をお願いすることになった。一般の社会人と寝食を共にして大丈夫かどうか、ここでいつも悩まされる。本人が幾ら望んでもダメなものはダメだし、必要な子には多少臆していても敢えて挑戦させることもある。旅行は子ども達が普段の生活を離れ大きく飛躍できるチャンスの時なのだ。
 正の世界があれば負の世界もある。実数の世界もあれば虚数の世界もある。同じく、日常の世界の裏面には非日常の世界がある。そういうことを知る意味はとても大きい。これはいつものことでもある。しかし、そのためには、子ども達がそれぞれ抽象思考の翼を持っていなければならない。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 トラコミュ 不登校とフリースクールへ
不登校とフリースクール