教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

同質性を求める学校と個性を尊重するフリースクール

2009年11月02日 | 教育全般
同質性を求める学校と個性を尊重するフリースクール

▼同質性を求める学校という空間
日本の学校という空間は一般に、一斉授業形式が象徴するように、生徒に同質性を求める場所である。今は形式的には追放されているが、元々は偏差値的価値観が大手を振るっていた場所である。これは個性尊重の空気が社会に広がりつつある今も、学校では本質的に変わっていない。成績の評価に絶対評価の物差しを導入したというが、実際は相対評価の変形であるに過ぎない。

▼観点別評価の主観性・恣意性
たとえば、学校での「観点別評価」について、学習指導要領の視点からは次のように述べられている。「実習を評価するときには、実習の成果だけでなく実習の過程における生徒の努力も評価することが大切である。」(学習指導要領解説 情報編)。さらにこういう但し書きもある(別紙第3)。《評定にあたっては、ペーパーテスト等による知識や技能のみの評価など一部の観点に偏した評定が行われることのないように、「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現」、「知識・理解」の4観点による評価を十分踏まえながら評定を行っていくとともに、5段階の各段階の評定が個々の教師の主観に流れて客観性や信頼性を欠くことのないよう学校として留意する。その際、別添3に各教科の評価の観点及びその趣旨を示しているので、この観点を十分踏まえながらそれぞれの科目のねらいや特性を勘案して具体的な評価規準を設定するなど評価の在り方の工夫・改善を図ることが望まれる。》

▼学校は教師が主役で生徒の評価権を握る
ここからも察せられるが、学校という場は、一見個性を尊重するような姿勢を見せながら、最終的にはそれを発揮する行為を認めない場である。それが上記の「観点別評価」に基づくところの悪名高い「内申書」の評価に繋がっている。では、100歩譲って、それが正確で客観的な評価になっているだろうと認めたいとしても、なんのなんの上記の表現にもあるように、「評定が個々の教師の主観に流れて客観性や信頼性を欠くこと」が十分にあり得るし、実際にそう運用されているシステムなのだ。「生徒にとって都合悪いことは書かない」というのは言い訳に過ぎない。第一、言うまでもなく、公文書に恣意的なことを書いていい筈がない。こうして、学校は教師が主役であり、場合によっては生徒をいか様にも料理できる生殺与奪の権を握っている場なのだ。

▼「いい子」は学校教育でつくられる
だから、生徒やその保護者は学校で「よい子」を演じることに汲々としている。こういう空間では、教師に好感を持たれる振る舞いを出来る者がよい評価を得る。そのためには、本来の自分を殺さねばならないことも出てくるのだ。今問題なのは、昔からいるどう見ても不良であるいわゆる「悪い子」ではなく、学校でもどこでもいい印象を与えるように振舞おうとするいわゆる「いい子」なのだ。「いい子」であろうとして、結果的に自分づくりにお留守になる。そして、ある時暴発する!今、そういう子どもが増えている。学校で教師からいい子の評価を得ようとする行為がそういうことに行き着く。こうして問題児になる「いい子」は学校で作られるのだ。
(私たちのNPO法人の理事を務める佐々木光郎氏(現静岡英和学院大学教授)が『いい子の非行』というタイトルの本を出版されたのも、そういう学校教育の下で生まれた子どもたちが対象である。佐々木氏は長年家庭裁判所調査官として家庭問題や子どもの非行の問題に関わってこられた方)
そもそも成長段階の途上にある義務教育下の子どもたちに「いい子」か否かの評価を下すことが必要なのだろうか。

▼習熟度別クラス編成は教師のため
それだけではない。学校は生徒のためではなく、教師にとって都合のいいことを次々と決め事とし、成文化したり不文律かしたりする。どう処理するかは教師のさじ加減一つである。たとえば、「習熟度別クラス編成」。もしかするとこの方式は子弟を進学塾に通わせている教師が思いついた発想かも知れないが(独創的な発想を教師が思いつき実行するとは思えない)、これは有名進学校受験を目的とする進学塾で教師が最も効率的に生徒を指導しやすいシステムなのだ。

▼習熟度別指導は教育に有害
若い時に受験進学塾で御三家目標の進学指導をした経験からもよく分かっているが、これは上位クラスには入れないいわゆる「できない子」にとっては最悪のシステムなのである。出来が悪かった生徒は必然的に上から落ちてくる(そうならないために生徒は頑張る)が、そもそも出来ない生徒が頭が良くなって上に行くというシステムではない。下位の生徒は上位の生徒の勉強をしていないのだから。それでも上に上がることがあるのは、成績によって循環させなければならないシステムであり、上位クラスに空きが出来たからに過ぎない。(習熟度別クラス指導が学校教育の場では有害であり破綻しているのは、フィンランドメソッドなどと比較してみれば良くわかる)習熟度別指導を叫ぶ教師は学校を収容所のような施設と考えており、官吏ではあっても教育者ではない。

▼個性のある子が尊重される教育を
このように、学校では現場を統括する教師が主役を演じ、指導しやすいシステムが組まれている。だが、それは決して生徒のためではない。まして生徒の個性を尊重するためでは決してない。生徒の個性は学校教育の場ではむしろ疎んじられる悪であり、決められた枠を超えて発露すべきものとは看做されていないのである。だから、そういう個性のある子には学校という場はとても住みにくい。息苦しい。そして、場合によっては、「何らかのきっかけ」で学校に行けなくなってしまう。「何らかのきっかけ」と言ったが、それは往々にして同質性を良しとする教師やそれに従うことを良しとする生徒によってもたらされる。

▼学校は体裁・面子で登校刺激をする
生徒が不登校となったりフリースクールに行くとなったりすると、学校側は慌てて登校刺激を活発にし(そうなるまでは放って置いたのに)、あたかもその生徒を大事に思っているような素振りを見せるが、それは不登校の存在を認めたくないという学校の都合や面子のためであって、その生徒自身を思ってのことではない。学校というところは、何かの事件でも起きない限り「何もないいい学校」「いい生徒」ということになる。そして、生徒が学校に来ないのは、その生徒に問題があるからということになる。それが今の学校の現状である。しかし、それを問題と考えるか発達課題と考えるか、その差はとても大きい。今の教師に子どもの個性を尊重する教育を期待する方がどだい無理なのかもしれない

▼「コンクリートから人へ」の教育の実現を
政権交代によって民主党政権が誕生したが、この図式がはたして民主党の「コンクリートから人へ」の政策転換によって変わるのだろうか。
私たちフリースクールの親たちは、今月、教委に「不登校生の親たちの声」を届けに行く。

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