※これも教育と無関係ではない…ですね。
▼「原発はいらない」─この気持ちはますます強くなる。今回の原発事故…これも日本の成長神話の成れの果てではないかと思っている。日本が明治新政府になって欧米の列強諸国に対抗し、日清日露の戦争に勝ち、第二次世界大戦の敗北の中から驚異的な立ち直りを成し遂げ、目覚しい経済的科学的成長を達成して今日に至っている。だが、そういう日本が一方では絶えず批判もされてきた。その成長の課程で日本という国はとてつもなく大事なものを失ってきたのだと。今日の精神的な荒廃はその結果であると。
▼しかし、そういう声は批判の論調として一定の支持を得ることはあっても、主流となることは決してなかった。現在、「失われた20年」などと言われ、政治経済とも低迷を続けていながらも、破綻することはなくそれなりの高原状態を維持してきたからである。そこに降って湧いたのが今回の大地震に続く福島第一原発の大惨事であった。「想定外の大事故」と専門家や原子力関係者は言うが、それを危ぶむ声は絶えずあったのである。が、政・官・財・学の利権と専門家の科学信仰に基づく傲慢と自惚れが、そういう声に耳を傾けようというセンサーを持たなかったのだ。
▼原発を推進するために政・官・財・学の連中は地元の住民にあらゆることをやった。その一端の事情が「女性セブン」2011年4月28日号の記事(「NEWSポストセブン」のネットの記事から)に載るようだ。今や日本の発電量の3分の1近くを占める原発。原発が建設される市町村には、電源三法に基づく巨額の交付金が交付される。原発一基でも35年間で1200億円にのぼる。地元の人達はその原発のおかげで立派になった言う。「おれたちのほとんどが原発に食べさせてもらってる」と語る。しかし、何もかにも打ち砕いたのもまた原発である。「それでもまさかこんなことになるとは…」これが率直な気持ちであろう。結局、その人達は利権に丸め込まれ、利用され、翻弄されてきたのである。
▼利権のために悪魔と取引をし、悪魔に魂を売り渡すという喩え話がある。人々の安全よりも原子力の利権を取った人たちはそういう類の人たちとは言えまいか。そして、己が食うために原発に「イエス」と言った人たちは、図らずも食のために主人に忠実を誓う番犬や餌付けされた家畜のように扱われてきたのである。以前、原発で働いていた人が地方でボロ雑巾のように蝕まれて死んでいった話をきいた。今回の原発の作業でも計数機を着けずに作業したり、その作業がどれほど危険なものか十分知らされずに作業しているものがいたように、安全教育が徹底していないと言うよりは、人間扱いされなかったことも多々あったようである。
▼都内に住むある東北出身の人が、都会の照明も繁栄もみな東北の人たちが寄与したものである、それなのにこういう事態になってもなぜ東北人は怒らないのか!!と憤っていた記事に触れた。こんな悲惨な状態になっても黙々と耐え忍ぶ姿は畏敬の念を超えて悲惨の極みである。人の尊厳がかくも踏み躙られ、それでもなお微笑を浮かべ「頑張ってるよ」と言う必要があるのだろうか。我々は釈迦でもキリストでもない。人としてのこの理不尽さに絶え切れない怒りの声をぜひ響かせて欲しいと切に思う。
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