ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

胃潰瘍3週間 そろそろ・・・

2012-03-09 14:35:47 | 日々の出来事
こんなに何をしなくてはいけないということのない毎日をすごしたのは何年ぶりだったかしら、と思います。

長野に戻って最初の1週間は痛みの中にあったわけですが、ちょうど復活前の回心の時、子供の頃はは何かを犠牲にする期間として記憶にある四旬節に入りました。灰の水曜日、太齋(一日に一食と軽い食事)と小斎(肉を食べない)を守る日ではありましたが食事も満足にしていない時期でしたし、ミサに与りに行くのもちょっと無理な時でした。こういう四旬節の始まりは祈りに始まっていいかも、なんて思っていました。

今回は痛みを伴ったのでこんなに休めたけれど痛みがなかったら、キットなんか変だなぁと思いつつ動いていたと思います。痛みが遠のいたころとこの数ヶ月抱えていた難問に結論を出した頃が重なりました。この難問ははじめは青天の霹靂でしたが、数ヶ月今までのこと、これからの老い支度についても考えるいいきっかけを頂いたと思っています。

  ― 老い支度は本当を言えば待ったなしです。一日一日老いていくのですが、支度をする余裕をもっているような気になっていますが、実はそれぞれに与えられている死はいつ来るか、誰も分かっていないのです。私は嫁して実家から離れて暮らすことになったときに、里帰りして家に戻る時にいつ何があるか分からない(両親にか、私にかどちらにしても)、だからこれが最後になるかもしれないと思いながら挨拶していました。死はいつか分からないという気持ちはそんな時も、友人とさようならを言う時も、いつも今もあります。 数年前月に一回のお稽古先で、元気に翌月会えると思ってお別れの挨拶をしたのに、翌月が来る前に友人が亡くなるということが続いた時がありました。 それまでも死がいつ来るか分からないという真理に向き合っていたつもりでしたが、数年前の何ヶ月かの突然の別れは以来一期一会の思いを込めた挨拶になったような気がします。 今まではそんなものでした。―

話を戻して老い支度、ゴロゴロしながら目に付くところからはじめた片付けは結構気分転換になりました。今までより少し具体的に考えました。住んでいる今のこと、これから先のこと、健康のこと・・・

信仰を持つものの感覚だと、死を迎えることそのものへの恐れはないのですが、人間として最後の始末をきちんとしたいな、という願いはあります。それもまた気に病むほどのことではなくて、死んだ後は自分はもうアタフタしたところでどうにもならないのだから任せるしかないな、と思っているのですが、今できる老い支度のいくつかはしてもいいのかな、とね。

死に至る病ではないのですが、こんなことを考えるほどに体調は回復したということを今は嬉しく思っています。