数百年にわたり人と竜とが格闘し続けた物語。源右衛門祭り開催&吉高の大桜開花間近!
印旛沼
春爛漫の季節を迎えました。各地でお花見や春祭り、寺院での花祭り、教会のイースターなどがたけなわです。そんな中、かつて江戸時代の三大幕政改革(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)全てに関わり、治世者たちを悩ませた全国有数の暴れ沼・印旛沼に関わるお祭りがあります。その名は「源右衛門祭り」。祭りには全国鍋グランプリで優勝し、殿堂入りした直径2メートルの大なべで煮込まれた鍋料理が振舞われます。大鍋料理の由来、そして「源右衛門」とは誰なのでしょう。
- 暴れ竜調伏に立ち上がった最初のドラゴンスレイヤー、その名は染谷源右衛門
沼と言うにはあまりにも大きい
印旛沼。「沼」という名称から、他地域の人たちには小さなため池に毛がはえた程度のものと誤解されがちですが、流域周辺人口は琵琶湖・霞ヶ浦に次ぐ全国三位の規模であり、流域面積は500平方kmに迫る大きな湖です。
たびたび大洪水を起こすことから、暴れ竜に例えられてきました。現在は西沼と北沼とに分断されていますが、その姿も、もともとは竜が体をくねらせた姿そのままでした。この暴れ竜のエネルギー源は、全国一の大河・坂東太郎こと利根川から逆流して流れ込む膨大な水。本来江戸湾に流れ込んでいた利根川を、江戸の町を洪水災害から守るために銚子方面の太平洋に付け替える(利根川東遷)事業は、徳川家康の江戸入府から間もない1594年には開始され、四代家綱の時代の17世紀半ばには完成します。しかしそれによって手の付けられない暴れ沼と化した印旛沼(ちょうど利根川の東遷工事完成の頃、あの日本初の民権運動といわれる佐倉宗吾の直訴事件が発生しており、この直訴も印旛沼洪水が頻発し始めたことと関係しています)の治水は、それ以降の施政者と、何より洪水で苦しめられる周辺住民にとっての悲願となりました。このとき、農民たちの窮乏を見かね、立ち上がったのが下総国平戸村(現在の千葉県八千代市平戸)の名主・染谷源右衛門。時は享保9(1724)年、源右衛門は私財四千両(何と今の貨幣価値換算で50億円余)を投じて、幕府に村普請の目論見書を提出、幕府から六千両を借り受け、「村普請」として平戸村から江戸湾までの約17kmの掘割掘削を開始したのです。暴れ竜に挑む最初の勇者・ドラゴンスレイヤーだったといえます。
しかし、たとえ一万両とはいえ、あまりに巨大な土木工事だったことから資金は底をつき、それでも源右衛門は自身の田畑を売り払い、掘割工事を続行しようとしましたがついに破産。力尽きて倒れました。何と幕府は源右衛門に六千両の貸付の返還を求めたといいます。
時は徳川吉宗による享保の改革の真っ只中。幕府は超緊縮財政を取っている最中のことであり、国の支援をほとんど受けられなかった源右衛門の挑戦は、尊いとはいえ無謀とも言えるものでした。
怪獣出現!人間の支配を拒む暴れ沼
庄内藩が受け持ち、軟弱地盤を深く掘った弁天橋付近の花見川
源右衛門の挑戦から約半世紀後。安永9(1780)年)、老中田沼意次によって、印旛沼開削の大プロジェクトは六万両の資金を投じた国家の威信をかけた幕府直轄事業として開始されました。しかし、計画を練り上げたにもかかわらず、田沼の壮大な計画は頓挫してしまいます。
一つには、時を同じくして浅間山が大噴火したこと。これにより飢饉や災害対策などでの悪影響が出たばかりではなく、火山灰の降灰によって利根川の川床の上昇という事態が。さらに自然は牙を剥きます。天明6(1786)年の7月、江戸時代通じて未曾有の大雨により、利根川一帯が大洪水に。死者は数千人に及んだといわれます。この大洪水で、堤はことごとく決壊、完成しかけた利根川と印旛沼の切り離し工事地区が全壊してしまいます。それでも開削に執念をもって挑んだ田沼でしたが、後ろ盾である将軍家治が死去し、失脚したことで、ついに事業は頓挫します。
ふたたび印旛沼開削が着手されたのは、天保14(1843)年。「天保の改革」を実施した水野忠邦によってでした。
水野の事業は、田沼の事業とはさらに規模も動機も異なるものでした。この時代、異国船が頻々と日本近海に出現、モリソン号事件などのトラブルも発生するようになっていました。アヘン戦争を通じて、東アジアの盟主であった中国(その時代の清)がヨーロッパの軍事力に屈する様を見て、幕府は外国船襲来を強く懸念し、東京湾が外国船により封鎖された際に江戸を防御するための物資の輸送と抜け道の確保のために、江戸湾奥から印旛沼へとさかのぼり、利根川を経由して銚子に抜ける水路を作ろうと考えたのです。このため、大きな船が往来できる水深を確保できるよう、より深い掘削事業を計画しました。
財政難でもあった幕府はこの事業を、駿河沼津藩、山形庄内藩、鳥取藩、上総貝淵藩、福岡秋月藩に命じました。現在の八千代市大和田排水機場から千葉湾までをつなぐ花見川は、現在でも深くえぐれた谷下を川が流れる地形になっていますが、これは「ケトウ土(化灯、化泥)」と呼ばれる腐食植物の堆積地層を、死者を出しながら、延べ数百万人もの人員を動員して掘削した各藩の尽力のたまものです。
しかしこの事業も、先述した軟弱地盤による開削の困難さや、そして突然出現したと公文書に残る「印旛沼怪獣」などにより頓挫してしまいます。印旛沼怪獣は、印旛沼にいくつもあったという佐久知穴という湧水スポットから、突然雷鳴とともに出現したとされる謎のモンスター。
頭ヨリ足迄長サ一丈六尺(約5m)程 頭大サ周り一丈(3m)程 手ノ長サ六尺 爪ノ長サ一尺 目ノ丸サ四斗樽(シトダル/お祝いの席で鏡開きなどをする際の酒樽の大きなもの)、口ノ大サ五尺程 鼻至テヒクシ 面躰猿ノ如シ色黒シ
と報告された一本足の怪物で、佐久知穴近くの岩にしばらく腰をかけていたが、落雷のような大音声を発すると、周囲にいた役人等13名が即死してしまった、といわれます。一説では、印旛沼には一本足の河童の主が棲むともいわれていて、目撃談もあることから、まさにその河童の主が現れたのかもしれません。
江戸期を通じて暴れ竜・印旛沼はあらゆる人智を尽くした調伏を、跳ね返し続けたのです。
名主・源右衛門の偉業を偲び、開発された源右衛門鍋
印旛沼は、明治・大正・昭和期も通じて氾濫し続け、治水工事が完成したのは1969(昭和44)年。「印旛沼開発事業」の完成を待たなくてはなりませんでした。現代の印旛沼は洪水被害は大きく減りましたが、湖面面積は半分以下になり、正に竜の遺骸のように静かに水をたたえています。現代でも沼岸に立つとその広大さに心を打たれますが、大暴れしていた当時の印旛沼を見ておきたかった、と言う気持ちにもなります。
そんな生き生きと(?)していた時代の印旛沼と格闘した多くの人々の中でも、私財を投じて開削の先鞭をつけた染谷源右衛門は地元の人々の尊敬を集める偉人。その業績を後世に語り継ぎ、地元の発展に寄与するために、今から15年前の2004年、それまでの桜祭りを受け継ぐ形で発足したのが「源右衛門祭り」です。
市内中学校の吹奏楽部による演奏などの催しや、掘削された印旛沼捷水路(印旛新川)についての講演などのほか、何と言っても祭りの名物は特注の直径2メートルの大なべ「源右衛門鍋」で煮込んだトン汁。分厚いモチ豚炙りチャーシューを載せたトン汁は、「ニッポン全国鍋グランプリ」で2015年、2017年と優勝し、殿堂入りを果たしました。
多くの人足たちに源右衛門自らが大なべで炊き出しをして食べさせた、という逸話から生まれたこの名物鍋は、約六千人分ものトン汁をまかない、来場者に振舞われます。味も折り紙つきの名物トン汁をいただきに、お出かけしてみてはいかがでしょうか。
印旛沼怪獣が出現したとされる場所近くの岡にたたずむ吉高の大桜
吉高の大桜
約400年前の江戸初期以来、氾濫を繰り返してきた印旛沼をそのほとりの小高い丘から眺め続けてきた樹齢400年とも伝えられる一本の桜の木があります。「吉高の大桜」です。
かつてはその丘の麓まで印旛沼がせまり、あの「印旛沼怪獣」が現れたとされる水域はまさにそこであったといわれます。のどかな村里の風景が続く田園地帯の中に、高さ約11メートル、幹回り約7メートル、25メートル四方に枝を大きく枝を広げて、小山のような姿でたたずんでいます。ヤマザクラの古木なのでソメイヨシノよりも開花期は一週間から十日ほど遅く、まさに開花はこれから。第二次大戦末期、物資不足から切り倒されることになりましたが、あまりに幹が太く、切り倒す道具がないことから伐採を免れた、というエピソードがあります。
大桜のほど近くには、開花期には桜を管理所有する農家の軒先に茶店が設けられ、里で取れた野菜や山菜をふんだんに使った食事や飲み物がふるまわれ、村の人々とのつかの間の交流も楽しめます。最寄の北総線印旛日本医大(印旛松虫)駅からは約3.2km。少し距離はありますが、ここが首都圏?と思うほどの豊かな里山と緑濃い森の風景の中、ヒバリやキジのさえずりを聞きながら「日本一のヤマザクラ」の声もあるほどの吉高の大桜を目指してはいかがでしょうか。満開期は約三日と短いので、印西市の開花情報を参照しつつ、時期を逃さないようお気をつけください。