ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

流通多様化時代

2013年12月09日 20時23分43秒 | ペタンク爺さんの一日
今から70年以上も前、私が小学校時代で室蘭管内の鉄の街日鉄城下町輪西町に住んでいた、幼稚園、小学校、中学校はこの町の中にあった、小学5年生の時に終戦を迎え軍国少年から一転し民主主義を叩きこまれた、中学は新制にになり高校に進学する時に入学試験があった、育った環境か商人をめざし室蘭商業高校へ進学した。
人生の前半はこの第2の故郷の輪西町になっている、町中は個人商店が軒を連ねていたり、大きな日鉄の従業員の社宅が連なって建てられていた、戦中戦後を通して工場地帯の高い煙突から黒い煙が何時も棚引いて町中を暗くしていた、今考えると今の中国と変わらない時代が有ったと思っている。

我が家の隣りは、馬車追いと蹄鉄業、それに八百屋もやっていた、その向かいは魚屋、左隣が米屋、右隣りがお菓子屋と仕出し屋さんと繋がっていた、私の所も初めは百貨店、釣り具店と個人商店ばかりが固まっていて、表通りはお店屋さんばかりだった。
其の頃の商店の仕入れ先は室蘭市にある市場からが殆んどで、荷物の運搬は荷馬車が殆んどであった、それゆえ道路は一般自動車は走っていることはなかった、自動車と云えば日鉄で所有しているかタクシー会社が営業で使うくらいで一般商店では自転車くらいがせいぜいだった。

其れが変わり出したのが、終戦を期に闇市が構成され物さえあれば売り手市場の時代が続いて行った、其の頃から隣の八百屋さんは馬車追いを廃業し三輪トラックで近くの農家まで野菜を仕入れに廻っていた、兎に角物集めが商売の成功する秘訣だった。
我が家も、その頃釣り具卸商をしていて戦後川口市にの釣竿作り職人に自家製のスルメを送り続けたことで、釣竿がどっと入荷するようになり一気に財をなしていった。
イタンキ浜に自前のいそふ置き毎晩烏賊釣りに出かけ多いときは何百杯もの大漁も、一家総出でイカのを持ち帰り割いて家の周りに張り巡らした縄に干してスルメ作りをした。・・・・続く

今日午後からダンス教室、再開二日目初心者コースマンボ、ブルース、ジルバの三種を復習する、個人レッスンなので短い時間だが蘇えりも早いと思っている。

帰り道、滅多に行かないスパーとっぷすに立ち寄る矢張りここは安い、青森産リンゴ`@42を2種類買ってくる、札幌で安い店の代表格だ。此処は仕入れ先は中央市場だが最後まで残り売れ残りを安く叩いて仕入れていると見ている。

青森リンゴつがる@42
青森リンゴ
今夜はシチューとニシンの糠漬け








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