ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

365歩のマーチ

2015年06月11日 18時50分31秒 | 闘病

水前寺清子の歯切れよいマーチは、人生の所々で突然思い出され元気を与えてくれる歌です、今回も二泊三日の予定で入院したが予定と現実のギヤツプは大きかった、三週間サイクルの抗がん剤治療の日が来週の火曜日に予定されている、第一回目の時には酷い副作用もなかったが、胃腸が異常に機能低下を起こし未だに後を引いている、今は内科医も加わり対処してもらっているが完治にはほど遠い、それでも一時ほど追い詰められていた時よりは少しは余裕が出てきた感じもあり、久し振りに院内文庫本を手にする。

飛び込んで来たのは、平山郁夫シルクロード展の彼の女性像に目を奪われた、 世界の女性ランキングが極端に下位を低迷している訳も少し分かりかけて来た、曰本の場合は女性政治家が育たないのか、回避してしまっているのか、選挙率が男女を問わず低いのも近頃の常識になってしまっている、きっと教育が悪いのが原因か、兎に角国の基準の中で経済、教育、政治、健康は欠かせない物ばかりです。

国や民族によって女性は動物扱いしている所も現実にある、もう人間ではないと思うけど、再教育するか、それ故教育がいかに大事かも解って来る。

司馬遼太郎の猛烈なファンの一人で、最後に目に焼き付いたのはNHKスペシャル、湖西のちち、韓のくに紀行、モンゴル紀行、だった。

彼も日本人のルーツを探していた事も判ってきたが最後まで到達していないで終わっている。

 平山郁夫の世界

 

 

 

 

 

 


悪ガキ時代とザルガニ獲り

2015年06月10日 17時45分05秒 | 自叙伝

4.5歳には悪ガキになっていた、大きな日本製鋼場の城下町の狭い小さな町が私の故郷輪西でその項小学校が一校あるだけで後は目立った物と言えば、学校の一山陰に当時では珍しいゴルフ場が有ったのを覚えている、海岸まで降りると今度は砂浜で草競馬が出来る競馬場があった、我がやの隣は今で言う運送業の馬車屋さんだったので、競馬の方でなく馬場競技には良く連れてこられていた、町中あげての大イベント本当に楽しかった。

幼稚園に通い出すと弱いもの虐めが増え、厳しい女園長先生から柱に縛りつけられたり、園内から放り出されカギを掛けられたり 、きっい仕置きも何のその幼稚園だけは続けていた、そのなかにあって皆に喜ばれた事が一つだけあつた、幼稚園の上の方から小さな小さな水脈が出て来てその粘土質の石原を掘り起こして行くと、近年では珍しくなってしまった日本ザルガニが良く捕れた、大・小様々バケツの底が見えない程捕れたときなど皆や、園長先生にも褒められた記憶が残っている。

 早速三時のおやっに早く変わり、茹で上げて塩を振りかけると海老の空揚げが出来上がる、子供にはカルシュームいっぱいのおやつでもある。

小学校で学校が代わった、戦争が始まり鉄工業の町に大挙して工員さんが増え人口が増えたので、小さな輪西の町にもう1つ小学校が新設されたのだ、私も新しく出き上がったばかりの大沢国民小学校に転校したのは、1年生だった、現在でも小学校は存続している、ザルガニ獲りや悪ガキ少年の夢は大沢国民小学校に移って行く。

 昨日妹に遠藤農園の様子を見にいつてもらう。

 

 

 

 

 

 


五月も過ぎ6月があっという間まに過ぎて行く勢い。

2015年06月08日 22時00分27秒 | 闘病

ただ一日を生き延びている感じだけでは成長は感じ感じられない、今日より明日へ明日から明後日と少しでも成長し続けねばこの世に生まれて来た

解(かい)、が意味で当てはまっているかも理解できていない、私には難解な問題で、もうこんなところで頓挫してしまった。

抗がん剤治療が28日から始まった三週間単位で秋風が吹く頃まで続いていくが、食欲が極端に減退し時には何も食べれなくなる日も出てくる、今回も1週間ほど何も喉を通らない、10日間ほど前に食べたのは重湯だったが時々動いているようだが出てくる気配はない、その内に数日後良かれと飲んだ玄米スープが最悪状態に落とし入れた私の責任で、やったこと誰も責められない身から出た錆びだ。

この度は、内科醫も加わり食道から胃袋を通り小腸の腐敗したような物を排泄してくれた時間はかかったが地獄から呼び戻された感じ(こ、厳しい悪夢の4日だった。

今日も1日不思議な一日を過ごした、眠れ姫ならぬ眠れ王子になり朝から夕方まで8時間はベットに横になっていた。

不思議な日だ。

 

今できる最大限の事をやっているだけなのだ。


断髪のもうひとつ理由が浮かんで

2015年06月07日 17時46分14秒 | 闘病

戦場を駆けるカメラマン、渡辺陽一氏が突然テレビに登場してから3年は経っていると思う、彼の語り口は独特で話す内容よりあの雰囲気で茶の間の戦争とは関わりない人達を取り込むで行った不思議な人物である。戦場を一緒に駆け回って命を落とす人が多いなか、ある程度仕事をな遂げ今は安全な所に住んでいる、それもそれで一つの目的を果たしたと思う、特に年齢が高くなつて来ると思慮分別は付いて咄嗟の判断は引くことも多くなるのは自然かと思へる、どれだけ彼の戦場をカメラマンとしての職業を理解しているか、ここ数年の彼の行動で女性や子供にも判ったことも多かったと思っている、彼も見たところ盛りは過ぎたと思う、此れからも大戦はないと思うが小さな紛争は無くなって行かない、自分の価値観を人に押し付ける事だけでも無くなれば世界平和に一歩近付けるのではないかと、単純に考えているのは私ばかりかと思ってしまう。

何時の間に刷り込まれてしまっていたようだ陽一スタイルのチョッキと今回のイスラム帽子が私のスタイルに入り込んでいたのに気づかされる。

渡辺陽一氏はテレビより今は講演をしながら学校や企業を廻っている、彼の大きな役目でもあると思う。

今回3日ほどたったが一人で戦場のど真ん中に取り残された、数日前から緊急援助隊が喉元から食道と胃袋を通過し小腸内に詰まって瓦礫を排除してくれた、良く耐えた、期間は短かったが手術と変わらぬ四日目で漸く小康状態に、このあとの処置も大事と思っている。

写真はネツトから借用


6月はアカシヤの花が咲く季節

2015年06月04日 10時19分45秒 | 園芸士

サッポロの6月は一年中で一番過ごしやすい月である、木々は青葉から深緑に代わってゆく我が家のベランダから覗く風景も一日,一日では変化のあとは見られないが二週間も経過していると季節の移り変わりもはっきり判って来る。

短期入院だった今回の入院は思わぬロングになっている、最悪状態を予想し遠藤農園の初期作業は手当て済みに、成長期の水撒きも適当な間隔で雨が降る好運にも恵まれいる、ベランダの外の花壇は早くから手を掛けていた、菊作りで増えた鉢植えを全部花壇に降ろししまったので手が係らなくなつた、そして今年はプランタン花壇は取り止め花壇だけに絞っていた、主に宿根の花になったので園芸士の仕事も減らしている、秋に鉢植えであったクリスマスローズ20鉢もすっかり根付いた立派なローズ畑になっていた。

すぐ隣のあやめと杜若は植えて以来始めて根分けした、少し余裕が出て花付きも良くなると思っている、ベランダの直ぐ目の前のライラツクも花は散っているはず、その根元に夏の花のフウゼンカズラの木が植えてある、今年こそは花を咲かせると期待を大きくしている。

もう一本今年こそと大きな期待を掛けている柿の花がある、福島から送られた来た柿を花壇に投げて置いたら芽が出て来て今年で10年は過ぎている、目立たぬ花なので注意深く観察して行こうと思っている、柿の木も背丈を越えた。

今年のベランダは、ベランダ菜園で賑わっている、袋育てで薩摩芋、本数は少ないが枝豆、手なしいんげん豆、獅子唐にプランタンにはホウレン草、カブ、イタリアンパセリ等満員御礼状態になっている。

 

 


チツプ釣りと親父

2015年06月02日 17時27分33秒 | 釣夜話

親父から魚釣りを直伝してもらったのは白老湖の鮒釣りから始まっている、小学生時代と思っている が釣って来た魚は背開きして焼き干しにして食べていた記憶が残っている、どんな魚でも粗末にすることは無かった、海釣りは室蘭港の白防波堤が圧倒的に多かった、魚種は多岐でカレー、あぶらこ、ガヤ、そい、どんこ、ハモ、時にはカスベ、サメ、小物ではチカ、サバ等一年中楽しめる釣り場で初心者からベテランの釣り師まで賑わった最大の漁場であつた、ここの釣場は親父のお伴しての夜釣りでハモ釣りでの思い出が強烈に残り今でもその時の映像が浮かんでくるほどだ。

戦後、姫鱒釣が始まったのは登別の倶多楽湖や洞爺湖だった、現在は支笏湖のチツプ釣りが支流になっているが、私が円山釣具店時代には6月1日の解禁日には必ず参加していた、当時は支笏湖線もなく恵庭市から丸駒温泉へ抜けるルートでポロピナイに出てボートを借りていた、釣り方はリール釣が定着したのもこの頃です。

親父と行った倶多楽湖のチツプ釣りは5月1日が解禁日で、矢張ボートを湖水に出し18尺ほどの継ぎ竿を使い浮き釣りで一人2本ほどとリール竿2本位で底釣りの両方で釣っていた、ここのチツプは環境で余り大きく育たず精々25cmほどだったが、美味しさには変わりが無かった、ここはチツプの他に対岸で採れる春椎茸がお土産になった。

洞爺湖のチツプ釣りは目立たないが、魚体も大きく岸から投げ竿の浮き釣りを確立させたのも親父達と思う、商売とは言へ良く研究したと思っている。

輪西から伊達、壮瞥、昭和新山を見ながら湖畔にそって、そして変電所のあるところが釣り場だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日は、山開きのはず

2015年06月01日 17時00分46秒 | 闘病

病室の裏窓から見える風景は再々開発のビルが地下部分のコンクリート打が終わり二三日静かだった工事現場が今日は朝早くから騒音を鳴り響かせていた。

故郷の輪西の町を夜逃げ同然の様に抜け出し、最初に落ち着いた場所が東札幌の中心部だった、今の南郷通りに面した借家だったが通り沿いは家並みが続いていたが周りは田圃が点在し夏になると蛙が鳴いていた時代、すぐ向かいの銭湯喜楽湯を利用していた、今から50年以上も前のこと銭湯喜楽湯だけはいまでも営業している、周りはすっかり様子が変わった、地下鉄が開通し一気に開けて行った、この地に居たのも一年余りその後大通り20丁目の市電停留所前に遠藤釣具円山店を開業している、親父の援助を受けての事だが有難い親心に感謝するだけだった。

次男は、この円山時代に誕生し長男共々円山小学校、向陵中学校の卒業生になっている、当時は市電が円山公園まで行っていた、公園を出ると桑園を通り札幌駅前からすすきの迄と、そのまま山鼻線西線へ、すすきのから豊平定鉄駅前迄、その他苗穂駅前迄市電ルートは充実していた。

今は地下鉄が取って代わっているが観光札幌にはレトロな地上を走る市電が相応しく思えてくる。

札幌の街中にも古い町並みを残した(テーマパーク)観光等を考えてもいいのではないかと思っている。

避暑と思い屋上に、ところが暑かった南国の植物園になっていた。