・「なまけ者を励まして、学問させる方法・・・これはむつかしい」
と老僧は微笑む。
嵯峨野の奥の夕暮れは早く、露じめりした庭に、
くちなしの花が点々と白い。
「本人がその気にならねば・・・というて、
その気にならぬから、なまけ者なのでな」
学識あって有徳の老僧は都の人々から慕われ、
嵯峨野のささやかな僧坊を訪れる人が多い。
老僧は勤行の合間に、人々の話を聞いてやるのだった。
「ふむ、お手前の息子どの、仏縁あって出家され、
あっぱれな善知識にと親御はお望みをかけていられるのに、
若さにかまけて遊び呆けていると?
若い時は自然そうしたものだが、
昔々、わしが叡山で修行していたころ、仲間にもそういう僧がいた。
頭はよいが、なまけ者でな、遊び人で女好き、
身を入れて仏典の勉強をするということもせぬ。
そのくせ、抜け目ない奴でな、常に法輪寺へお詣りしては、
『学才をお授け下さい、悟りを開かせて下さい』
と祈っておった。
法輪寺は虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)、知恵福徳のみ仏よ。
虚空蔵さまにすがりながら、修行することもなく、
遊びたわむれておったのよ。
ある秋の一日、いつものように法輪寺へお詣りしたが、
ついつい寺の僧と話込むうち夕暮れとなり、
急いで帰ったが西の京あたりで日はとっぷり暮れてしまった。
比叡のお山は京の町を横切ってはるかに遠い。
夜の道中は物騒なり、どこぞ泊めてもらえまいかと歩くうち、
唐門の立派な邸があり、若い下女が立っていたので、
僧は一夜の宿を乞うた。
その女はあるじに聞いてみましょうと邸のうちへ入ったが、
すぐ出て来て、『お安いことでございます。どうぞお入り下さい』
と招き入れてくれるではないか」
~~~
・小綺麗な少女が食事や酒を出してくれた。
若い僧は嬉しくそれを摂って、手を洗ったりしていると、
奥の遣戸が開いて几帳の向こうから女あるじらしい声がした。
「どなたさまですか?」
「比叡の山で修行する者ですが、
法輪寺へ詣って帰ろうとしたら日が暮れましたので、
一夜の宿をお願いした次第です」
「いつも法輪寺へお詣りでしたら、どうぞまたお立ちより下さい」
そういって女は遣戸を閉めて奥へ入った。
しかし几帳の手がつかえて、戸は締めきれずすき間ができた。
夜も更けたが僧は寝つかれない。
庭へ出て建物の母屋の前あたりをぶらついていると、
蔀に小さい穴を見つけた。
一条の光が洩れている。
僧は思わず近寄ってのぞいてみた。
空薫もののゆかしい匂いが鼻をうつ。
部屋の調度は豪奢だったが、何より目を奪われたのは、
そこにいる若い美しい女だった。
低い燭台を身近に置き、物に寄りかかって草子を見ている。
年のころは二十歳ばかり、何とも美しくあでやかで、
紫苑色の衣の裾には、つややかな黒髪が流れていた。
几帳の蔭に二人ほどの女房が寝ており、
少し離れたところには、食事を運んでくれた少女が寝ていた。
僧は美しい女あるじに血が騒ぎ、目もくらんでしまった。
~~~
・(こうしてめぐりあったのも、前世の因縁だ。
この思いを遂げないではいられない)
と心がなぎ立ち、自制出来なかった。
邸じゅうが寝静まり、女あるじも寝たと思われるころ、
さっきの少しすき間のできていた遣戸をそっと開け、
忍び足で女の側へ近寄って臥した。
女はよく眠っていた。
近寄ると、女の身にたきしめた薫りも慕わしく、
若い僧は、あたまがくらくらする。
ゆすり起こして言い寄るべきか、
しかし女は何と言うだろう、
驚いて声をあげるかもしれぬ、
厳しく拒絶して恥をかかせ、放り出すかもしれぬ、
僧は自信がない。といって自制して思いとどまることも出来ぬ。
ひたすら仏の加護を念じつつ、
そろそろと女の衣を開こうとすると、
女は目をさまして、僧をみとめ、あっといい、
「驚きましたわ、
尊いお坊さまだと思ったからお泊めしたのに、
こんなことなさるなんて情けないわ」
そうしてかたく衣の前を合わせ、許そうとしない。
僧は欲情に悩乱して苦しんだ。
しかし一片の良心と恥の感覚はあったとみえ、
騒ぎになっては邸の人々にも気づかれるであろうと、
辛うじて耐えて、女の意志を尊重した。
女はそんな様子を見て、やさしくいった。
「あなたをあたまから拒む、というのではないの。
夫に死に別れてからあたしは独り身で、
言い寄る男はたくさんいたけれど、
平凡な、見どころのない男と再婚するのはつまらない、
と思っていた。尊敬できるような男の人と・・・
あなたのようなお坊さまを敬ってかしずく暮らしをしたい、
そう思っていた。だから、いやだ、というのではないわ。
でもあなた、法華経をそらでおよみになれる?
それなら、あなたと睦み合うことも出来るんだけど」
(次回へ)