むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

27、むかしあけぼの  ③

2021年06月13日 08時22分14秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・私は書き始めた。
かるく、楽しく、明るく・・・

私は少なくとも『春はあけぼの草子』を書きあげるまでは、
棟世のもとに居たい、と思っていた。

しかし、棟世の娘の安良木は、
宮仕えのことを忘れていないらしく、
「まだお返事は来ない?」と、毎日のように言う。

しかし、ついに赤染衛門からの手紙が来た。

夫が今度尾張の国守になり自分も下ることになった、
ついては、頼まれていた安良木どののこと、
取り計らうことが出来たので、
こちらにおいでを乞うとのことである。

赤染衛門は忘れずに安良木を推してくれたらしかった。

彰子中宮のお側へ上がれるかどうかは、
最終的に大殿の上(道長左大臣の北の方)や、
その女房にお目通りしてから決まるらしいが、
大殿の上は私のことをご存じで、

「ああ、元輔の娘ね。
あの清少納言の夫の娘というのなら・・・」

と、満足されているという。

安良木は有頂天になっていた。

「お前について行ってもらうほかないな」

棟世は娘を手放す淋しさはあったろうが、
淡々として言った。

ともあれ、京へ戻らねばならぬ。

「安良木の身のふり方をつけてしまったらすぐ戻ります」

私は棟世に告げて機嫌よく京へ出発した。

おびただしい財物を持って行くので、
棟世は護衛の侍を多くつけてくれた。


~~~


・京は少しも変っていなかった。
棟世の留守宅へ入り、赤染衛門の君に連絡する。

丁度、彰子中宮がお里下がりしていられ、
そこへ主上も行幸になり、
東三条女院の四十の賀が行われるらしかった。

安良木は宮仕えを許されることになった。
その折、

「清少納言は宮仕えをする意志はないのか?
あればこちらへ来ないか」

というお話があったという。

そのお志は嬉しかったが、
私は多分、もう二度と宮仕えすることはないだろう。

それより、赤染衛門の邸で彼女と和泉式部に会えたのは嬉しかった。
赤染衛門はどっしりと太って五十にはまだ間があるが、
色白の声の若々しい人だった。

名声のたかい女流であるが、
気取らぬ穏健な家庭婦人で何かというと、
「主人が・・・主人が・・・」と、
学者の夫、大江匡衡のことを言った。

和泉式部は三十を出たばかりであろうか、
京の人々の口の端にのぼっている恋愛沙汰にふさわしく、
魅力ある女だった。

言葉数少ないその人がやっとしゃべる言葉は、
こちらの心にいつまでも余韻を残した。

彼女は冷泉院の第三皇子の為尊親王との恋愛のため、
夫の和泉守、橘道貞に離縁されてしまった。

しかし、和泉式部が歌詠みとしての名声も高まっているとして、
赤染衛門は彼女に、

「大殿はぜひあなたにも宮仕えをお望みでいらっしゃいます」

と言った。

和泉式部は、

「自分のようなものは・・・」

と口ごもった、というより私には、
彼女は放心しているように見えた。

恋をしている最中は魂を抜き取られているのかもしれない。
中宮を失った私もまた、あの放心を味わっているのだから。


~~~


・安良木は十一月の終りにはじめて内裏に参上した。

それから間なしに故定子皇后の一周忌の法会があった。
私の上京はこの法会も目的の一つだった。

皇后大夫の公任卿のお姿は見えなかったが、
叔父君の明順の君のお姿を遠くから見ても、
老いられたのに胸をつかれた。

正三位に復された伊周の君はひまなく涙を拭っていらっしゃる。
しかし私はもう伊周の君と会話したり、
悲しみを確かめあったりしようとは思わなかった。

私がこれからつき合うのは、
私の筆によってよみがえる紙の上の伊周の君であり、
故関白であるのだった。

東三条女院がついに崩御された、
という報せと共に私にはもっと大きな衝撃がもたらされた。

棟世が摂津の国庁で急死したのだ。

執務中に突然倒れたという。
その日は京でも寒い日だった。

暖かくしていた私邸から冷え切った政庁へ出て、
間もなく前かがみになり倒れたそうである。

一度意識が戻り、介抱する男たちに、
私と安良木を呼んでくれ、と言ったそうである。

それから二刻ばかりして死んだ、という。

うねうねと長生きしよう、と言ったのは棟世だったのに、
いつだって帰って来られるのだから、と言ったのに。

でももう帰るところなんぞありはしない。
棟世はいないのだ。

棟世に残された時間は少なかった。
もっともっと一緒にいるべきだった。

いや、しかし、あの数ヶ月棟世と暮らせた幸福を、
大事に思おう。

私は安良木と抱き合って泣いた。






          


(27  了)

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