・その夜、
まどろみかけた源氏の枕もとに、
夢ともうつつともなく、
亡き中宮が立たれた。
藤壺の宮は、
お恨みをいわれる。
「あれほど、
秘め事は明かすまじと、
お約束下さいましたのに、
あやまちは隠れなく知れて、
恥ずかしく苦しい目にあっております。
お恨みに存じます・・・」
と仰せられ、
源氏はお答えしようとして、
何かにおそわれたように胸苦しく、
呻くばかり。
紫の上が、
「まあ、どうなさったの?」
と起こしたので、
源氏は目がさめた。
胸騒ぎは静まらず、
涙ばかり流れる。
あの方はもうこの世にいられないのだ。
目覚めてからの孤独の涙。
紫の上は心配したが何も言わない。
源氏も黙したまま、
じっと臥していた。
なまじ夢でお目にかかったことが、
かえって悲しみを増すようで、
源氏は早起きすると、
早速、方々の寺にお経をあげさせた。
「苦しい目にあって・・・」
と夢で源氏をお恨みになったのも、
罪深き秘密のために、
あの世で地獄の苦しみにお遭いになって、
いるのではないか。
宮のために特別な法要を営むことは、
世間の目をそばだて、
また帝に、
疑惑の苦しみを強いることであろう、
とはばかられる。
源氏は一人、
心の中で、宮のおんために、
阿弥陀仏を念じつづける。
宮が極楽浄土に生まれ代わられるように、
そのうちわが身も同じ蓮に、
と思うのだった。
その年も明け、
藤壺女院の御一周忌も過ぎたので、
世の中は喪服を脱ぎ、
まもなく四月の衣更えで、
夜が明けたように花やいだ。
やがて賀茂祭であった。
空は青く張りつめた快晴の日がつづく。
美しい初夏のおとずれ。
今は斎院の任下りたもうた朝顔の宮は、
花やかな世間に背を向けるように、
ひっそりと過ごしておられた。
斎院時代とは打って変った、
お淋しい環境である。
賀茂祭には、
桂の若葉を冠にかざす。
そこへ源氏から、
「いまは静かで、
のんびりしていられることでしょう」
という手紙が来た。
色めかしい恋文ではなく、
格調正しい、大人の挨拶である。
姫宮は感慨深く思われ、
いつになく、すぐお返事を書かれた。
「藤の衣、喪服をまといましたのは、
つい昨日のように思われますのに、
はや喪はあけました」
源氏はそのお手紙に、
じっと目をあてていた。
源氏は女五の宮の方にも、
折につけお見舞いをし、
物質的援助も惜しまないので、
老いたる叔母君は嬉しく思っていられる。
女五の宮は朝顔の宮にお会いになると、
「源氏の大臣が、
あなたに熱心に、
求婚していらっしゃるようだけど、
いいご縁ではないかしら。
お迷いにならず、
お受けなさいまし」
とおすすめになる。
「今ではご本妻(葵の上)も亡くなられ、
父君の太政大臣も世を去られたのです。
あなたが源氏の君のご本妻になられて、
何の悪いことがありましょう」
などと旧弊な言い方をなさるので、
姫宮はご不快だった。
「いまさら周囲に押し流されるようにして、
結婚するのは、
わたくしに似つかわしくありません」
とおっしゃって、
その話題さえ恥ずかしそうになさるので、
女五の宮も、
強いておすすめになることが出来ない。
お邸の内の人々は、
すべて源氏のお味方であったから、
いつ誰が手引きして、
源氏を引き入れるかもしれないと、
姫宮は不安で警戒していられた。
そこまで考えをめぐらされるほど、
怜悧で慎重で、自尊心に富んでいられた。
しかし、
やはりその辺が世なれぬ姫宮の、
限界であろう。
源氏はもはや若き日の源氏ではない。
分別と理性をそなえた中年男性である。
源氏は、わが心を尽くし、
まことをお見せして、
姫宮のお心が溶けるのを待とう、
という気でいる。
昔のように、
むりやり女の心を踏みにじって、
わがものにすることは、
夢にも考えていない。
姫宮はいかに賢くいられても、
そこまで男の心を洞察することは、
お出来にならぬらしかった。
(了)