「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

18、朝顔 ⑤

2023年11月16日 09時12分50秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・その夜、
まどろみかけた源氏の枕もとに、
夢ともうつつともなく、
亡き中宮が立たれた。

藤壺の宮は、
お恨みをいわれる。

「あれほど、
秘め事は明かすまじと、
お約束下さいましたのに、
あやまちは隠れなく知れて、
恥ずかしく苦しい目にあっております。
お恨みに存じます・・・」

と仰せられ、
源氏はお答えしようとして、
何かにおそわれたように胸苦しく、
呻くばかり。

紫の上が、

「まあ、どうなさったの?」

と起こしたので、
源氏は目がさめた。

胸騒ぎは静まらず、
涙ばかり流れる。

あの方はもうこの世にいられないのだ。
目覚めてからの孤独の涙。

紫の上は心配したが何も言わない。
源氏も黙したまま、
じっと臥していた。

なまじ夢でお目にかかったことが、
かえって悲しみを増すようで、
源氏は早起きすると、
早速、方々の寺にお経をあげさせた。

「苦しい目にあって・・・」

と夢で源氏をお恨みになったのも、
罪深き秘密のために、
あの世で地獄の苦しみにお遭いになって、
いるのではないか。

宮のために特別な法要を営むことは、
世間の目をそばだて、
また帝に、
疑惑の苦しみを強いることであろう、
とはばかられる。

源氏は一人、
心の中で、宮のおんために、
阿弥陀仏を念じつづける。

宮が極楽浄土に生まれ代わられるように、
そのうちわが身も同じ蓮に、
と思うのだった。

その年も明け、
藤壺女院の御一周忌も過ぎたので、
世の中は喪服を脱ぎ、
まもなく四月の衣更えで、
夜が明けたように花やいだ。

やがて賀茂祭であった。

空は青く張りつめた快晴の日がつづく。
美しい初夏のおとずれ。

今は斎院の任下りたもうた朝顔の宮は、
花やかな世間に背を向けるように、
ひっそりと過ごしておられた。

斎院時代とは打って変った、
お淋しい環境である。

賀茂祭には、
桂の若葉を冠にかざす。

そこへ源氏から、

「いまは静かで、
のんびりしていられることでしょう」

という手紙が来た。

色めかしい恋文ではなく、
格調正しい、大人の挨拶である。

姫宮は感慨深く思われ、
いつになく、すぐお返事を書かれた。

「藤の衣、喪服をまといましたのは、
つい昨日のように思われますのに、
はや喪はあけました」

源氏はそのお手紙に、
じっと目をあてていた。

源氏は女五の宮の方にも、
折につけお見舞いをし、
物質的援助も惜しまないので、
老いたる叔母君は嬉しく思っていられる。

女五の宮は朝顔の宮にお会いになると、

「源氏の大臣が、
あなたに熱心に、
求婚していらっしゃるようだけど、
いいご縁ではないかしら。
お迷いにならず、
お受けなさいまし」

とおすすめになる。

「今ではご本妻(葵の上)も亡くなられ、
父君の太政大臣も世を去られたのです。
あなたが源氏の君のご本妻になられて、
何の悪いことがありましょう」

などと旧弊な言い方をなさるので、
姫宮はご不快だった。

「いまさら周囲に押し流されるようにして、
結婚するのは、
わたくしに似つかわしくありません」

とおっしゃって、
その話題さえ恥ずかしそうになさるので、
女五の宮も、
強いておすすめになることが出来ない。

お邸の内の人々は、
すべて源氏のお味方であったから、
いつ誰が手引きして、
源氏を引き入れるかもしれないと、
姫宮は不安で警戒していられた。

そこまで考えをめぐらされるほど、
怜悧で慎重で、自尊心に富んでいられた。

しかし、
やはりその辺が世なれぬ姫宮の、
限界であろう。

源氏はもはや若き日の源氏ではない。
分別と理性をそなえた中年男性である。

源氏は、わが心を尽くし、
まことをお見せして、
姫宮のお心が溶けるのを待とう、
という気でいる。

昔のように、
むりやり女の心を踏みにじって、
わがものにすることは、
夢にも考えていない。

姫宮はいかに賢くいられても、
そこまで男の心を洞察することは、
お出来にならぬらしかった。






          


(了)

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