・日本海側の温泉町は雪に閉ざされていたが、
駅前は人で雑踏していた。
迎えのバスで宿へ着くと女中さんが、
「お連れさまは?」と聞く。
「一人で申し込んでいますよ!」
老婦人が一人で旅するのが珍しいのか?失礼な。
以前、私はたつ源さんと鳥取の温泉へ行く約束をしたが、
たつ源さんは亡くなり、あの時も私は一人旅であった。
私は所詮、一人旅が宿命になっているのかもしれぬ。
それにしても、年末年始を一人で温泉に来るという思いつきに、
私は我ながら満足する。
町に灯が点きだすころ、食事の前、
私は二階の部屋の手すりから下の通りを見下ろしていた。
すると一人の男がふり仰いで私を見、会釈した。
よく知ってる気がするが、誰だか思い出せない。
見ているとその人は目の下の玄関へ入った。
・・・ああ、やっと思い出した。
あの車いすを押していた男なのだ。
私はまたあの妻に、
「あほばかまぬけ」とののしられるのはいやだな、と思った。
顔を合わさぬようにしなければならない。
私はテレビの番組欄を見るため、帳場へ新聞を取りに下りたら、
その男がソファに坐って新聞を読んでいた。
半白の髪、落ち着いたやわらかな表情。
「思いがけぬところでお目にかかりますわね」と私がいうと、
「こちらへ来るバスで一緒でしたよ」という。
車いすは見なかったので、
「あら・・・奥さまは?」と聞くと、
「おとつい四十九日を済ませて、こちらへ来ました」
「それはまた・・・思いがけないこと」
「肺炎をおこしましてな」
私がお悔やみを述べかけると、彼はさえぎり、
「明日は正月ですから。
私も長い看病で覚悟はしていましたから、ふっきれているのです」
節度のある男のようで、
「ボケて十年になります。
しまいに鏡みて『あんた、どなたですか?』というてました。
はっはっは・・・いやどうも」
とひとごとのように笑うのがよい。
相手を立ち去りやすくさせるのが社交のエチケット。
部屋に戻ってテレビに向かいつつ、
一人で五勺の酒とカニを楽しんでいるのは、
思ったとおりのうれしさ。
不意に私はあの男と飲んでみたい、という気になった。
縁もゆかりもないオジンを誘うとは、迷惑するだろうか。
私は女中さんに頼んでみた。
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・男はカーディガンにズボン姿に着替えて入ってきた。
「たまたま大晦日なので、こんな宿でめぐり合わせたのも縁、
よろしければご一緒に!」
これは結婚を決意したサナエや魚谷さんと同じではないか。
私たちは初めの一杯をつぎあい乾杯する。
「よく寒い夕暮れに散歩していらっしゃいましたね」
「連れ出さぬと、その辺のものをひっくり返して暴れましてなあ。
どこへ行くんかわかりません。どんどん歩くんです。
足が弱って車いすになってからはいっそう難しくなりました。
この道と違う、あそこで曲がれ、左、右、
どうしても行きたいところへ行き着かないと泣くのです」
「・・・」
「やっと家へ帰って、食事を作って食べさせてやります。
せがまれて歌を歌ってやります。そのうちに眠ります。
そっと出ようとすると、すごい力でしがみついてきます。
私が他の女の人としゃべると気になるんです。
奥さんにも失礼なこと申し上げて、お気になさらんで下さい」
「いいえ」
「家内の喜ぶ顔見たい、そう思うとどんな看病も出来ました。
ボケてても私にヤキモチを焼く、それを見るとボケの家内がかわいいて」
男の顔は静かでどこか悲しい威厳があっていい。
「私は明日、故郷へ帰ります。
家内のお骨を故郷に葬ってやろう、思いまして。
私もそこで住むことにします」
伴侶はわずらわしい、夫婦は業だと思う気持ちは変わらないが、
この暖かな平安な気持ちは何であろう。
いい男、やさしい男もいるものだ。
夫婦っていいものかもしれない。
(了)