「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

19、少女 ⑤

2023年11月21日 09時01分39秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・かつての頭の中将、雲井雁の父、内大臣は、
母君の大宮に仕える女房の一人を、
ひそかに情人にしていた。

それで、帰ったふりをしてそっと忍んで、
廊下を行く途中、暗い部屋の内部で、
ひそひそと内緒話をしている、
女房たちがいる。

若君が姫君が、という声に、
不審をもよおして立ち止まって聞くと、
自分が話題になっているのだった。

「賢そうにしていらしても、
やはり親御さんは甘いわね。
これが親馬鹿というのかしら。
姫君と若君を並んでご覧になっても、
まだおわかりにならないんですもの」

「今にとんでもないことが起こってから、
ああ、しまった、そういえば、
とお嘆きになるのでしょう」

「とんでもないことって?」

「雲井雁さまは、
もうお妃がねという晴れがましいお身じゃ、
ありませんよ」

「まあ、あの若君も、
ずいぶんお堅そうに見えながら・・・」

「やはり、
お父君さまのお子でいらっしゃるだけあって」

「でも、大殿さまが、
そのことをお知りになったら大変ね。
今夜は何もご存じないから、
ご機嫌でいらしたけど」

などと話している。

内大臣は愕然として、
水を浴びたような気になった。

(なんということだ)

内大臣の胸に、
ふつふつとたぎるのは憤怒である。

女御の姫が後宮の争いに、
おくれをとったから、
せめて雲井雁を東宮妃に、
という政治的目算もすっかりはずれてしまった。

こういうことを危惧していたが、
まだ幼い者同士と油断していたのが失敗だった。

それにしても、世の中というものは、
何とこちらの思わく通りに運ばないものだろう。

内大臣は情けなくなった。

おそらく女房達のいうことは、
真実であろう。

そうか、すでに二人は恋中であったのか、
内大臣は何ともいえぬ気持ちで、
そっと出てきた。

もう情人を訪れる気もせず、
邸を出たのである。

いかめしい前駆の声に女房達は、

「いまお帰りになるのね。
今までどこにいらしたのでしょう」

「あのお年になられても、
浮気ごころはおなくなりにならないのね」

などと言い合っていた。

内緒話しをしていた女房たちは、
顔を見合わせ、

「あら、どうしましょう。
さっき、いい匂いが漂ってきたのは、
若君がお通りになったのかと思ったのに」

「大殿さまだったら、大変だわ。
内緒話をお耳に挟まれたのではないかしら」

「気難しい方でいらっしゃるから」

と困っていた。

内大臣は帰る道々、
娘のことばかり考えた。

(夕霧とは、全く不釣り合いでいけない、
という仲ではないが、
いとこ同士の結婚というのは、
この場合、二人が共に育てられたこともあり、
いかにも手近で間に合わせたようで、
見栄えがせぬ。
世間もそう噂するであろう)

源氏が、後宮の争いに勝って、
女御を圧倒したことを、
内大臣は心中深く恨んでいる。

だから、
こんどは雲井雁を東宮に奉り、
あわよくば、この姫こそ后の位に、
と望みをかけていたのに、

(なんという、
残念なことをしてくれたものだ)

と内大臣は太い吐息をもらした。

源氏と内大臣はいまも友情を保っているが、
政治権力の争いになると、
別である。

内大臣はまんじりともせず、
夜を明かした。

(そういえば、
女房たちはいっていた。
大宮もうすうす二人の気配を、
悟っていられるらしいのに、
知らぬ顔でいられるらしい、と。
大宮さえしっかりと監督して下されば、
こんな手抜かりはなかったのだ)

内大臣は、
腹が立つと押さえることが出来ないのであった。



          


(次回へ)


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