「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

23、野分 ①

2023年12月25日 09時08分39秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏の私邸・六條院の中の、
中宮(亡き六條御息所の姫君)のお住まいの庭に、
秋草が例年より美しく咲いた。

中宮は秋草にお心ひかれて、
ずっとお里住まいをなさっている。

八月は中宮の御父君の御祥月であるから、
管弦の遊びはご遠慮なされていた。

日々、秋草を賞でられていられるうちに、
野分(嵐)の吹くころになった。

今年の野分はことに烈しい。

中宮は、
風に吹き飛ばされ、
無残にたわんで折れてゆく秋草に、
心をいためられた。

日暮れになるほどに、
いよいよ風は烈しく人々は、
不安になって御格子を下ろしてしまった。

南の対の紫の上の御殿でも、
嵐は吹き荒れていた。

紫の上は、
思わず端近に出て庭をながめていた。

源氏は小さな姫君の部屋に行っている。

夕霧の中将が、
嵐見舞いに来たのは、
そのときだった。

東の渡殿の小さな衝立越しに、
妻戸の開いているすき間をなにげに見ると、
女房たちがたくさんいる。

夕霧は立ち止まって、
そっと見ていた。

風が烈しいので屏風もたたまれ、
片寄せてあるので、
室内まであらわに見通せる。

廂の間に、
夕霧が(あっ!)と思うような、
美しい女がいる。

かの紫の上であるらしい。
夕霧にはすぐにわかった。

あんな美しい女(ひと)も、
この世にはいるのかと、
青年は撃たれたように思った。

御簾が風に吹き上げられるのを、
女房たちが押さえていたが、
佳き女人はそれを見ながら、
にっこりした。

その笑顔の、
何という美しさ。

青年は心も魂も吸われてゆくように思った。

その女は、
花が気になって、
奥へ入れないようである。


そばには美しい女房たちもいたが、
その女にくらべることも出来ない。

父上が、
自分をこの女に近づけないように、
していられたのは、
なるほどこの美貌に迷って、
万が一のことがありはすまいかと、
懸念されたからであろう。

何という周到な父上のご配慮かと思うと、
こうして垣間見ているのが、
そら恐ろしくなった。

立ち去ろうとすると、
ちょうどそのとき、
姫君の部屋から源氏が、
障子を開けて入ってきた。

「いや、ひどい風だ。
格子を下ろしなさい。
男たちがその辺にいるだろうに、
これではまる見えになってしまう」

青年は抗いがたい好奇心にかられ、
また引き返してのぞいた。

源氏は紫の上と何か話している。

成人した息子を持つ親とも思えぬ若々しさ、
清らかに、男盛りのなまめかしさに、
あふれている。

紫の上も、
女盛りの優雅さが匂うばかり。

夕霧はおとなの男女の美しさのきわまりを、
見た思いで身に染むように思った。

折から吹きたてる風のいっそう烈しく、
格子が吹き飛ばされてしまった。

姿が丸見えになってしまう。

青年は恐れて退き、
いま来たばかりのように咳払いして、
縁の方へ歩いていった。

その声が間近に聞こえたせいか、

「それごらん。
見通しになっている」

源氏はいって、
はじめて妻戸が開いていたことに気づいた。

夕霧は内心、
紫の上を垣間見られたことが嬉しかった。

風というものは、
何とたいしたものではないか。

あんな深窓の美女を、
垣間見させてくれたのだと思うと、
嬉しくて、
今は野分に感謝したい気持ちであった。

邸の男たちが参って、

「風がひどくなりました。
東北の方から吹いていますが、
この御殿は大丈夫ですが、
馬場殿と南の釣殿は危険でございます」

暴風にそなえて準備に大さわぎしている。

源氏は夕霧にどこから来たか、
と聞いた。

「三條の大宮(祖母)の御殿でございます。
こちらの様子も不安なのでお見舞いに参りましたが、
またあちらへ戻ります。
おばあさまは子供のように、
怖がっていられるのがお気の毒ですので」

「そうだな。
早く行ってさしあげなさい。
おことづけを頼む。
風がひどうございますが、
夕霧がおりますからご安心なさいませ、
私は息子に任せて失礼いたしますが、と。
よくお慰めしてくれ」

源氏は、
いつに変わらず、
亡き妻(葵の上)の母にやさしかった。

道すがら。
目も開けられぬ暴風雨だったが、
夕霧は無事、三條邸に着いた。

この青年は篤実な性格で、
毎日きちんと、
祖母の三條邸と、
父の六条院へ顔を見せていた。

大宮は夕霧の見舞いを、
嬉しくも頼もしく、
待ち受けていられた。

戸外では大きな木の枝まで折れるのか、
めりめりという音も物すごい。

「屋根瓦も飛んでいるという中を、
よくもまあ、無事でおいで下さったこと」

と嬉しそうにおっしゃった。

昔は、
あんなに権勢のおありになった方だが、
いまはひっそりと淋しいお一人暮らし、
孫息子の夕霧のみを頼りにしていられる。

おん子の内大臣は、
あまり大宮にやさしくないのである。

夕霧の中将は、
夜もすがら荒い風の音を聞きながら、
寝つかれなかった。

いつも心にかかって恋しい、
あの雲井雁とは別に、
紫の上のおもかげがまぶたにただようて、
消えない。

(これはどうしたことだ。
あるまじき物思いをするとは。
恐ろしいことだ)

真面目な青年は、
自分で打ち消し、
またしても心は宙にただよい、
紫の上のことを思い続ける。

明け方、
風は少し静まり、
ぱらぱらと雨が降った。






          


(次回へ)

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