・源氏の私邸・六條院の中の、
中宮(亡き六條御息所の姫君)のお住まいの庭に、
秋草が例年より美しく咲いた。
中宮は秋草にお心ひかれて、
ずっとお里住まいをなさっている。
八月は中宮の御父君の御祥月であるから、
管弦の遊びはご遠慮なされていた。
日々、秋草を賞でられていられるうちに、
野分(嵐)の吹くころになった。
今年の野分はことに烈しい。
中宮は、
風に吹き飛ばされ、
無残にたわんで折れてゆく秋草に、
心をいためられた。
日暮れになるほどに、
いよいよ風は烈しく人々は、
不安になって御格子を下ろしてしまった。
南の対の紫の上の御殿でも、
嵐は吹き荒れていた。
紫の上は、
思わず端近に出て庭をながめていた。
源氏は小さな姫君の部屋に行っている。
夕霧の中将が、
嵐見舞いに来たのは、
そのときだった。
東の渡殿の小さな衝立越しに、
妻戸の開いているすき間をなにげに見ると、
女房たちがたくさんいる。
夕霧は立ち止まって、
そっと見ていた。
風が烈しいので屏風もたたまれ、
片寄せてあるので、
室内まであらわに見通せる。
廂の間に、
夕霧が(あっ!)と思うような、
美しい女がいる。
かの紫の上であるらしい。
夕霧にはすぐにわかった。
あんな美しい女(ひと)も、
この世にはいるのかと、
青年は撃たれたように思った。
御簾が風に吹き上げられるのを、
女房たちが押さえていたが、
佳き女人はそれを見ながら、
にっこりした。
その笑顔の、
何という美しさ。
青年は心も魂も吸われてゆくように思った。
その女は、
花が気になって、
奥へ入れないようである。
そばには美しい女房たちもいたが、
その女にくらべることも出来ない。
父上が、
自分をこの女に近づけないように、
していられたのは、
なるほどこの美貌に迷って、
万が一のことがありはすまいかと、
懸念されたからであろう。
何という周到な父上のご配慮かと思うと、
こうして垣間見ているのが、
そら恐ろしくなった。
立ち去ろうとすると、
ちょうどそのとき、
姫君の部屋から源氏が、
障子を開けて入ってきた。
「いや、ひどい風だ。
格子を下ろしなさい。
男たちがその辺にいるだろうに、
これではまる見えになってしまう」
青年は抗いがたい好奇心にかられ、
また引き返してのぞいた。
源氏は紫の上と何か話している。
成人した息子を持つ親とも思えぬ若々しさ、
清らかに、男盛りのなまめかしさに、
あふれている。
紫の上も、
女盛りの優雅さが匂うばかり。
夕霧はおとなの男女の美しさのきわまりを、
見た思いで身に染むように思った。
折から吹きたてる風のいっそう烈しく、
格子が吹き飛ばされてしまった。
姿が丸見えになってしまう。
青年は恐れて退き、
いま来たばかりのように咳払いして、
縁の方へ歩いていった。
その声が間近に聞こえたせいか、
「それごらん。
見通しになっている」
源氏はいって、
はじめて妻戸が開いていたことに気づいた。
夕霧は内心、
紫の上を垣間見られたことが嬉しかった。
風というものは、
何とたいしたものではないか。
あんな深窓の美女を、
垣間見させてくれたのだと思うと、
嬉しくて、
今は野分に感謝したい気持ちであった。
邸の男たちが参って、
「風がひどくなりました。
東北の方から吹いていますが、
この御殿は大丈夫ですが、
馬場殿と南の釣殿は危険でございます」
暴風にそなえて準備に大さわぎしている。
源氏は夕霧にどこから来たか、
と聞いた。
「三條の大宮(祖母)の御殿でございます。
こちらの様子も不安なのでお見舞いに参りましたが、
またあちらへ戻ります。
おばあさまは子供のように、
怖がっていられるのがお気の毒ですので」
「そうだな。
早く行ってさしあげなさい。
おことづけを頼む。
風がひどうございますが、
夕霧がおりますからご安心なさいませ、
私は息子に任せて失礼いたしますが、と。
よくお慰めしてくれ」
源氏は、
いつに変わらず、
亡き妻(葵の上)の母にやさしかった。
道すがら。
目も開けられぬ暴風雨だったが、
夕霧は無事、三條邸に着いた。
この青年は篤実な性格で、
毎日きちんと、
祖母の三條邸と、
父の六条院へ顔を見せていた。
大宮は夕霧の見舞いを、
嬉しくも頼もしく、
待ち受けていられた。
戸外では大きな木の枝まで折れるのか、
めりめりという音も物すごい。
「屋根瓦も飛んでいるという中を、
よくもまあ、無事でおいで下さったこと」
と嬉しそうにおっしゃった。
昔は、
あんなに権勢のおありになった方だが、
いまはひっそりと淋しいお一人暮らし、
孫息子の夕霧のみを頼りにしていられる。
おん子の内大臣は、
あまり大宮にやさしくないのである。
夕霧の中将は、
夜もすがら荒い風の音を聞きながら、
寝つかれなかった。
いつも心にかかって恋しい、
あの雲井雁とは別に、
紫の上のおもかげがまぶたにただようて、
消えない。
(これはどうしたことだ。
あるまじき物思いをするとは。
恐ろしいことだ)
真面目な青年は、
自分で打ち消し、
またしても心は宙にただよい、
紫の上のことを思い続ける。
明け方、
風は少し静まり、
ぱらぱらと雨が降った。
(次回へ)