「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

13、蓬生 ⑥

2023年10月22日 08時25分32秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・「そういわれるお声は少将さんですね。
私ですよ、わかりますか、惟光です」

「まあ、惟光さんだ!」

老女たちは驚き呆れ、
集ってきた。

「こちらの姫君はもとのままにお暮しですか。
実は殿がおたずねになりたいと、
思し召しでしてね。
お心変わりなさらず、
今宵もお車を停められました。
姫君のお心はいかがでしょう」

老女たちは笑い出し、

「姫君が心変わりなさるくらいなら、
こんな浅茅が原にいられますものか」

惟光は急いで源氏のそばに戻り、
ありのままを伝えた。

世間並みの貴婦人であれば、
まず優雅な歌を贈るのが礼儀であるが、
あの末摘花では返歌にとまどうだろうと、
すぐに逢おうと源氏は車を下りた。

ぼうぼうと繁った草を踏み分けて、
操を守った姫君にあいにいく。

それは、姫君の誠実に対する、
源氏のあわれみと感動であって、
心のときめきや恋ではないのだった。

草の露で源氏の指貫の裾はぬれにぬれた。

昔でさえあるかなきかだった中門は、
今は形もなく、奥へ入るにつれて、
いっそう無惨なさまだったが、
見る人がいないのだけは、
気楽だった。

末摘花は老女たちに源氏の来訪を聞き、
まだ夢心地だった。

「お待ちになった甲斐がございました。
今までのお怨みを洗いざらいおっしゃいませ」

老女房たちは口々にそういうが、
末摘花は源氏の来訪を知らされたとたん、
今までの苦労も悲しみもすっかり忘れ果て、
嬉しさのあまり呆然としている。

もしや狐や物の怪にたぶらかされているのでは、
と半分は信じられない。

しかし、例の煤けた几帳を隔てて、
ゆっくり座についたのは、
まぎれもなく現実の源氏だった。

「やっと逢えましたね。
長い年月をへだてても、
私の心は変っていません。
今夜、お邸の前を通ると、
どうしても行きすぎがたくて・・・」

源氏が几帳の帷子を少し払って見ると、
末摘花は昔そのままに恥ずかしげに、
うつむいて身をすくめていた。

痩せて栄養の悪そうな尖った肩先、
そそけた髪、
姫君のあわれさに、
源氏の胸はいっぱいになる。

気のやさしい源氏は、
姫君を捨ててかえりみなかった自分が、
責められてならなかった。

源氏はそめそめとささやく。

しかしその虚言も、
姫君への同情と呵責の念で、
真実にすりかえられてゆく。

その一瞬のきわどいすれすれを、
やさしい言葉で源氏は縫うのである。

「私は、あなたがいらして下さると、
信じていました。いつかはきっとと、
信じていました」

姫君の言葉は、
源氏と違い、本心からの叫びであった。

常陸の宮邸に春がよみがえった。

源氏は昔に増して威勢があった。

昔より年たけ、思いやり深く、
よく気がつくようになっていたから、
万端にわたってこまかく世話をする。

荒れた邸を清らかに修理し、
草も刈らせ、遣水も流れるようにした。

仕える者の下々にいたるまで、
着る物、食べ物の心くばりをした。

源氏は末摘花の、
いつに変わらぬつつましさ、
内気さを、この人の美点だなあ、
と思うようになっていた。

源氏は、いったんかかわりをもった女を、
向こうから去るならともかく、
こちらからは捨てられない、
男のやさしさを持っていた。

四散していた人たちも、
今は争って再び仕えたがっていた。

末摘花は二年ぐらいこの邸にいたのち、
新築なった東の院に迎えられた。

源氏は末摘花と夫婦の暮らしをする、
ということはもうなかったが、
邸内に迎えてからは、
通りすがりにのぞいて、
話ぐらいはしていき、
決して軽んじた扱いはしなかった。

かの叔母君、
大弐の北の方が帰京したとき、
打ってかわった末摘花の幸運を、
どんなに驚いたか、
また侍従が、姫君の幸せを喜びつつ、
もうしばらくそばにいて、
開運を待たなかった心の浅さを、
どんなに後悔したか・・・






          


(了)

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