・「そういわれるお声は少将さんですね。
私ですよ、わかりますか、惟光です」
「まあ、惟光さんだ!」
老女たちは驚き呆れ、
集ってきた。
「こちらの姫君はもとのままにお暮しですか。
実は殿がおたずねになりたいと、
思し召しでしてね。
お心変わりなさらず、
今宵もお車を停められました。
姫君のお心はいかがでしょう」
老女たちは笑い出し、
「姫君が心変わりなさるくらいなら、
こんな浅茅が原にいられますものか」
惟光は急いで源氏のそばに戻り、
ありのままを伝えた。
世間並みの貴婦人であれば、
まず優雅な歌を贈るのが礼儀であるが、
あの末摘花では返歌にとまどうだろうと、
すぐに逢おうと源氏は車を下りた。
ぼうぼうと繁った草を踏み分けて、
操を守った姫君にあいにいく。
それは、姫君の誠実に対する、
源氏のあわれみと感動であって、
心のときめきや恋ではないのだった。
草の露で源氏の指貫の裾はぬれにぬれた。
昔でさえあるかなきかだった中門は、
今は形もなく、奥へ入るにつれて、
いっそう無惨なさまだったが、
見る人がいないのだけは、
気楽だった。
末摘花は老女たちに源氏の来訪を聞き、
まだ夢心地だった。
「お待ちになった甲斐がございました。
今までのお怨みを洗いざらいおっしゃいませ」
老女房たちは口々にそういうが、
末摘花は源氏の来訪を知らされたとたん、
今までの苦労も悲しみもすっかり忘れ果て、
嬉しさのあまり呆然としている。
もしや狐や物の怪にたぶらかされているのでは、
と半分は信じられない。
しかし、例の煤けた几帳を隔てて、
ゆっくり座についたのは、
まぎれもなく現実の源氏だった。
「やっと逢えましたね。
長い年月をへだてても、
私の心は変っていません。
今夜、お邸の前を通ると、
どうしても行きすぎがたくて・・・」
源氏が几帳の帷子を少し払って見ると、
末摘花は昔そのままに恥ずかしげに、
うつむいて身をすくめていた。
痩せて栄養の悪そうな尖った肩先、
そそけた髪、
姫君のあわれさに、
源氏の胸はいっぱいになる。
気のやさしい源氏は、
姫君を捨ててかえりみなかった自分が、
責められてならなかった。
源氏はそめそめとささやく。
しかしその虚言も、
姫君への同情と呵責の念で、
真実にすりかえられてゆく。
その一瞬のきわどいすれすれを、
やさしい言葉で源氏は縫うのである。
「私は、あなたがいらして下さると、
信じていました。いつかはきっとと、
信じていました」
姫君の言葉は、
源氏と違い、本心からの叫びであった。
常陸の宮邸に春がよみがえった。
源氏は昔に増して威勢があった。
昔より年たけ、思いやり深く、
よく気がつくようになっていたから、
万端にわたってこまかく世話をする。
荒れた邸を清らかに修理し、
草も刈らせ、遣水も流れるようにした。
仕える者の下々にいたるまで、
着る物、食べ物の心くばりをした。
源氏は末摘花の、
いつに変わらぬつつましさ、
内気さを、この人の美点だなあ、
と思うようになっていた。
源氏は、いったんかかわりをもった女を、
向こうから去るならともかく、
こちらからは捨てられない、
男のやさしさを持っていた。
四散していた人たちも、
今は争って再び仕えたがっていた。
末摘花は二年ぐらいこの邸にいたのち、
新築なった東の院に迎えられた。
源氏は末摘花と夫婦の暮らしをする、
ということはもうなかったが、
邸内に迎えてからは、
通りすがりにのぞいて、
話ぐらいはしていき、
決して軽んじた扱いはしなかった。
かの叔母君、
大弐の北の方が帰京したとき、
打ってかわった末摘花の幸運を、
どんなに驚いたか、
また侍従が、姫君の幸せを喜びつつ、
もうしばらくそばにいて、
開運を待たなかった心の浅さを、
どんなに後悔したか・・・
(了)