「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

22、蛍 ①

2023年12月17日 13時43分01秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・玉蔓の悩みは日ごと深まる。

源氏はひと気のない折は、
ただならぬ懸想の心を口にする。

玉蔓は胸がつぶれた。

兵部卿の宮は、
むろん、源氏が玉蔓に言い寄っていることなど、
夢にもご存じない。

それで熱心に求愛の手紙を送ってこられ、
返事を待ち焦がれていられた。

五月は、
結婚のためには忌み月だと世間ではいう。

兵部卿の宮は、

「もう少しお側近く寄ることを、
お許し下さい」

と言って来られた。

源氏は男たちの恋文を見て、

「焦れているな。
面白いではありませんか」

と、こういうお返事はどうだと、
示唆するのであるが、
玉蔓は、源氏のそんなやり方がうとましく、
返事を書かずにいた。

玉蔓に仕える者は、
急いで集めた女房が多かったので、
頼もしい人がいなかった。

ただ、母君、夕顔の叔父に、
参議なる人がいたが、
その人の娘で宰相の君というのを、
探し出してそばに置いていた。

字などもよく書き、
人柄もいいので手紙の返事は、
彼女に代筆させることが多い。

源氏は玉蔓が逃げてばかりいるので、
宰相の君に返事を書かせたりする。

玉蔓は、
兵部卿の宮にふと心ひかれる折があった。

宮に愛を感じたのではないが、
うわべは親顔をしながら、
言い寄ってくる源氏のうとましさに、

(いっそ宮のいうままになれば・・・)

などと女めいた分別がついて、
考え込んだりした。

宰相の君が、
源氏にいいつけられて、
どんな文をさし上げたのやら、
兵部卿の宮は色よい返事と喜ばれて、
玉蔓を密かに訪れられた。

源氏が忍んで様子を見ようと、
待ち受けているのもご存じない。

廂の妻戸に宮の座を参らせて、
几帳だけをへだて、
玉蔓は近くにいる。

宮が何か言われると、
宰相の君がお返事する。

兵部卿の宮はしんみりしたご気配で、
あでやかな男ぶりでいられる。

「今宵は、姫君のお声を間近にお聞かせ頂いて、
私の心を引き留めて頂きたいのです。
人づてのお返事ではなく・・・」

物静かなおとなの男の言い寄り方に、
源氏は、

(なかなかやるな)

などと面白そうに聞いている。

玉蔓は、部屋にひきこもって出ようとしない。

宰相の君が、

「宮さまは、
ああ仰せられていられます」

源氏も口を添えた。

「こんな場合は、
自身でお返事なさるのが風流というもの。
いつまでも子供っぽく、
恥ずかしがっていてはいけない」

玉蔓は仕方なく、
几帳の内側へ入って坐った。

宮はその気配をお知りになって、
お話しを続けられる。

玉蔓が返事をためらっている、
その時であった。

源氏は玉蔓の側へ寄った。

几帳の帷子をひと幅あげると同時に、
ぱ~っと何かが光って、
人々を驚かせた。

それは蛍なのだった。

夕方、たくさんの蛍を、
薄衣に包んで、
源氏はさりげなく袖に隠しながら、
持ち込んだのを放ったのだった。

玉蔓は驚いて、

「あ」

と小さくつぶやき、
扇をかざして顔を隠したが、
一瞬、無数の青白い光に浮かび上がった、
横顔の美しさは宮のおん目にも止まり、
宮は息が詰まるように思われた。

(宮はまさかこうもこの姫君が美女とは、
思っていられなかっただろう。
蛍の光でみた美しさに目がくらみ、
宮はますます迷い込まれるに違いない)

源氏は、自分のたくらんだ趣向を、
おかしがっている。

実の娘なら、
こんなことはしないはずである。

源氏は騒ぎにまみれて自室へ逃げ出した。

兵部卿の宮は、
源氏の術中におちいって、
呆然としていられた。

蛍はやがて女房たちが追い払い、
再びあたりは薄闇に沈んだが、
宮はうつつ心もなくなってしまわれた。

<なく声も聞こえぬ虫の思ひだに
人の消つには消ゆるものかは>

(蛍の火でさえ消せません・・・
まして人の燃ゆる恋心が、
消せるものと思われますか)

宮は思いつめた声音で迫られる。

さすがに玉蔓は黙っていられなかった。

<声はせで身をのみ焦がす蛍こそ
いふよりまさる思ひなるらめ>

(燃ゆる恋心だの、
あこがれだのとおっしゃいますが、
もし本当の恋でしたら、
あの蛍のように鳴き声も立てず、
身を焦がしているだけではありませんか)

玉蔓はそっと奥へ入った。

宮は玉蔓のつれなさを恨まれながら、
世更けて帰られた。

玉蔓は源氏のたくらんだ趣向が、
不愉快だった。

なぜあの方は、
人の心をもてあそんで楽しまれるのだろう。

わたくしばかりか、
宮さままでも。

何も知らぬ女房たちは、
源氏の世話を、

「女親でも及ばぬような」

と感激しているが、
玉蔓は厭わしかった。






          


(次回へ)

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