「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

17、薄雲 ④

2023年11月05日 08時47分56秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・大堰は淋しい山里だが、
源氏が折々泊っていくこともあるので、
ちょっとした間食や強米ぐらいは、
摂ることもあった。

嵯峨の御堂、
別荘の桂の院に行くように見せて、
源氏はこの山荘を訪れる。

源氏の明石の君に対する愛情は、
姫君を得て契りが深くなり、
ほんものの愛なのであった。

だからといって、
彼女はその愛になれて、
たかぶったり、思い上がったりする、
性質ではなかった。

さればとて、
卑下して源氏の心をつなぎとめようと、
おどおどする女でもない。

明石の君は、
いまの幸せをじっと大切に守りたかった。

(これでいいわ。
もし都に呼ばれておそばにいるようになったら、
かえって目馴れて飽きられるかもしれない。
たまさかでも、
こうしておいで頂くのは、
私の強みだわ)

と思う。

明石に一人残った父君・入道は、
送るときは心強く送り出したものの、
源氏の気持ち、
娘たちへの扱いを知りたがって、
たえず使いをよこしていた。

そうして、姫君を渡したと聞いて、
胸を痛めたり、
また姫君の手厚い養育、
娘に対する源氏の愛情を聞いて、
嬉しく思い、ことごとに一喜一憂していた。

そのころ、
源氏の正妻・亡き葵の上の父、
太政大臣が亡くなられた。

主上もお嘆きになって、
まして世をあげて悲しんだ。

源氏は今までは、
大臣の陰にあって、
暇もあったのだが、
これからはいやおうなく表に立たねばならない。

冷泉帝(源氏と継母・藤壺入道の子)はおん年十四歳。

天下の政治をなさるのに、
やはり後見役が必要であった。

その役目は、源氏を措いてない。

源氏はその任を完うしようと決意しつつも、
数年前から時折きざす将来の自分の姿、
出家して仏道にいそしむ理想生活が、
ますます遠くなることを感じる。

大臣薨去後の追善供養なども、
源氏は故大臣の子や孫にまさるくらい、
鄭重にとむらった。

その年は、世間一般、
疫病で騒がしかった。

何かの前兆のような天変が見られ、
人心は動揺していた。

なぜこうも、
しばしば異変が起こって、
世間を悩ますのか。

人は知らず、
源氏は心の内ふかく秘めた、
暗い罪に思い当たって、
おののいている。

神はひそかに怒り給うているのかもしれない。

亡き父・桐壺帝に代わって、
源氏の罪を咎めているのかもしれない。

源氏の手に、
天下が托されようとするときに当って、
許されざる深き罪を忘れるなかれ、
とけん責されているのかもしれない。

源氏は誰にもその恐ろしさを、
わかちあえないがゆえに、
なお恐ろしく、胸痛かった。

いや、ただひとり、
その悩みを打ちあけ奉るべき人は、
いま、病んでおられた。






          


(次回へ)

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