・大堰は淋しい山里だが、
源氏が折々泊っていくこともあるので、
ちょっとした間食や強米ぐらいは、
摂ることもあった。
嵯峨の御堂、
別荘の桂の院に行くように見せて、
源氏はこの山荘を訪れる。
源氏の明石の君に対する愛情は、
姫君を得て契りが深くなり、
ほんものの愛なのであった。
だからといって、
彼女はその愛になれて、
たかぶったり、思い上がったりする、
性質ではなかった。
さればとて、
卑下して源氏の心をつなぎとめようと、
おどおどする女でもない。
明石の君は、
いまの幸せをじっと大切に守りたかった。
(これでいいわ。
もし都に呼ばれておそばにいるようになったら、
かえって目馴れて飽きられるかもしれない。
たまさかでも、
こうしておいで頂くのは、
私の強みだわ)
と思う。
明石に一人残った父君・入道は、
送るときは心強く送り出したものの、
源氏の気持ち、
娘たちへの扱いを知りたがって、
たえず使いをよこしていた。
そうして、姫君を渡したと聞いて、
胸を痛めたり、
また姫君の手厚い養育、
娘に対する源氏の愛情を聞いて、
嬉しく思い、ことごとに一喜一憂していた。
そのころ、
源氏の正妻・亡き葵の上の父、
太政大臣が亡くなられた。
主上もお嘆きになって、
まして世をあげて悲しんだ。
源氏は今までは、
大臣の陰にあって、
暇もあったのだが、
これからはいやおうなく表に立たねばならない。
冷泉帝(源氏と継母・藤壺入道の子)はおん年十四歳。
天下の政治をなさるのに、
やはり後見役が必要であった。
その役目は、源氏を措いてない。
源氏はその任を完うしようと決意しつつも、
数年前から時折きざす将来の自分の姿、
出家して仏道にいそしむ理想生活が、
ますます遠くなることを感じる。
大臣薨去後の追善供養なども、
源氏は故大臣の子や孫にまさるくらい、
鄭重にとむらった。
その年は、世間一般、
疫病で騒がしかった。
何かの前兆のような天変が見られ、
人心は動揺していた。
なぜこうも、
しばしば異変が起こって、
世間を悩ますのか。
人は知らず、
源氏は心の内ふかく秘めた、
暗い罪に思い当たって、
おののいている。
神はひそかに怒り給うているのかもしれない。
亡き父・桐壺帝に代わって、
源氏の罪を咎めているのかもしれない。
源氏の手に、
天下が托されようとするときに当って、
許されざる深き罪を忘れるなかれ、
とけん責されているのかもしれない。
源氏は誰にもその恐ろしさを、
わかちあえないがゆえに、
なお恐ろしく、胸痛かった。
いや、ただひとり、
その悩みを打ちあけ奉るべき人は、
いま、病んでおられた。
(次回へ)