<恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋にくちなむ 名こそ惜しけれ>
(あなたのつれなさを
恨んでは思いなやみ
わたしの袖は
かわく間さえないというのに
ああ その上に
あれ見よ 恋の痴れものと 世に
指さして嗤われるわが名
わが名のいとしさ)
・この相模、
王朝末期の女流歌人の一人で、
まことに大人の女の貫禄のある女人。
十世紀末~十一世紀半ばごろに生きた人だから、
紫式部や清少納言が活躍していた頃は、
まだ幼女時代であった。
父は源頼光(よりみつ)、
母は慶滋保章(よししげやすあきら)の娘。
慶滋家は詩文に長じた一家であり、
父の頼光は曉勇をもって鳴る武人で、
かつ政界にも顔が利き、
大富豪であるという、
平安朝のマフィアのドンのような存在であった。
道長が土御門邸を新築した時には、
頼光が家具一切を新調して献上し、
その美麗をきわめた出来栄えに、
さすがの道長も大いに喜んだ。
世間があっと驚く金持ちぶりであった。
その娘であるから、
相模は何不自由なく育ったお姫さまである。
後朱雀天皇の皇女・祐子内親王家の女房として、
宮仕えをし、歌詠みとして名高くなり、
相模守・大江公資(おおえきんすけ)に嫁ぎ、
夫の任地、相模へもろともに下った。
相模という呼び名はそこからきている。
夫の公資も歌詠みで、
歌を仲立ちに夫婦仲はよかった。
しかし公資ともその後離婚している。
いろいろな男と恋愛遍歴をかさねたようである。
のちふたたび祐子内親王家に仕え、
たくさんの歌合わせに出席し、
勅撰集にも多く採られ、
歌壇で重んじられた。
この歌は『後拾遺集』巻十四の恋に、
「永承六年内裏歌合わせに」として出ている。
後冷泉天皇の永承六年(1051)五月五日、
久々におおがかりな歌合わせが催された。
関白左大臣の頼通が後見し、
若き二十七歳の主上を中心に、
花のような中宮、女房、殿上人が居流れて、
まるで一世紀昔の歌合わせを見るようであった。
そして永承六年の歌合わせは、
王朝の落日近き、最後の輝き、
といってもよかった。
この時、相模は五十代半ば。
(次回へ)