<朝ぼらけ 有明の月と みるまでに
吉野の里に ふれる白雪>
(夜がほのぼのと明けてきた
あたりは白く明るい
この明るさはありあけの月の光かと思ったが・・・
雪だった
月の光に見まがうほど
あたり一面薄雪が積もって明るんでいたのだ
ここは吉野なのだ)
・この歌は、むつかしい言葉もなく、
すらりと理解でき、起きてみたら雪だった、
という作者の感動と昂奮が伝わってくる。
この歌は『古今集』巻六・冬歌から採られていて、
「大和国にまかりける時に、雪の降りけるを見てよめる」
とある。
吉野といって連想ゲームをさせると、
現代人なら「桜」「花見」「酒」などと答えるかもしれない。
しかし王朝の昔の人は、
「古い離宮」をすぐ連想する。
かの天武帝が隠れ潜み、
持統帝が遊んだ吉野の離宮、
山深い峠を越えた青い山河、
そこは京に住む人々からみれば異郷である。
『万葉集』には吉野の山水を讃美する歌が数多くある。
王朝の風流びとはその歌を心象風土の原点に置いている。
だから「吉野の里にふれる白雪」
といったとき、人々は、
(ああ、あの古い代の離宮のある)という連想が、
精神の低音部になりひびいていることだろう。
それゆえ、いやが上にも、
「吉野の里の白雪」は美しいのである。
この歌の作者、坂上是則は醍醐天皇(十世紀)のころの人。
くわしい生涯はわからないが、
下級官吏から累進して地方長官になっている。
蹴鞠の名人でもあったというから、
多趣味な才人だったらしい。
貫之や躬恒、忠岑らと芸術家同士のまじわりを楽しみ、
三十六歌仙の一人となっている。
是則の歌は平明だが、
どことなく風韻があっていい。
「奈良から京にまかれりけるときの、
やどりける所にてよめる」として、
<み吉野の 山の白雪 つもるらし
ふるさとさむく なりまさるなり>
このふるさとは、
是則の郷土という意味ではなく、
古都、という意味である。
是則は大和権少掾だったことがあるから、
奈良へは公用の出張だったのかもしれない。
(次回へ)