むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

9、なま栗を食べる ⑥

2022年12月18日 13時14分14秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・しかし、秋月さんは、
全く、昔のままというのではなかった。

「指落いて腹立つのは、
テレビで歌手が歌うているのを見るときですなあ」

といっていた。
なんでや、というと、

「あいつら、マイクを、粋がって持って、
二本指ではさんだり、
三本指でちょいとひっかけたり、してまっしゃろ。
あれを見たら腹立ってなあ。
そんなことしたら拇指、可哀そうやないか、
ちゃんと持て!いうて、テレビに怒鳴ったんねん」

宴が果てて、みんな帰ってしまうと、
寒気が急にきびしく感じられた。

何しろ、
花を活けた花瓶の水も凍ってしまう所である。

秋月さんは、
私たちの持ち込んだ石油ストーブのほかに、
もう一つ、自宅のストーブを持ってきて、

「二つ、つけっ放しにしときなはれ、
そうでないと凍死しはるかもしれん」

とコマゴマ注意を与えて帰った。

そうして電気こたつにもぐりこむように、
布団を敷いて寝ろ、と注意した。

それでも、なお寒気はきびしく、
どことなく、しんしんと寒さが骨を噛むようであった。

川の水も凍りそうだった。
その代わり、
星のすさまじいばかりの美しさといったらない。

翌朝、布団も片づけないうちに、

「お早うございます!」

と秋月さんは元気よく、やってきた。

「いや、石油が切れとらへんかと思うて、
夜中にストーブの石油が切れて、
凍えはったらいかんというので、
女房(よめはん)が、早う行ったげなさい、
とせかすもんやさけ」

秋月さんは、
せっせと石油をつぎ足しながらそういう。

そしてガラス戸を開けようとして、
カーテンが凍ってガラスにくっついているのを見、

「お、お。
カーテンがくっついとるわ。
さすが川上は寒いな。
下のワシらのとこは、
これほどでもないが・・・」

そこへ局長らがまたまた、

「お早う!」と来たので、

「これ、見いや。
カーテンが凍りついとる」

と示して、興味深げだった。


~~~


・しかし、夫はそのあと、
しばらく渓谷の小屋へ行かなかった。

秋月さんが、指を飛ばして、
いろいろ考えたり苦労したり、
腹立てたり、やっさもっさして、
一人苦しんで一人解決をみつけたりしているのを、
見るのが辛い、という。

「あの歌手のマイクの話しよったやろ、
あれはやっぱり、ノイローゼやなあ。
本人気ぃつかへんけど」

と夫はいった。

しかし、私は、秋月さんが夫婦仲のいい人なので、
救われる思いである。

奥さんは小柄なかわいらしい人で、
秋月さんと同じように、
よく働く気の利いた人だが、
秋月さんの事故を聞いたときは、
卒倒した、といっていた。

私は、秋月さんの野性味が、
その事故によってそこなわれるのが遺憾であった。

身体障害者の不自由に目覚め、
障害者の無料洗車を志したり、
習字の練習に打ち込む、
そのこと自体はいいが、
何だか、たいそう立派な一日一善でもしそうに見えて、
もうターザンや冒険ダン吉のように、
体一つあれば自然の中で生きてゆく、
原始人間の野蛮な生命力を失ってしまいはしないかと、
淋しかった。

ことに「なま栗」の皮を爪で剥くことは、
文字通り出来なくなってしまったんだし・・・

しかし、秋月さんはやっぱり秋月さんだった。

「天然の鮎を食べにおいでなはい。
養殖もんのばっかり食べていると、
匂いも何も分からんで」

という電話をもらって、
夏になってから出かけてみると、
もうすっかり、秋月さんは元気になっていた。

包帯も取り、
何だか右手の感じはむくむくとして見える。

私は怖がりなのと、
失礼に当たってはいけないという配慮で、
まだ正視したことはない。

しかし秋月さんは四本の指で、
ものを持ち上げたりハンドルをとったり、
煙草を吸ったり、生まれた時からそうだったような、
傍若無人なさまでふるまっていた。

事実、
何か所もガソリンスタンドを経営する秋月さんにしてみたら、
指の一本二本落としたからといって、
じっと正座して、来し方行く末を考えてるひまなぞ、
ないのであろう。

その日は早めに風呂に入り、
またまた、鱒の刺身や、鮎とヤマメの塩焼きで、
酒を飲んだ。

谷間のご馳走は、海魚こそないけれど、
川魚は豊富だ。

そうして鮎の天然ものときたら、
白い魚肉もハラワタもみな、
ぷ~んと香りが立つようである。

これは宮本さんが釣ってくれたものだった。

いい気持で歌が出て、
楽しくやっていると、
とっぷり暮れたころ、

「こんばんわ。こんばんわ」

と男の声が玄関で聞こえる。

ここは隣家といっても、
四百メートルも離れている山中の一軒家であるが、
夜、このへんの川上まで遡ってくるハイカーはいない。

男たちは歌と手拍子をやめ、
秋月さんがすぐ立っていった。

「何ですか?」

「あのう、すみませんが、煙草を分けて下さい」

という声は若い男である。

「サラの煙草はないから。これを上げる」

と秋月さんは持っている煙草を与えた。

「お金払います」

「いや、飲みさしやからあげるよ。
しかし、あんた、どこに泊っているのや。
車の音もせなんだが、歩いて来たのか?
渓谷食堂に泊っているなら、
煙草の買い置きがあるやろうに」

秋月さんはさっそく、
好奇心を出して聞いていた。

男は東京弁である。

「いえ、あのう、野宿しています」

「キャンプ張ってるんか」

「どういうかな、ムシロかぶって寝てるんです」

「ヒッピーか、お前ら。
この村にややこしいもん入られてはこまるなあ。
そのためにワシら、札束で頬っぺた張られても、
川筋の土地は売らんように見張っとるのやさけ」

秋月さんは怒っているのではなく、
好奇心を持って聞いているのである。

私たちは、玄関へ出てみた。

体格の貧弱な、眼鏡をかけた若い男である。

男は、どやどやと中年男女が出て来たのに、
少しびっくりしたようであったが、

「あのう、別に怪しいもんじゃないです。
友人と二人、川原で泊ってるんです。
ヒッピーなんかじゃありません。
僕は東大医学部に在学中のものです」






          


(次回へ)

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