・しかし、秋月さんは、
全く、昔のままというのではなかった。
「指落いて腹立つのは、
テレビで歌手が歌うているのを見るときですなあ」
といっていた。
なんでや、というと、
「あいつら、マイクを、粋がって持って、
二本指ではさんだり、
三本指でちょいとひっかけたり、してまっしゃろ。
あれを見たら腹立ってなあ。
そんなことしたら拇指、可哀そうやないか、
ちゃんと持て!いうて、テレビに怒鳴ったんねん」
宴が果てて、みんな帰ってしまうと、
寒気が急にきびしく感じられた。
何しろ、
花を活けた花瓶の水も凍ってしまう所である。
秋月さんは、
私たちの持ち込んだ石油ストーブのほかに、
もう一つ、自宅のストーブを持ってきて、
「二つ、つけっ放しにしときなはれ、
そうでないと凍死しはるかもしれん」
とコマゴマ注意を与えて帰った。
そうして電気こたつにもぐりこむように、
布団を敷いて寝ろ、と注意した。
それでも、なお寒気はきびしく、
どことなく、しんしんと寒さが骨を噛むようであった。
川の水も凍りそうだった。
その代わり、
星のすさまじいばかりの美しさといったらない。
翌朝、布団も片づけないうちに、
「お早うございます!」
と秋月さんは元気よく、やってきた。
「いや、石油が切れとらへんかと思うて、
夜中にストーブの石油が切れて、
凍えはったらいかんというので、
女房(よめはん)が、早う行ったげなさい、
とせかすもんやさけ」
秋月さんは、
せっせと石油をつぎ足しながらそういう。
そしてガラス戸を開けようとして、
カーテンが凍ってガラスにくっついているのを見、
「お、お。
カーテンがくっついとるわ。
さすが川上は寒いな。
下のワシらのとこは、
これほどでもないが・・・」
そこへ局長らがまたまた、
「お早う!」と来たので、
「これ、見いや。
カーテンが凍りついとる」
と示して、興味深げだった。
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・しかし、夫はそのあと、
しばらく渓谷の小屋へ行かなかった。
秋月さんが、指を飛ばして、
いろいろ考えたり苦労したり、
腹立てたり、やっさもっさして、
一人苦しんで一人解決をみつけたりしているのを、
見るのが辛い、という。
「あの歌手のマイクの話しよったやろ、
あれはやっぱり、ノイローゼやなあ。
本人気ぃつかへんけど」
と夫はいった。
しかし、私は、秋月さんが夫婦仲のいい人なので、
救われる思いである。
奥さんは小柄なかわいらしい人で、
秋月さんと同じように、
よく働く気の利いた人だが、
秋月さんの事故を聞いたときは、
卒倒した、といっていた。
私は、秋月さんの野性味が、
その事故によってそこなわれるのが遺憾であった。
身体障害者の不自由に目覚め、
障害者の無料洗車を志したり、
習字の練習に打ち込む、
そのこと自体はいいが、
何だか、たいそう立派な一日一善でもしそうに見えて、
もうターザンや冒険ダン吉のように、
体一つあれば自然の中で生きてゆく、
原始人間の野蛮な生命力を失ってしまいはしないかと、
淋しかった。
ことに「なま栗」の皮を爪で剥くことは、
文字通り出来なくなってしまったんだし・・・
しかし、秋月さんはやっぱり秋月さんだった。
「天然の鮎を食べにおいでなはい。
養殖もんのばっかり食べていると、
匂いも何も分からんで」
という電話をもらって、
夏になってから出かけてみると、
もうすっかり、秋月さんは元気になっていた。
包帯も取り、
何だか右手の感じはむくむくとして見える。
私は怖がりなのと、
失礼に当たってはいけないという配慮で、
まだ正視したことはない。
しかし秋月さんは四本の指で、
ものを持ち上げたりハンドルをとったり、
煙草を吸ったり、生まれた時からそうだったような、
傍若無人なさまでふるまっていた。
事実、
何か所もガソリンスタンドを経営する秋月さんにしてみたら、
指の一本二本落としたからといって、
じっと正座して、来し方行く末を考えてるひまなぞ、
ないのであろう。
その日は早めに風呂に入り、
またまた、鱒の刺身や、鮎とヤマメの塩焼きで、
酒を飲んだ。
谷間のご馳走は、海魚こそないけれど、
川魚は豊富だ。
そうして鮎の天然ものときたら、
白い魚肉もハラワタもみな、
ぷ~んと香りが立つようである。
これは宮本さんが釣ってくれたものだった。
いい気持で歌が出て、
楽しくやっていると、
とっぷり暮れたころ、
「こんばんわ。こんばんわ」
と男の声が玄関で聞こえる。
ここは隣家といっても、
四百メートルも離れている山中の一軒家であるが、
夜、このへんの川上まで遡ってくるハイカーはいない。
男たちは歌と手拍子をやめ、
秋月さんがすぐ立っていった。
「何ですか?」
「あのう、すみませんが、煙草を分けて下さい」
という声は若い男である。
「サラの煙草はないから。これを上げる」
と秋月さんは持っている煙草を与えた。
「お金払います」
「いや、飲みさしやからあげるよ。
しかし、あんた、どこに泊っているのや。
車の音もせなんだが、歩いて来たのか?
渓谷食堂に泊っているなら、
煙草の買い置きがあるやろうに」
秋月さんはさっそく、
好奇心を出して聞いていた。
男は東京弁である。
「いえ、あのう、野宿しています」
「キャンプ張ってるんか」
「どういうかな、ムシロかぶって寝てるんです」
「ヒッピーか、お前ら。
この村にややこしいもん入られてはこまるなあ。
そのためにワシら、札束で頬っぺた張られても、
川筋の土地は売らんように見張っとるのやさけ」
秋月さんは怒っているのではなく、
好奇心を持って聞いているのである。
私たちは、玄関へ出てみた。
体格の貧弱な、眼鏡をかけた若い男である。
男は、どやどやと中年男女が出て来たのに、
少しびっくりしたようであったが、
「あのう、別に怪しいもんじゃないです。
友人と二人、川原で泊ってるんです。
ヒッピーなんかじゃありません。
僕は東大医学部に在学中のものです」
(次回へ)