あれから25202日 その①
知らなかったが今年から4月29日が昭和の日になっていた。いつの間にか昭和も遠くなってきたと言う事だろう。爺も大学の同窓会では長老の席に座るん年齢になてしまった。
日支事変の翌年に生まれだから、あれから69年間・2500日以上も生きて来た訳だ。小学校は終戦間際の国民学校に入学した。爺の誕生は親父が35歳・お袋が33歳の時だが、6人兄弟の6番目で当時体重が1貫目を越した子供は珍しかったらしく、親父の自慢の赤ん坊だったそうだ。
◎25201日目の夕陽◎
ところが、3歳を過ぎた頃、肺炎を患い生死をさまよったらしい。一度息が止まったのを、親父は背中に辛子シップを塗りこみ、背中を叩き続け息を吹き返したそうだ。
然し、健康優良児間違いなしと言われたらしいが、その時の体重をなかなか越す事は出来なかったらしい。細い腕や脚それに薄っぺらな胸はその頃の名残で爺のあだ名が「モヤシ」と呼ばれた由縁はその頃にあったようだ。
然し、そんな細い身体もそれ程驚くべき病気を患うことなく、それなりの人生を送りながら 25200日を生き抜いてきた。
戦争を少し記憶し、戦後の混乱とお腹を空かした時代を生き抜き、戦後の復興をと高度成長を走り抜いた企業戦士でもあった。昭和元禄と称されたバブルの絶頂を満喫しながら、その崩壊と共に職場を卒業した所謂、昭和の人間の一人でもある。
作詞家の「阿久悠」さんは還暦を迎えられた時のエッセイで「これから書く全ての文言は遺言である」と言っておられた。確か爺よりひとつ年上と記憶しているが、愚生も親子の会話の少なかった息子や娘の為に、自分の昭和史を思い出して書き残してみることにした。

今夜は5年生になったた孫娘がケーキを作って、女房殿が尾頭付きの魚で祝ってくれるそうだ。少し照れくさいがケーキに7本のローソクを立てて誕生日の歌を歌う事にした。
知らなかったが今年から4月29日が昭和の日になっていた。いつの間にか昭和も遠くなってきたと言う事だろう。爺も大学の同窓会では長老の席に座るん年齢になてしまった。
日支事変の翌年に生まれだから、あれから69年間・2500日以上も生きて来た訳だ。小学校は終戦間際の国民学校に入学した。爺の誕生は親父が35歳・お袋が33歳の時だが、6人兄弟の6番目で当時体重が1貫目を越した子供は珍しかったらしく、親父の自慢の赤ん坊だったそうだ。
◎25201日目の夕陽◎

ところが、3歳を過ぎた頃、肺炎を患い生死をさまよったらしい。一度息が止まったのを、親父は背中に辛子シップを塗りこみ、背中を叩き続け息を吹き返したそうだ。
然し、健康優良児間違いなしと言われたらしいが、その時の体重をなかなか越す事は出来なかったらしい。細い腕や脚それに薄っぺらな胸はその頃の名残で爺のあだ名が「モヤシ」と呼ばれた由縁はその頃にあったようだ。
然し、そんな細い身体もそれ程驚くべき病気を患うことなく、それなりの人生を送りながら 25200日を生き抜いてきた。
戦争を少し記憶し、戦後の混乱とお腹を空かした時代を生き抜き、戦後の復興をと高度成長を走り抜いた企業戦士でもあった。昭和元禄と称されたバブルの絶頂を満喫しながら、その崩壊と共に職場を卒業した所謂、昭和の人間の一人でもある。
作詞家の「阿久悠」さんは還暦を迎えられた時のエッセイで「これから書く全ての文言は遺言である」と言っておられた。確か爺よりひとつ年上と記憶しているが、愚生も親子の会話の少なかった息子や娘の為に、自分の昭和史を思い出して書き残してみることにした。

今夜は5年生になったた孫娘がケーキを作って、女房殿が尾頭付きの魚で祝ってくれるそうだ。少し照れくさいがケーキに7本のローソクを立てて誕生日の歌を歌う事にした。
お誕生日 おめでとうございます~♪♪
前にもこの話聞いたように記憶しています。
お父様の良い思い出がお有りで良いですね。
そして 元気に息吹き返されて、良かった!!
その調子で、可愛いお孫さんや奥様方のためにも、お元気で長生きしてくださいね~♪♪
★
この歳になってお目出度くもないのですが、短命の我が家の家系ではこの年齢は剣が峰なのです。医学の進歩で次兄・3兄は大病を克服しましたがDNAの怖さを良く知っているのです。
昨夜は娘の家族と姪っ子の親子で祝ってくれました。娘から千枚以上撮れるチップを貰いました。
同じことを何度も言うのは年寄りの習性、ごめんあそばせ!
今日は良い天気・・・お返しに八方ヶ岳に行ってジンギスカンでもしようかな~ コメントありがとう グウ爺拝 ★