gooブログはじめました! グウ爺の独り言

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10月の映像から

2007年10月31日 | 写真
 いつまで経っても秋が来ないと思っていたら今日で10月も終わってしまう。『光陰矢のごとし』とはよく言ったものだ。
さすがにこの頃になると朝夕はめっきり冷え込み始め今日は炬燵を出して11月に備えることにした。
アルバムを整理しながらその中から数枚をUPすることにした。


☆夜明けの遺跡公園今夜は満月とか☆Pa225788

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遺跡公園では観月会が資料館の主催で行われ、大正琴が奏でられれると真っ赤な満月が上ってきた。
 ☆赤い月☆
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 ☆山桜の向こうに月が昇ってきた☆
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今夜は立待ち月とか 今年最後の月下美人がその月夜に似合うように咲いてくれた。
  ☆良い香りを漂わせて☆Pa295838
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七城の菊池川の河川敷で今年もコスモス祭りが行われた、連作が難しいのか年々花の勢いが衰えて来る気がした。
 ☆コスモス橋をバックにトリック写真で☆
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 ☆コスモスはやはり秋の桜☆Pa185739_2
 ☆白鷺も遊んでいた☆Pa185766www_2
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若かりしあの頃

2007年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
トイレの中に居たら爺に気がつかないで人事課長と営業部長の会話が聞えてきた。
「今年の新入社員は生意気だ 早く移動させなければ・・・」との会話の内容だった。爺は大阪支店配属と聞えた。

あの息子さんが帰ってきた歓迎会の席上で問題が起きたのだった。歓迎会は日本橋の鰻屋で行われ其処で事件は起きた。それまで我々が上司として尊敬していた専務や常務が頭をぺこぺこ下げながら「お流れ頂戴」をしている姿を見て騒ぎ出したのだ。ちょうど37(さんななかい)会と名を付けた新入社員の会を作っていた我々は「見っともない」と抗議したのだった。

そうするといきなり先輩が一列に並べと言い出し、今から気合を入れると言い出した。ところがそれが返って火に油を注いでしまったのだ。K大の空手部だったO君が身構え、M大の柔道部だったT君も一歩前に出た。慌てた総務部長な中に入って、その場を納めたのだった。

そんな事があって、あの移動の話が出たのだった。翌日には前例がないと37会は解散され、年が明けた38年の3月に移動が発令されたのだった。嫁を貰う予定にしていた爺は大阪での生活が不安だったので故郷に近い門司支店を希望したら、不人気な支店だったらしく即座に変更は受け入れられた。
☆よく通った門司税関☆
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会社の社長の席が空いていたのはあの息子さんの為だったのだ。我々と歳の差がほとんど無いしその様子は腑に落ちない事で、若さに任せて暴挙に出たのだったのだろう。間もなく彼は大手商社の会長のお孫さんを嫁に貰い、将来とも実業家で行くと宣言し若手経営者のホープとして業界からも注目を受け実質的に社長になった。

あのLT貿易で中国との取引を拡大し、穀物や魚貝類の取引、得意の競馬馬の輸入や育成には大いに活躍した。会社の前にはFIをずらりと並べ、鈴鹿にサーキット場を建設すると発表して注目を受けた事もあった。

特異な出来事として、中共からLT貿易で自国の船で2万トンの玉蜀黍を船積みして門司港に来る事になったのだ。その準備のためにあの専務が支店長としてやって来た。歓迎と警備の為でその緊張は当分続いたが、その船は五島列島の沖で座礁して沈没した。専務はじめ支店の職員は実際の所ホットしたが貨物船はいろんな一次産品を積んでやって来た。沈没した船の名前は躍進号だったと記憶している。
☆今も変わらない門司港駅☆ Pa0900251


支店では九州各地や中国地方に入港する船舶の輸入業務の仕事を中心にいろんなことをやった。まだ完成はしてなかったがインスタントのカレーやセメントからプレハブ住宅・熱帯魚からその餌(台湾で作らせた乾燥ミミズ)まで。爺の主な仕事は家畜飼料の原料の穀物が主体だった。韓国と魚網の輸出契約が出来、船積みの前夜その魚網をずたずたに切られ万事窮した事もあった。朝鮮半島に於いても南北の対立が激しかった時代だったから中国との取引も神経がピリピリしていた時代だった。

☆長男 ○太郎の名前の由来☆
息子さんは実質的にも社長になって子供さんが生まれ太郎と名をつけられた。間もなくして爺にも長男が産まれ、爺の一字を取って○太郎と名をつけた。それもいつの間にか我等のホープになっていたからで本当に総合商社に向かってひたすらに走っていた。

ところが40年の7月悲劇が起きた。あの大物政治家が遊説先で亡くなったのだ。悪い事に生涯実業家といっていた若社長は親父さんのあとを継いで政治家にになったのだった

もともとそんなに実力が有った訳ではないから仕事も窮屈になってきたし、2年ほど経って、トヨタの販売会社を作っていた油脂課の先輩の誘いを受けてこの会社を去る決心をしたのだった。バンコック支店への転勤の内示があって断ったのが最大の理由だったが、もう親父も反対はしなかった。

あれから40年、彼は衆議院議長を務め、太郎君も3世議員として親子鷹を演じている。新自由クラブ発足時は昔の仲間と数口献金をしたが、いつの間にか信条的にも遠い人になってしまった。何故、彼が極端な親中派なのか?あのころの人脈の所為だろうかと思ったり、巨額の個人資産は?と頭を傾げる事はあるが爺の人生でも一番懐かしい人物であることには違いない。あの時代の爺の仲間はいろんな職場に拡散して行ったらしいが、その後のことはあまり知らない。

ただ今年亡くなられた城山三郎さん著の「毎日が日曜日」は爺の上司がモデルではないかと思っている。あの時代の仲間達は今どんな毎日を日曜日として送っているだろか。同窓生のK君は東京でコンビにを展開していたが50店舗目を展開中、高速道路で事故を起こし引退したと連絡があった。柔道のT君は大阪支店から畜産関係の仕事をしていて、爺が現役引退するまで応援してくれ、昔の仲間の情報を知らせてくれた。37会の仲間で最初にニューヨーク支店に行ったA君は癌で倒れたとか
☆城山三郎著の毎日が日曜日☆
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長男の○太郎には二人の息子が生まれこの二人の孫も○太郎と名がついている。3世の太郎議員の活躍を祈りたい。



47年も前のことだが

2007年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
◎あいだ みつを さんの詩◎
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学校の就職案内の掲示板には「世界に飛び出す若さあふれる商社」給料は一万六千円と書いてあった、別に世界に飛び出そうとは思わなかったが若い会社が気に入ったし、支店が九州にもあるのもその気になった原因だったかも知れない。とにかく申し込みをした。社員総数400人 資本金4億円だった。

入社試験は簡単な論文と面接だけで、筆記試験は小論文で「最近思った事を書け」だった。何を書いたか記憶は薄いが その頃、ソ連で有人宇宙飛行が成功したばかりで、宇宙時代と国境についてと書いたと記憶している。

面接では吃驚した。相手が時の大物政治家だったからだ。
いきなり、手を見せろと言われ、じっと手のひらを見ていた彼は「不採用」と言った。理由は手のひらが体の割には小さかったのが気に入らなかったらしい。隣に座っていた副社長との会話が「こいつは労働も運動もしていないと言い切り、副社長は眠り狂四朗タイプで面白い奴と思うと小声の会話が聞えた。
 ◎孫娘の1年生の時の手形◎A_2


昭和36年の暮れの事だった。オリンピックを控え、経済が急速に伸びて、中小企業が大卒を積極的に採用し、証券会社が数千人単位で大量に採用を始めた時代だから別に慌てる必要は無かった。然し、採用の通知が来た。後に副社長の長男さんが学校の先輩で応援したらしかった。体育会系でオリンピック担当大臣だった実質的にはオーナーだったその大物は元々爺の母校が嫌いだったらしい。

ところがこの話を親父にしたら何故か最高に喜んでくれた。その政治家一派を親父が戦前から私慕した政治家の集団だったからだった。

そんな経緯があって爺の会社勤めの生活が始まった。昭和37年3月1日16人の仲間と一緒だった。不思議な事に4年間仲良く一緒に遊んだ同じクラスの仲間が3人居たが内ち一人は傍系の会社に配属になった。

目白駅から新宿で乗り換え、東京駅で下車しサラリーマンが始まったのだった。入社初日に高齢の会長が会社に来て○○屋の息子はいるか? と爺の実家の屋号を大きな声で呼ばれその会長は故郷のお寺さんの出身だったそうで、大きな声で激励された。びっくりしたのは小学生時代同じ学年だった女性がOLで居たりして、会長が田舎の方あることを教えてもらった。爺の採用にも力を入れて貰ったのかも知れない。この会社で不思議な出会いが重なった。

会社には社長の席は無かった。実質的にはあの大物政治家が実質的にはオーナーだったのだろう。あの日以来一度も会うことはなかった。そして爺はあの落花生等を扱う穀物部の油脂課に配属なったのである。

所が、その年の暮れ彼の息子さんが出向先の大手商社から帰ってきたのだった。そして事件が起きて望み通りに門司支店に配属されたのだった。




4ヶ月ぶりです

2007年10月01日 | 写真
4ヶ月振りの投稿です。何故かブログ人が開かなかったのです。借りていた娘のパソコンを返して旧型のパソコンを手直しして使ったところ MEからXPに切り替えた際インターネット時計を2008年にしてしまった為のようです。
今の爺には007年も008年も大して違わないと思っていたのでしょう。

川で初めて泳いだ 4人の孫達Mixi_p8174962

この4ヶ月の間、我が家では月下美人が咲き。夏休みにはあの釣り名人の愛知の孫兄弟もやって来た。7月末の大雨であの鯉太郎一族はあふれた池から農水路に帰ってしまった。狭くて綺麗な湧き水の出る池よりも、やはり自由に走り回れる川の方が良かったのだろう。然し、口笛を吹くと顔を出すから可愛い。1年間も毎日口笛を吹きながら餌をやっていた所為だろうと勝手に思い込んでいる。孫達はお盆だからと釣りをするのは止めると言っていた。
月下美人P9245584_sss


本当は異常なほどの暑さで釣り場での日射に耐えられず、八方ヶ岳の矢谷渓谷での水遊びの方が楽しかったのだろう。近くの山女の釣堀で吊り上げて塩焼きや唐揚げを満足!満足!といって楽しんで帰った。
山の池で
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山女の釣堀P8174857


サワガニ獲り
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9月になっても厳しい暑さは続き27日間も新記録の真夏日が続いたとか。地球温暖化の恐怖がじわじわと近づいてきた感じだった。それでも、お彼岸には庭先には紅白の花が咲き、稲穂が垂れたあぜ道の彼岸花にはアゲハチョウが季節を教えてくれた。
白い彼岸花に
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畦道で
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今朝は百舌が 帰ってきたのか辛夷の木の天辺でキキーキーと鳴いて爺への挨拶と縄張りを宣言していた。やっと秋らしい季節感を感じる事が出来るようになった。彼岸花が枯れてしまって遺跡公園の山桜が10月桜の花を数輪つけていた。
10月桜
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★夏休みの思い出 山のプール★
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★夏休みの思い出 釣堀と川遊び★   
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