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太平洋戦争 空襲二度の罹災 国分 等

2023年09月07日 08時24分29秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

太平洋戦争 空襲二度の罹災 国分 等

『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9


(当時・東京都淀橋区柏木三丁目在住)
 
昭和二十年四月と五月、淀橋区柏木三丁目、今の新宿区北新宿一丁目で二回空襲に遭い、二回焼かれた。家族は私ら夫婦に、十六歳の長男を頭に男女五人の子供で、長男は病気のため中学五年を休学、ニ女は学童疎開で群馬県草津にいた。
 空襲は必至と考え、家族は庭の防空壕にかくれる手筈であったが、長男は医師から絶対安静を命ぜられていたので防空壕に入れることはできず、とりあえず押入れにかくして爆撃の危険を防ぐことにした。この方法はこれまで警報が出るたびに実行してきた。庭から長男の名を呼ぶ。返事をきけば何となく安心した。 四月十四日、夕食のあとで空襲警報が出た。隣組組長の妻君が「退避!退避!」と叫んで走る。切迫した空気を感ずるが、どうも爆弾攻撃のようでない。爆撃音がきこえない。そのうちにご焼夷弾だ、火事だ゛というどよめきが伝わってきた。
防空壕や押入れではだめだと判断して防空壕に蓋をして土をかけた。病児を、家族をと考えるが、なかなかまとまらなかったが、近所の人がリヤカーを貸してくれたので、長男を乗せ家族が離れないよう群集の列に流されて、隣の街の小学校に避難した。
 長男の容態は悪化したように見えないので、私は一人家へ引き返した。日頃の防空訓練を一度も実行せずに、家を焼かれることは何としても口惜しかった。せめてバケツーぱいの水でも住み慣れたわが家に掛けてやりたかったのである。家にはまだ火がついていなかったが、疾風が火の粉を抱いて地上を走っていた。夢中で家の中から父の遺した柱時計をかかえて外に飛び出した。家のまわりはもう濃い煙に包まれて、炎がだんだん大きくなっていった。
 夜が明けて焼跡に立って見廻すと、四谷、牛込の方から大久保、柏木、東中野の方へ黒々と拡っているが、この柏木地域は半分くらい焼け残っているようだった。防空壕の中は無事で若干の食糧と衣料が助かり、また知人の好意で近い所にその日から住める家も見つかった。
日本がこの戦争に勝つために祖先が神々に捧げた犠牲と解釈すれば、昨夜の被害を耐える気力が湧いた。
 表通りの焼跡に立っていると、焼け出された人達が続々と歩いていた。一人の男が逢う人ごとに万歳を叫ぶ。私の傍にきて「万歳・沖縄の米軍は全面降伏しました。よかったね」と私の手を握って行き過ぎた。一瞬、私はとまどった。信じたかった。そういう発表があることをどんなに望んでいたことか。だが、すぐ冷静に返った。あの追い込まれた戦局が一夜にくつがえるはずはない。私は関東大震災のとき、流言飛語が軍隊をさえ迷わしたことを知っていた。とはいえ、今日の飛語は、空襲に打ちひしがれた人々に寸時の光を与えたこともたしかである。
 そのころ私の会社は、工場を飯田市に疎開する作業を進めていた。社員の家財道具も逐次送り出して、五月二十六日私の荷物を運ぶことになった。その前日二十五日、多くもない焼け残りの品を梱包して玄関の間に積み上げた。その夜また空襲警報がなり出した。間もなく敵機は頭上を飛び、焼夷弾の落下音が近く追ってくる。先月の経験はあったものの、だいぶ条件は悪くなっていた。長男の病状は少し悪化していたし、妻の実家の嫁と子供一人が身を寄せていて、家族は九人に増え、防空壕も形ばかりでほとんど役に立たなかった。
 私はためらわずに家族を先月の焼跡につれて行き、長男を寝かせてまた一人家に引き返した。バケツーばいの水を提げていた。まだ火がつかない家の縁側に立って、何か品物を持ち出そうと見廻したが、気持ちをかえて玄関に積んである荷物にザッとバケツの水を投げ、外に走り出た。煙がもうもうと巻いている。二男が飛んできた。お父さんがあぶないとどなる。早くお母さんの所へ戻れと押し返し、少しの間家が炎に包まれる有様を見てから眼を上げると、自分の周囲は全く煙に包みこまれて方角もわからない。二男があぶない、と一方へ走り出したが、もう全く見通しがつかなくなり、無我夢中で土地感を頼りにようやく血路を開いて家族の傍へ戻った。そこに二男の元気な顔を見て、思わずその頭に手を置いた。
 焼跡には幾かたまりも家族がうずくまり、次々と焼夷弾を投げては東の暗闇に溶け込む敵機を見上げて、「畜生・ 畜」と憎しみの歯がみをした。高射砲も撃たず、迎撃機も飛ばない東京の夜空、敵機はその翼を火炎に赤く染めながら、頭上スレスレの低空に跳梁した。
 夜が明けていっさいが灰と化した。わが家の焼跡に、昨夜入浴した風呂桶のタガと釜だけが灰に埋まっていた情景は、三十年後のいまなお鮮かに思い出されるのである。

太平洋戦争  空襲 君の死 伊瀬知 徹

(当時・神戸市兵庫区松本通在住)
 二十年六月五日、焼け残っていた神戸市の東半分がB29の爆撃により全滅した。
翌六日、工場になっていた長田の中学校三年生の私達は、ポツリポツリと学校に集って無事を喜び合ったが、某君の消息だけがわからなかった。肺結核で、長身の上体を折り、薄い胸をおさえて咳込むのをみんな敬遠していたが、それだけにいっそう身の上が案じられた。結局、同じ事務所で働いていた私が様子を見に行くことになった。彼の家は灘区の護国神社(現王子動物園)のすぐ上である。学校からは七粁くらいの距離だったが、国鉄も市電も動いていな
いので、徒歩で行くより仕方がない。昼過ぎには帰れる予定で出発した。
 国鉄神戸駅の北にある大倉山公園のあたりまでは、三月十七日の焼夷弾爆撃で焼けてしまったので、様子は見知っていたが、新たに焼かれた下山手通にさしかかると、まだあちこちから煙がたち昇っている真黒な焼野原がずっと向こうまでつづいている。今回は焼夷弾に混って爆弾もかなり落したとかで、西神戸のようにポツポツと焼け残った家は全く見られない。噂のとおり石屋川まで何もなくなったというのは本当かも知れない、とその時始めて昨日の空襲の激しさを想像することができた。
 下山手通八丁目の親和学園南の市電筋にあった産婦人科医院の焼跡で、十人あまりの焼死体を見たときは、やはりショックだった。前回の空襲の後、夢野の火葬場の中庭に数百の焼死体が集められた。
衣類も頭髪も全部焼け失せ、褐色の蟻人形のような死体の山に薪を投げ込み、油を注いで処理する光景を見ているので、もう焼死体には驚かないつもりだったが、妊婦や病弱の婦人達が折り重って死んでいるのを見ると、新たに悲しみと憎しみが胸にたぎった。赤ん坊の死体のなかったのが、せめてもの救いだった。
 広い市電筋は、よくこれだけの人が生きていたものだと思われるほど、大勢の人達でごった返していた。やっと持ち出した蒲団やトランクを荷車に乗せて運ぶ男、半分壊れた釜や、ひしゃげたアルマイトのやかんや、食器類をリヤカーに乗せ、焼けたトタン板で覆ってやってくる老夫妻、モンペを血だらけにして小走りにいく娘、頭を包帯で巻いた巻脚絆の学生、泣きながら走り廻る迷子。そして道路の両側には、焼跡を茫然と眺めて立ちすくむ人の群があった。負傷しなかった者も、みんな煤と泥で真黒な顔に、目だけがギョロリと光っていた。
 一面にただよう独得のキナ臭い煙を吸いながら、つぎだらけのズック靴の、薄い裏ゴムを通してくるアスファルト道の熱気も、喉のかわきも忘れ、一種の興奮状態でひたすらに歩きつづけた。
 布引のあたりで偶然遠縁の者に会った。命からがら何も持たずに逃げ出し、家族はみんな無事だったとのこと。一しきり昨日の空襲のひどさをきかされた。最初小型爆弾で家が壊され、そこへ焼夷弾の雨が降りそそぎ、ちょうど薪をばらまいて一せいに火をつけたような騒ぎだったという。爆弾の直撃を受けて防空壕に入っていた人が全滅したり、家の床下の防空壕で最後まで頑張って逃げ遅れた人、炎の道を駆けていて頭に焼夷弾の直撃を受けて即死した人など、私達の家が焼かれた三月十七日の空襲に数倍する凄さに、溜息をつくばかりだった。
 一戸に四斗樽一杯の防火用水、数箇の砂袋と、竹竿の先に藁縄で編んだ綱をくっつけた火たたきと、バケツによる注水で空襲の被害は防げると教え込まれたとおりを忠実に守ろうとした人達ほど、生命財産の被害が大きかったときかされて、返す言葉もなかった。
 東へ進むにつれて破壊の度はひどいようだった。爆弾の数が多かったせいであろう。もう、五体、+体と焼死体を見かけても驚かなくなる。やっとの思いで護国神社のあたりへ着いた。記憶をたどり、某の家を探し当てたが、石段の上にコンクリート塀の一部があるだけだった。しばらく歩き廻ってあたりをいく人に声をかけるが、付近の住人は見当らず、消息はつかめなかった。再び某の家の石段を上った。せめて死体か遺骨の一部でも見つかれば、というつもりだったが、まだくすぶりつづける焼跡は高温で、とても踏み込めない。止むを得ず石段の上で合掌して帰途についた。もう正午はとっくに過ぎていた。
 彼の消息は、三十年後の今も全くわからない。記録にはこの爆撃の被害は、死者三千百八十四、負傷者五千八百二十四、被災者二十一万とあるが、彼のように誰も葬ってくれる人のないまま眠り続けている仏も、少なくないと思われる。


一億人の証言 ガソリンの雨 燃える空と地の間で 私の空襲体験記 宍戸 かつみ

2023年09月07日 08時23分17秒 | 山梨県歴史文学林政新聞
一億人の証言 ガソリンの雨
 
燃える空と地の間で
私の空襲体験記 宍戸 かつみ
 
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
 
(当時・東京都江東区亀戸町在住)
 昭和二十年三月十日。史上空前ともいうべき東京下町一帯の大空襲に江東区亀戸町で被災し、幸いにも五人家族全員生き残り、当時、小石川西丸町にあった叔父の家(母の実弟)を頼って、やっと落着くことが出来ました。
が、それも束の間、あの呪わしい日からわずか一カ月ばかりの四月十三日夜半、ふたたび大空襲に見舞われました。
 ちょうど叔父は会社の仕事で地方に出張中、家族は京都に疎開しており、私どもは居候兼留守をあずかっておりました。
私は当時、女学校四年生(17歳)で、学徒動員で本所にあったD機械工場で働いていましたが、学校も工場も焼けてしまいました。祖母は三月十日の空襲にこりて福島県の山の中に疎開させ、兄は海軍省の上役の方のお宅に下宿させてもらっており、一家離散の有様でした。
後は娘の私と薬剤師である父、当時心臓病で弱かった母と三人のわび住いの毎日でした。
 四月十三日の晩は風もなくおだやかで、妙に不気味なほど静まりかえった夜でした。あれはちょうど10時過ぎだったと思います。警報が出て、毎度のことながら身化度をして、父母と様子を見ておりま
した。間もなくB29の爆音と味方の高射砲のお腹にひびくような、ズシンズシンと、にぶい音が入り乱れて、だんだん近づいて来た様子です。その時なにかがピカッと光り、突如家の中がパァッーと真昼のごとく明るくなったので、とっさに外にとび出してみると、左手の上富士前の方角に照明弾がキラキラと落下して行くのが目に入りました。理研の建物がある場所あたりです。それと同時に空襲警報のサイレンが、けたたましく鳴りひびき、親子三入防空壕へすべり込んで、父と私だけ入口から首を出して空を見上げておりました。
 敵機の爆音からして、今夜はどうも大編隊でやって来たらしく、地鳴りや轟音がいつもと違うようで、イヤな予感がするなと思った瞬間です。
突然、頭上でガラガラッ、ザァーッザァーッと耳をつんざく音とともに、ドスンドスンと、二、三度身体に猛烈なショックを受けて、頭をどこかへぶつけました。壕がユサユサゆれ動き、天井から土砂が降って来ます。
 「やられたナ」と思ったとき、父が「ここにいたらあぶないっ、外に出ろ」と、母と私の手を引っぱって壕の外に出ました。前の路地に出ると、お向いのタンス屋さんの家に直撃弾が落ちたのです。ゴーツとものすごい音をたてて、あっという間に紅蓮の炎が吹き上げ、もう二階が崩れ落ちてないのです。無我夢中で走り、四つ角まで来ますと、もう大勢の人達がひしめき合っていました。
大塚、巣鴨、六義園方面は空も地も見渡す限り火の海で、わずかに南の後楽園(春日町方角)方面だけがほの暗いだけ、人々は完全に猛火の円の中に立たされてしまったのです。いつもは沈着冷静な父も顔色を変えて、
 「こっちへ移って来てまだ日が浅く、地理がよくわからない。運を天にまかすしかないから、覚悟だけはしておけよ」といい渡すのです。
逃げまどう人々の流れに押され、突きとばされ、雨のように落下する焼夷弾の洗礼を死物狂いでよけながら、同じような場所を行ったり来たりしていたらしいのです。気がつくと市電氷川下停留所の所に立っていた私達でした。すぐ近くに、当時の鈴木賃太郎首相の邸があるのです。そのとき警防団員の人が途方にくれている私達に、「皆さん早く徳川邸に避難して下さい」と、大声で呼んでくれたのです。大きな門を入ってみると、もうたくさんの人々が避難
しておりました。雑草の生えた池のほとりに、やっと坐る場所を見つけ、いざとなったら水中にとび込む覚悟でいました。
 やがて邸の回りの樹木に火が燃えうつり、パチパチと音を立て始めました。劫火が風を呼び、煙と熱風が激しく吹きつけます。敵機は未だ頭上を悪魔のように乱舞しています。そのときポトリとなにか顔に当たりました。雨かなと、手でさわってみると、プーンとガソリンの臭いがするではありませんか。敵機はガソリンをまいて焼夷弾の直撃をかけてきたのです。はらわたの煮えくり返る思いですが、どうすることも出来ません。隣に母と並んで坐っていたどこかの上品な老婦人は、さきほどからずっとお念仏を唱えどおしです。私も他の人達と力を合わせ、防空頭巾を池の水に浸しては吹雪のように降りかかる火の粉を夢中ではらいのけていました。
どのくらいの時間が過ぎたのか、ふとあたりが次第に静かになって来たのに、皆われに返りました。いつの間にか敵機も去り、東の空か白みはじめ、長い夜が明けたのです。
 親子三人、しばらくは放心状態で口もきけませんでした。私達はふたたび九死に一生を得て助かったのです。一晩、生死を共にした老婦人が、「助かって本当によかったですね。火の粉をはらって下さってありがとう。おかげさまで駄目だと思っていた家が焼け残っていました」
といって、自宅からわざわざおにぎりを持って来て下さったのです。異臭の立ちこめる焦土の中で、いただいたあのおにぎりの味は、その人の温情と共に、一生忘れることが出来ないでしょう。昼すぎ親類の者が、私たちを探しにやって来ました。
 学校や心あたりを探したが見つからず、百パーセントあきらめていたとのことでした。
 母をリヤカーに乗せ、徳川邸を後に余煌くすぶる市電通りを黙々と歩いて行きました。途中、静かな谷中の通りにさしかかったとき、まぶしいほどの陽光に照り映えて桜の花だけは、あでやかに咲き誇っておりました。
 
水田に座り込んで 小林正子 (当時・芦屋市茶屋之町在住)
 
昭和二十年六月から終戦にかけて、阪神間もご多間にもれずB29の来襲をたびたび受けた。
そのつど交通は遮断され、二十二歳の私は勤め先の勧業銀行神戸支店から、阪神電車の線路づたいに芦屋まで家路をいそぐ。三宮あたりの阪急高架下には、その日の爆死者が百体、二百体と、整然と縦に一列に並べられていた。
死者はすべて焼夷弾のために蒸し焼きになり炭化している。人間は焼けるとそのままの形で縮むのか、ちょうど五、六歳の幼児のような大きさで、黒い人形そっくりだ。そして申し合わせたように胸を地につけ、そり返っているので、遺体はすべてうつぶせである。身元のわかった遺体には花やムシロがかけられているが大部分はそのままだ。
 春日野道あたりで馬が倒れていた。これは機銃掃射によるもので、遺体は損われていない。ひっぱっていた車など散乱していないところをみると、馬方さんは助かったのかも知れない。その横を人が行き交う。人間は緊張の極限にきたとき、不思議に静かに行動する。矛盾を感じるのは爆撃をうけた地区と無傷の地域、昨日のままの平和な街並を通る時はどれがほんとうの今日なのか、一瞬ためらう。
芦屋は幸い今日の爆撃には無事だった。
 翌日、ふたたび三時間の道のりを自分の足で勤め先に向かうとき、昨日倒れていた馬は半分になっていた。夜の間に馬肉として盗まれたのだ。私だって近くに住めば家族のためにそうしただろう、ここに一切れの馬肉があれば……。
 この日、たどりついた銀行は、昨夜の焼夷弾攻撃をうけてくずれていた。銀行は海岸通りによく見られる赤レンガ造りなので、まず瓦礫の取りのぞき作業が今日の仕事始め。幸い金庫や地下室は無事だったが、外観は焼けただれており、すぐに開けるのは危険なので、近くの他銀行からお金を借りて開店する。それでも二人、三人とお客さん。
 昼、瓦哩に腰をおろしてお弁当を開く。紙に炒り豆を包んできた人、大根ご飯(細かくきざんだ大根七分に米三分)など、仲間が集まってつまんだりつままれたり。
目の前の市電道(栄町二丁目)を越して、焼けくずれた南京町から元町通り一帯が、スポンとひらけていた。南京町は文字通り中国人の市場だった。くずれた防空壕から遺体が掘り出されていたが、中国人の遺体は必ずアグラを組んでいるので識別しやすいと、作業中の軍人さん(陸軍)が教えてくれた。
帰途、阪急高架下の三宮劇場はまだ猛煙と炎を吹き上げている。ここはその後一ヵ月あまりも異臭を放っていた。多くの人が焼夷弾の直撃をのがれて高架下に逃げこみ、ここで焼死したと聞く。
 そしてついに、芦屋も初めての焼夷弾、爆弾の集中攻撃をうけ市内の三分の一が灰になった。正確には昭和二十年八月六日午前零時、広島原爆の八時間前である。
 寝入りばなに空襲警報が鳴って敵機の来襲を告げたので、いつものように身仕度をして家族全員(父母に私、女学生の妹。悪いことに母の里に疎開させていた幼い弟妹二人も国民学校の夏休みを利用して昨日から帰っていた)庭先の防空壕に飛びこんだ。壕は父の手づくりで一畳あまり、頑丈にできている。一時間ぐらいで警戒警報に変わったので壕から這い出し、夏のことなので外していた蚊帳を釣って床にもぐりこんだ。そのとたんに焼夷弾の集中攻撃が始まったのだ。(B29、200機の波状攻撃ということを後で知った)あわてた私たちは、裸足のまま壕に飛ぴこんだ。無気味な照明弾がゆらりゆらりと空中にとどまり、あたりは真昼のような明るさだ。これは駄目だと思って我に返った時には壕の中が蒸し暑くなっていた。幼い弟がしきりに喉のかわきを父に訴える。父は壕をぬけ出し台所へ走って柄杓に一杯の水を運んできた。バケツを下げて走るという正常な神経はすでに麻蝉していたのだろう。
 さらに暑くなったとき、このままでは蒸し焼きになるという恐怖が私たちをおそってきた。「町内会の壕へ逃げよう」と父がいった。阪神の線路を越すと水田だ。田には水がある。再び道を引き返し土手を攀じ登って三メートルあまりの高さを向こう側に飛び降りた。線路の枕木も燃えている。水田の泥に足をとられながら火の粉の降りかかるのが比較的少ない田んぼのまん中で、泥水を体にかけ合いながら私たちはへたりこんだ。家族六人、とにかく生命さえあれば……と肩をよせ合っていると「やア、きれいやナア」と無邪気な弟の声。火の粉をふりまきながら、一条の線光となってシュルシュルと落下する無数の焼夷弾は、なるほどこの世のものならぬ美しさだった。
 

 永峰秀樹と『数盤』そろばん 『文学と歴史』第6号 「甲州の和算家」弦間耕一氏著抜粋 一部加筆

2023年09月07日 08時10分14秒 | 山梨 文学さんぽ

 永峰秀樹と『数盤』そろばん
『文学と歴史』第6号 「甲州の和算家」弦間耕一氏著抜粋 一部加筆

 そろばんが中国から日本に渡来して、実用化するのは、江戸時代に入ってからのことで、毛利重能の『割算書』や吉田光由の『塵劫記』が著わされ、普及していったのである。
 和算の伝統は、そろばんの中に活かされ、簡便な計算機磯が出現しても、珠算塾はなかなかの盛況を示している。
県内で大きな珠算学院を経営している、甲府市上石田三三番地の相川源治先生は、そろばんの蒐集家としてもよく知られている。その相川源治先生の所には、そろばんの当て字を並べて作った珍しい「のれん」がある。
 それらの当て字の主なものを紹介してみよう。

 算馬  割算書   毛利重能  元和八年 
 十露盤 毛吹草   松江重板  寛永十五年
 算番  算元記   藤岡茂元    明暦三年
 算盤  訓蒙図嚢  中村陽斉  寛文六年
 珠盤  数学夜話  近藤遠里  宝暦十一年
 珠算  算学定位法 小川愛道  明和五年
 ろくろ 物類称呼  越谷吾山  安永四年
 十路盤 早変胸機関 式亭三馬  文化七年
 揃盤  松屋筆記  小山田与馬 文化十一年
10、算玉盤 広用算法  藤原徳風  文政十年
11、球子盤 算話随筆  古川氏一  天保期
12、十六盤 いろは文庫 為永春水  天保十年
 13、珠算盤 真元算法  武田真元  弘化二年
 14、数盤  華英辞典  永峰秀樹  明治十四年
 15、数版  大言海   大槻文彦  昭和七年
 ざっと十五の当て字を掲げたわけであるが、昭和三十五年に出版された『そろばんの歴史』には、四十。
昭和五十四年に発行された『ものがたり珠算史』には、出典不明のものを含めて五十五の当て字や異名がぁる。
 ここに掲げた十五の中には、『浮世風呂』の著者で知られる式亭三馬や『春色梅暦』を書いた為永春水が出てくる。
 明治になってからは、本県出身の永峰秀樹が使った、『数盤』がある。
相川源治先生の「のれん」 には、疎呂盤・数盤・算呂盤・球算など鮮名に記されている。
 永峰秀樹は、嘉永元年に巨摩郡浅尾新田(明野村)の蘭法医小野通仙の四男として生れ、微典館で学んだのち幕臣永蜂家を継いだ。
生家には泉、春助、琢輔と三人の兄があったが、いずれも医者になった。長兄の泉は、長崎オランダ館医シーボルト門下の戸塚静海と、巨摩郡藤田村(若草町)出身の蘭学者広瀬元恭に師事した。彼は種痘をひろめ、明治三年に県立病院の設立を提唱して実現させたほか『峡中新聞』の編集、『甲斐国志』の校訂『山梨県地誌略』の刊行などをやっている。秀樹はこの兄泉から漢籍の手ほどきなど、多くの感化をうけ育てられた。
 秀樹は、明治になって海軍兵学校に学生として入るが、秀才だった彼は間もなく、教授になることをすすめられ、はじめは数学教授、のちに本格的な英語教授となる。開校したばかりの兵学校では、学生も教授も同じようなレベルで、教え子の中に東郷平八郎(のち元師)や山本権兵衛(のち首相)らがいた。
 この秀樹は、山梨県人に意外と知られていないが、明治八年に日本で初訳の『アラビアンナイト』を出し、その後、ギブー原著の『ヨーロッパ文明史』などを抄訳し、英文学者として大きな功績を残している。
秀樹についての研究は、保坂忠信先生の『郷土史に輝く人々』で詳しい。今川徳三先生も毎日新聞に寄稿されている。
 『数盤』のおもしろさだけでなく、明治十一年に甲府の内藤伝右衛門によって出版された、永峰秀樹著『筆算教授書』は山梨の数学史を研究する者にとっては、明治の筆算を知ることのできる貴重な書である。


江戸隅田川界隈 八丁堀

2023年09月07日 05時08分08秒 | 歴史さんぽ

江戸隅田川界隈 八丁堀

京橋川の下流、白魚橋の東の川筋を八丁堀という。八丁堀は中ノ橋の下を流れて、稲荷橋のところから隅田川に注ぐ。八丁堀の名は、寛永年中(一六二四~四三)に、船の便利を計って八丁にわたる堀をこしらえたためともいい、また、名主の岡崎十左衛門の先祖は、三河国岡崎の八丁村の者で、家康入国と共に江戸に出て来てこの土地を賜ったので、八丁村にちなんで八丁堀と名付けたともいう。

いずれにしろ、初めは川の名であったのが、この辺一帯の町の総称(中央区日本橋茅場町一丁目、二丁目、三丁目のうちと、八丁堀一丁目、二丁目、三丁目のうち)ともなった。北岸を北八丁堀、本八丁堀、南岸を南八丁堀といった。 

八丁堀は、江戸の治安に任じる、南北面奉行所の与力・同心の居住する

地区であった。三田村鳶魚によると、大体、与力は二百坪、同心は百坪くらいの役宅に住んでおり、扶持高は、与力は年功にも寄るが、ほぼ二百有、同心が三十俵二人扶持であったという。

 『江戸砂子』に。

 八丁堀 五丁あり、北八丁堀という。五丁目に稲荷橋あり、南橋詰に稲荷の社あり。とあり、五丁目に稲荷の社があった。

  腕木にも彫物のある稲荷橋

この辺りには町奉行所付きの与力、同心の住まいが多く、北町奉行遠山左衛門尉景元(通称金四郎)が彫物をしていたことに掛けた句。「腕木にも」の「も」にそれが表れている。稲荷橋の腕木には何かの彫刻があったのであろう。

 八丁堀三丁目には、かの紀文大尽として名高い紀伊国屋文左衛門の邸宅があった。その実人生は多分に歴史的な俗説に覆われていて定かでないが、俗説に従うと、ある年の十一月八日の績祭のころ、風波のため航路が絶え紀州蜜柑が江戸で騰貴し、地元の紀州で下落した千載一遇の機会に、決死の覚悟で蜜柑を江戸に輸送し、一挙に五万両の巨利を博した。

「沖の暗いのに白帆が見える あれは紀伊国蜜柑船」

という俗謡により、今も世人に深い印象を与えている。資産を得た文左衛門は江戸に出て八丁堀に居を構え、幕府の御用達商人となり、上野寛永寺の根本中堂の資材調達などを行って巨富を積んだ。また明暦の大火の折、機を見るに敏な彼は昼夜兼行して木曾に至り、木材の買い占めを行って巨万の富を得たともいう。その豪奢な生活は、同時代の奈良屋茂左衛門と並び称され、「紀文大尽」として世に持て囃された。

『武江年表』の「元禄年間(一六八八~一七〇三)の条に、

 

  本八丁堀三丁目住紀伊国屋文左衛門(材木屋にして世にいう紀文大尽なり。俳号千山という)、霊巌島住奈良屋茂左衛門(材木屋なり。世にいう奈良茂大尽なり)、この両人、元禄中俄かに大分限となりし人の子にて、花街雑劇に遊び、種々の娯しみをなし、巨万の宝を費やしけること、諸人の知るところゆえここに贅せず。

とあり、二人とも財にあかして豪興に贅を尽くし、ともに蕩尽したことがわかる。

  紀伊国短蜜柑のように金を撒き 大門を八丁堀の人が打ち

先に挙げた鞴(ふいご)祭というのは、鞴を用いる鍛冶屋や鋳物師などがその守護神を祭る神事であるが、前の句は、鞴祭の時、鍛冶屋が蜜柑を撒くように、記文が金貨を撒いたというので、ある年の節分に吉原で小粒や小判を撒いたという紀文大尽の名高い豪興の振舞い。後の句の、「大門を打つ」というのは、吉原を一人で買い占め、大門を閉めさせて外の客を入れずに遊興する意で、紀文は吉原の大門を打つことが二度に及んだという。

因みにいうと、当時「日千両」という語があり、一日に千両の金が動くという意で、日本橋の魚河岸、二丁町(堺町・葺短町)の芝居、吉原の遊里の三か所について言われた。つまり、大門を打つには千両の金が掛かったのである。後の句は紀文が吉原を買い占めたという意。

 なお、神田にも八丁堀という地名があった。ここも元は堀の名で、常盤橋の西北竜閑橋の辺から東進し、馬喰町に達した堀で、明暦の大火(一六五七)後、防火のために開いた八丁の堀。神田堀、神田八丁堀、銀町堀、銀堀などという。天和年中(一六八一~三)に掘られ、安政四年に埋められた。

 

 (栃面屋弥治郎兵衛は)やがて江戸に来り、神田の八丁堀に新道の小借家住まい、少しの貯えあるに任せ、江戸前の魚の美味に、豊島屋の剣菱、明樽幾つとなく、長屋の手水桶に配り、ついに有り金を飲み尽くし、(下略)(滑稽本「東海道中膝栗毛」発端)そもそもわれわれは、神田の八丁堀に年久しく住まいいたす和泉屋清三と申すものの家来なり。(黄表紙「金々先生栄花夢」)

(女郎)もしえ、ぬしの家は、花菊さんの客人の近所かえ。

(息子)いいえ、違いやす。

(女郎)どこざんすえ。(息子)神田の八丁堀さ。

(女郎)嘘をおつきなんし。よくはぐらかしなんすよ。

(洒落本「傾城買四十八手」)

などとして用いられ、江戸の文学作品に登場する神田八丁堀は、特異な用い方がなされ、架空の人物の住む所、あるいは三つ目の用例のように、すぐに嘘とわかるようにわざと戯れにいう地名として用いたりした。