太平洋戦争 空襲二度の罹災 国分 等
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
(当時・東京都淀橋区柏木三丁目在住)
昭和二十年四月と五月、淀橋区柏木三丁目、今の新宿区北新宿一丁目で二回空襲に遭い、二回焼かれた。家族は私ら夫婦に、十六歳の長男を頭に男女五人の子供で、長男は病気のため中学五年を休学、ニ女は学童疎開で群馬県草津にいた。
空襲は必至と考え、家族は庭の防空壕にかくれる手筈であったが、長男は医師から絶対安静を命ぜられていたので防空壕に入れることはできず、とりあえず押入れにかくして爆撃の危険を防ぐことにした。この方法はこれまで警報が出るたびに実行してきた。庭から長男の名を呼ぶ。返事をきけば何となく安心した。 四月十四日、夕食のあとで空襲警報が出た。隣組組長の妻君が「退避!退避!」と叫んで走る。切迫した空気を感ずるが、どうも爆弾攻撃のようでない。爆撃音がきこえない。そのうちにご焼夷弾だ、火事だ゛というどよめきが伝わってきた。
防空壕や押入れではだめだと判断して防空壕に蓋をして土をかけた。病児を、家族をと考えるが、なかなかまとまらなかったが、近所の人がリヤカーを貸してくれたので、長男を乗せ家族が離れないよう群集の列に流されて、隣の街の小学校に避難した。
長男の容態は悪化したように見えないので、私は一人家へ引き返した。日頃の防空訓練を一度も実行せずに、家を焼かれることは何としても口惜しかった。せめてバケツーぱいの水でも住み慣れたわが家に掛けてやりたかったのである。家にはまだ火がついていなかったが、疾風が火の粉を抱いて地上を走っていた。夢中で家の中から父の遺した柱時計をかかえて外に飛び出した。家のまわりはもう濃い煙に包まれて、炎がだんだん大きくなっていった。
夜が明けて焼跡に立って見廻すと、四谷、牛込の方から大久保、柏木、東中野の方へ黒々と拡っているが、この柏木地域は半分くらい焼け残っているようだった。防空壕の中は無事で若干の食糧と衣料が助かり、また知人の好意で近い所にその日から住める家も見つかった。
日本がこの戦争に勝つために祖先が神々に捧げた犠牲と解釈すれば、昨夜の被害を耐える気力が湧いた。
表通りの焼跡に立っていると、焼け出された人達が続々と歩いていた。一人の男が逢う人ごとに万歳を叫ぶ。私の傍にきて「万歳・沖縄の米軍は全面降伏しました。よかったね」と私の手を握って行き過ぎた。一瞬、私はとまどった。信じたかった。そういう発表があることをどんなに望んでいたことか。だが、すぐ冷静に返った。あの追い込まれた戦局が一夜にくつがえるはずはない。私は関東大震災のとき、流言飛語が軍隊をさえ迷わしたことを知っていた。とはいえ、今日の飛語は、空襲に打ちひしがれた人々に寸時の光を与えたこともたしかである。
そのころ私の会社は、工場を飯田市に疎開する作業を進めていた。社員の家財道具も逐次送り出して、五月二十六日私の荷物を運ぶことになった。その前日二十五日、多くもない焼け残りの品を梱包して玄関の間に積み上げた。その夜また空襲警報がなり出した。間もなく敵機は頭上を飛び、焼夷弾の落下音が近く追ってくる。先月の経験はあったものの、だいぶ条件は悪くなっていた。長男の病状は少し悪化していたし、妻の実家の嫁と子供一人が身を寄せていて、家族は九人に増え、防空壕も形ばかりでほとんど役に立たなかった。
私はためらわずに家族を先月の焼跡につれて行き、長男を寝かせてまた一人家に引き返した。バケツーばいの水を提げていた。まだ火がつかない家の縁側に立って、何か品物を持ち出そうと見廻したが、気持ちをかえて玄関に積んである荷物にザッとバケツの水を投げ、外に走り出た。煙がもうもうと巻いている。二男が飛んできた。お父さんがあぶないとどなる。早くお母さんの所へ戻れと押し返し、少しの間家が炎に包まれる有様を見てから眼を上げると、自分の周囲は全く煙に包みこまれて方角もわからない。二男があぶない、と一方へ走り出したが、もう全く見通しがつかなくなり、無我夢中で土地感を頼りにようやく血路を開いて家族の傍へ戻った。そこに二男の元気な顔を見て、思わずその頭に手を置いた。
焼跡には幾かたまりも家族がうずくまり、次々と焼夷弾を投げては東の暗闇に溶け込む敵機を見上げて、「畜生・ 畜」と憎しみの歯がみをした。高射砲も撃たず、迎撃機も飛ばない東京の夜空、敵機はその翼を火炎に赤く染めながら、頭上スレスレの低空に跳梁した。
夜が明けていっさいが灰と化した。わが家の焼跡に、昨夜入浴した風呂桶のタガと釜だけが灰に埋まっていた情景は、三十年後のいまなお鮮かに思い出されるのである。
太平洋戦争 空襲 君の死 伊瀬知 徹
(当時・神戸市兵庫区松本通在住)
二十年六月五日、焼け残っていた神戸市の東半分がB29の爆撃により全滅した。
翌六日、工場になっていた長田の中学校三年生の私達は、ポツリポツリと学校に集って無事を喜び合ったが、某君の消息だけがわからなかった。肺結核で、長身の上体を折り、薄い胸をおさえて咳込むのをみんな敬遠していたが、それだけにいっそう身の上が案じられた。結局、同じ事務所で働いていた私が様子を見に行くことになった。彼の家は灘区の護国神社(現王子動物園)のすぐ上である。学校からは七粁くらいの距離だったが、国鉄も市電も動いていな
いので、徒歩で行くより仕方がない。昼過ぎには帰れる予定で出発した。
国鉄神戸駅の北にある大倉山公園のあたりまでは、三月十七日の焼夷弾爆撃で焼けてしまったので、様子は見知っていたが、新たに焼かれた下山手通にさしかかると、まだあちこちから煙がたち昇っている真黒な焼野原がずっと向こうまでつづいている。今回は焼夷弾に混って爆弾もかなり落したとかで、西神戸のようにポツポツと焼け残った家は全く見られない。噂のとおり石屋川まで何もなくなったというのは本当かも知れない、とその時始めて昨日の空襲の激しさを想像することができた。
下山手通八丁目の親和学園南の市電筋にあった産婦人科医院の焼跡で、十人あまりの焼死体を見たときは、やはりショックだった。前回の空襲の後、夢野の火葬場の中庭に数百の焼死体が集められた。
衣類も頭髪も全部焼け失せ、褐色の蟻人形のような死体の山に薪を投げ込み、油を注いで処理する光景を見ているので、もう焼死体には驚かないつもりだったが、妊婦や病弱の婦人達が折り重って死んでいるのを見ると、新たに悲しみと憎しみが胸にたぎった。赤ん坊の死体のなかったのが、せめてもの救いだった。
広い市電筋は、よくこれだけの人が生きていたものだと思われるほど、大勢の人達でごった返していた。やっと持ち出した蒲団やトランクを荷車に乗せて運ぶ男、半分壊れた釜や、ひしゃげたアルマイトのやかんや、食器類をリヤカーに乗せ、焼けたトタン板で覆ってやってくる老夫妻、モンペを血だらけにして小走りにいく娘、頭を包帯で巻いた巻脚絆の学生、泣きながら走り廻る迷子。そして道路の両側には、焼跡を茫然と眺めて立ちすくむ人の群があった。負傷しなかった者も、みんな煤と泥で真黒な顔に、目だけがギョロリと光っていた。
一面にただよう独得のキナ臭い煙を吸いながら、つぎだらけのズック靴の、薄い裏ゴムを通してくるアスファルト道の熱気も、喉のかわきも忘れ、一種の興奮状態でひたすらに歩きつづけた。
布引のあたりで偶然遠縁の者に会った。命からがら何も持たずに逃げ出し、家族はみんな無事だったとのこと。一しきり昨日の空襲のひどさをきかされた。最初小型爆弾で家が壊され、そこへ焼夷弾の雨が降りそそぎ、ちょうど薪をばらまいて一せいに火をつけたような騒ぎだったという。爆弾の直撃を受けて防空壕に入っていた人が全滅したり、家の床下の防空壕で最後まで頑張って逃げ遅れた人、炎の道を駆けていて頭に焼夷弾の直撃を受けて即死した人など、私達の家が焼かれた三月十七日の空襲に数倍する凄さに、溜息をつくばかりだった。
一戸に四斗樽一杯の防火用水、数箇の砂袋と、竹竿の先に藁縄で編んだ綱をくっつけた火たたきと、バケツによる注水で空襲の被害は防げると教え込まれたとおりを忠実に守ろうとした人達ほど、生命財産の被害が大きかったときかされて、返す言葉もなかった。
東へ進むにつれて破壊の度はひどいようだった。爆弾の数が多かったせいであろう。もう、五体、+体と焼死体を見かけても驚かなくなる。やっとの思いで護国神社のあたりへ着いた。記憶をたどり、某の家を探し当てたが、石段の上にコンクリート塀の一部があるだけだった。しばらく歩き廻ってあたりをいく人に声をかけるが、付近の住人は見当らず、消息はつかめなかった。再び某の家の石段を上った。せめて死体か遺骨の一部でも見つかれば、というつもりだったが、まだくすぶりつづける焼跡は高温で、とても踏み込めない。止むを得ず石段の上で合掌して帰途についた。もう正午はとっくに過ぎていた。
彼の消息は、三十年後の今も全くわからない。記録にはこの爆撃の被害は、死者三千百八十四、負傷者五千八百二十四、被災者二十一万とあるが、彼のように誰も葬ってくれる人のないまま眠り続けている仏も、少なくないと思われる。