近世俳人ノート 西山宗因
星野 麥丘人 著
談林俳諧の前にはいうまでもなく貞門流の俳諧があったわけだが、今日よりこれをみるならば、これら二者の流れがあってこそ蕉風の開眼もあったといってよかろう。
もともと談林が生まれるまでは、というよりは松水貞徳の在世中は、貞門俳諧が絶対の権威をもっていたことはいうまでもない。しかし権威の象徴たる貞徳が没するや、われこそ貞徳の跡なりとして、門流互いに威を張っての争いが起こることになった。
いつの世どこの世界にも見られる門閥、地位をめぐっての競争である。
安原正章(貞室)、野々口立圃、松江重頼、山本西武、北村季吟など、いずれも個性のある作家が輩出していたのであるが、貞門俳諧としては分裂せざるを得ぬ趨勢になっていく。それは貞徳というリーダーの存在が大きかったことによる悲劇といえないこともない。
「抑、はじめは俳諧と連歌のわいだめなし、其の中やさしき詞のみをつづけて連歌といひ、俗言を嫌はず作る句を俳諧といふなり」
といった貞徳の言葉はよく引用されるところだが、俗言を用いること即ち「俳言」のいかんに、句の価値を認めていたのである。俳言をどのように使うか、このために言葉の研究が進歩したことは貞門俳諧の一つの手柄であったといわれるが、一方ではそれが災いして言葉の遊戯に陥ったことも否めない事実である。そのうえ、貞門俳諧には連歌からくる窮屈なしきたりがあったりしたので、そこに談林の発生の要素が胚胎していたといってもよかろう。
これは/\とばかり花の吉野山
作者の名は忘れていてもこの句を知っている人は多いであろう。それほど人ロに諮戈している句である。作者は正章改め真宗であることはいうまでもない。
正章は自ら貝徳の後を継ぐものはわれなりとして貝徳の一宇をとって貝室を名乗ったのだが、この吉野山の句のような傾向には進まなかった。もしも彼がこの傾向を押し進めてさらに脱皮していったならば、俳諧の流れは少しく変わったものになっていたかも知れない。だが、そうはならず、また立圃や重頼などもそれぞれ模索の道を辿るのである。そのために貞徳亡き後の俳壇は大変騒がしくなってしまうのだ。もっともこの頃、俳諧師あまた連歌師のように生活が成り立ってきたことにも注意しておく必要がある。自説自流を述べるということは、一つには生活のために門戸を張るといえないこともなかったのである。貞室がわが威を張るために、匿名にて同門の名だたるものをこきおろし、ひとり貞室のみが後継者に値するというようなことを述べたのも、要すれば己の生活がかかっていたからなのだろう。だが、生活ということでは、他の門流にしたところで同じである。同じであってみれば、反目し合うのは結果として当然の現象となってくる。
具体的なことはいま省くが、この騒々しき俳壇のかかから、談林が貞門俳諧を抜いて華々しいスタートを切ることになる。けれども談林も文学史的にみれば、所詮は次の代への橋渡しに過ぎない存在である。たださきにもいったようにこの橋渡しがなければ、蕉風の展開はみられないのであるから、その意味では談林の存在を看過することはできない。
ところで、談林の総帥西山宗因というが、宗因は自身は総帥などという地位を特に望んでいたわけではあまい。苦労して連歌師の地位を得た俳諧をもっていまさら一門を率いようとする気など、それほどに持ち合せていなかったような気がする。すべてこれ時の流れに逆らわずにいる裡に、談林の祖西山宗因ができあがってしまったのではないか。
談林の語は、仏教における学寮をいう「檀林」から江戸の田代松意らが称したといわれているが、宗因が江戸に下った折(一六七五)に、この松意の草庵で、江戸談林のメンバーが集い、
されば爰に談林の木おり梅の花 宗因
世俗眠をさますうぐひす 雪柴
朝霞たばこの咽よこおれて 在色
駕籠かき過るあとの山夙 一鉄
に始まる「談林十百韵」を三日二夜で満座したことはよく知られている。宗因は発句のみ乞われて出座はしていなかったが、この集は同年すぐに刊行され、「談林」の証とともに大いに世の注目を集めたということである。そして談林俳諧が 俳指示金目に流行するのだが、その辺の事情を推量するに、当節の俳壇における流行とさして変わらぬものがあるような気がする。当時においてすら談林のバスに乗り遅れたら、取り残
されると俳諧者は思ったに違いないのだ。だからこそ、談社宅貝同伴指にとって特わって一時期を劃し、やがて次代への橋渡しともたるのである。
橋渡しといえば、特に十七世紀後半にかけての貞門・談林入り混じっての論争については、俳諧史上に貞門談林論争史の年表示つくられているくらいだが、その多くは、論争といえるようなものではなくて、泥仕合ともいうべぎ次元の低いものである。宗囚は大将になっているわけだから、時にはその矢面に立たされることもあったが、彼自身がこれを正面から受けとめて論争するようなことはなかったようである。これにいかにも宗因という人物が、一匹狼的な存在でなく、悠容たるものを身に具えていた人間としてぼくなどには迫ってくるのである。少し文学的にいうならば、宗囚の詩人的な素質が、論争などというものを心中ひそかに敬遠していたのかも知れない。
では、批判に対する宗因の反駁はなかったかというと、ないわけではない。だがそれは後年の撰集のなかに組み入れられていることによって、それを知るといった具合である。ゆえに、大将が部下を率いて抜刀し、かくて敵陣に乗り込むというようなことではない。右のよき例として、宗円編の撰集『阿蘭陀丸二番船』(延宝八年)のなかに、宗因の態度と立場を示す恰好な一文がある。
(前略)
そもそも俳諧の道虚を先として実を後とす。和歌の寓然連歌の狂言也。連歌を本として連歌を忘るべしと、古賢の庭訓なるよし。予道に遊ぶ事既年あり。聞道(きくならく)、もろこしの何某、五十にして四十九年の非を知と。いはんや七十に及んで他の見るほどの自の非を知るまじきや。非を好に理あるを
しれば也。但、世に賢愚貧福あり、律義不律義、上戸下戸、武家の町風法師の腕だて、赤烏帽子、角頭巾、伊達の薄着六方の意気、をの/\その器にしたがふ。兵心にあらざれぱしらず。古風・当風・中昔、上手は上手、下手は下手、いづれを是と弁ず、すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻の戯言也。谷三ツとんで火をまねく、皆是あだしのの艸の上の露。
誰が読んでも、ここには宗因の俳諧に対する考えが端的に述べられていると思うであろう。それにしても、各自が好きなことを好きなようにして遊ぶことが最上で、所詮、この世のことは夢まぼろしに過ぎないのだ、というに至っては達観も極まれりといいたくなる。この一文は、延宝二年(一六七四)の自著『蚊柱百句』への批判に寄せたものであるが、内容はともかくとして、とるに足らざることに筆を執ったという自嘲的な気分が後に残ったのではないか。それゆえ、当時は発表しなかったのであろう。「延宝二年の夏の比、よしなき筆をそむる所也」と、右の文の末尾に記してあるところからも、なお一層そのように思われるのである。
宗因は元来武家の出である。談林七世を継いだ谷素外の『梅翁宗因句集』の序の一節に、
当流の始祖梅花翁宗囚俳諧のあやある言葉に其香かくれなく陽春の色を見せしは寛文延宝の頃にや、此翁はじめは西山豊一として時の肥後侯の藩中八代の加藤正方に属し、文雅につけても覚えめでたかりしに、寛永九年大守さるこることの有てはからずも武門を遁れ、身を泉水の行方にまかせ、心を花月のながめにとどむ。
とある。やや美文調だが、肥後熊本の加藤家が改易となるとともに、正方は大名浪人となり、宗因もまた一介の浪人となる。この主従はいわばインテリ浪人である。宗因が連歌に志すようになるのも、主君正方の感化指導によるものといわれている。宗因が正方から受けた影響は極めて大きいのである。浪人とはなっても二人の主従関係は、正方が芸州浅野家に預けられるまでつづき、やがて宗因は京より大阪に赴き天満宮の連歌宗匠に就職することになるのである。京にとどまらず大阪へ行ったというのが面白いと思う。
時に宗因四十三歳(一六四七)であったという。これより後半の人生が、連歌師としてまた談林俳諧の先達として展開されるのである。
宗因が俳諧に力を入れるようになったのは、連歌師の職をわが子宗春に譲ってからだといわれている。
それは寛文十年(一六七〇)巡遊の九州小倉で出家してからのことと思われるが、連歌師としての名声はすでに高く、そのうえに俳諧革新の意気込みを示したわけであるから、世の喝采を侍するようにできていたといわざるを得ない。だが、宗囚についた大阪貞門系の俳人をここで見逃してはならないと思うのである。さきに、宗因は談林の総帥に迎んでなったのではない、というような感想を述ぐ傍ら、一旗あげんとする輩が多かったのではないのか。彼のもとに集まった気負の俳人のなかでは、西鶴を最右翼にあげねばならないだろう。宗因に社歌師の教養を十分に生かしながら、貞門流とは違った俳諧を打ち立てるにふさわしい人物ではあったが、この師のもとでアドバルーンを高く上げた西鶴こそ、真に「談林」の名に値する俳人というべきではなかったかと思う。
或問(あるひととう)
何として世の風俗しを放れたる俳諧を好るゝや。
答曰く
世こぞって濁れり、我ひとり清り。何としてかその汁を啜り、共栖をなめんや。(中略)朝于夕聞うたは、耳の底にかびはへて口に苔を生じ、いつきくも老のくりごと益なし。故に遠き伊勢国みもすそ川の流を三盃くんで酔のあまり、已も狂句をはけば、世人阿蘭陀流などさみして、かの万句の数にものぞかれぬ。
これは西鶴の処女撰集ともいうべき『生玉万句』の序文の一節である。阿蘭陀流西郷などといわれもした西鶴の、保守派に対する小気味のよい啖呵である。俳人としては談林とともに消えた西鶴の気性がこの辺のところからも窺われる。西鶴は組合でいえば書記長か革新先端の執行委員というところである。委員長の宗因は、実力を持ちそれを示しはするが、軽挙妄動はしないのである。
おかしな例えとはなったが、談林が新風からやがて異風異体の極端に走っていくなかでの宗因晩年の書簡
には、
「連歌おもしろく成申候。誹は当風成まじくおぼえ候。秋風が新しき口ぶり、三吟を見て我を折候。愚句古きうへに躰いやしく思ひなされ候」
などとみえる。秋風とは、京都の三井秋風のことである。
貞門俳皆にあき足らなかった彼も、こんどは自分が中心であった談林の新奇異体の極まれる姿に背を向けていくのである。ひとり西鶴のみならず談林のサムライたちが、斬新奇抜なるがゆえに行きつくところまで行ってしまうのはあわれでもあり、時の流れのいかんともなし得なかったところでもあろう。歴史的にみればひとり芭蕉のみがこれを出でて蕉風樹立に立ち向かっていくことになるわけである。
最後に宗因の発句を少しあげておくが、恐らく今日の人びとの興味の対象とはならぬであろう。
ながむとて花にいたし頸の骨
命なり素湯(さゆ)の中山香薷散
海はすこし遠きも花の木間哉
ほとゝぎす鬼神も慥かにきけ
雪に留めて袖打払ふだちん哉
これらの句は、古歌や故事を下敷きにして詠んでいることはすぐにわかるが、問題はこれが面白いかということである。しかし、面白くて流行した時代のあったことを、その時代の背景とともに理解しなければいけないであろう。
竹の子や井垣の内へ抜け参り
右の酒気さますは左扇哉
しら露や無分別なる匠どころ
阿蘭陀の文字か横ふ天津雁
談林の華々しさは、まさに仕掛花火のそれに似ている。宗因は連歌に戻ったであろうし、西鶴は散文の世界で成功するが、江戸談林の田代松意や京都の伴天連社高政などの最晩年はどんなものであったろうか。
井原西鶴の墓碑(誓願寺)大阪市南区上本町西4丁目1 -21
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます